人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2014年9月2日火曜日
恐怖に打ち克つ力
何かに立ち向かったり、乗り越える時に、いつも前に立ちはだかるものがあります。
恐怖や不安です。
この感情を踏み越えて行かないと、前に進んでいくことができません。
イエス・キリストが、処刑される前、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈ったそうです。
父とは神であり、彼らとはユダヤ教の指導者であり、ローマ兵です。
今まさに、十字架の上で殺されされようとしている時に、自分を殺そうとしている者を、哀れんで祈りを捧げる、
「汝の敵を愛し、汝らを責むる者のために祈れ」という教えを、最も過酷と思われる状況で、実践していました。
その姿を目の当たりにして、多くの人は胸を打たれたと思います。
普通の人間であれば、恐怖に押しつぶされてしまうでしょう。
「完全な愛は恐れを取り除く」というイエスの言葉が真実であることを証明しています。
しかし、未熟な私にとって、恐怖や不安との闘いは続いています。
イエスにとって、死は霊界への帰還であるのは、揺るぎない真実だったのは間違いありません。
死んで無になってしまうかもしれないと思うと、大きな怖れを抱いてしまいます。
死の先に、新しい世界が待っているのは、疑う余地のないことです。
けれども、死ぬ時は苦しいのだろうか?病気の痛みに耐えられるだろうか?周りの人を悲しませたり、迷惑をかけたりしないだろうか?と、つい考えてしまうと、恐怖に襲われてしまいます。
現実は、想像と少し違うようです。
霊界に行った人からのメッセージでは、死ぬ時は側から見ているより、苦しくないそうです。
痛くて耐えられなかったと言う話も、聞いたことがありません。
周りで悲しむ人もいるでしょうが、生命は魂であり、少しばかり早く次の世界に行くだけなので、必ず再会できることを、しっかりと伝えておくべきだと思います。
霊的な真実を知れば、知るほど、死の恐怖が和らいでくるは、間違いありません。
未来は、どうなるか分かりません。
分からないだけに、この先、どんなにつらく、苦しいことが待ち受けているのだろうかと、大きな不安や、怖れを抱いてしまいます。
不安や怖れを抱くと、穏やかな心は失われ、苦しく感じられ、いたたまれなくなります。
苦しく感じるということは、不安や怖れが、神の摂理に反している想いであるからなのかもしれません。
克服していかなければいけません。
今まで生きてきて、緊張を強いられる場面は数知れずあり、恐怖や不安に襲われて、それを拭い切れずに、怯えてしまうこともありました。
失敗を恐れたり、悪い結果を想像したりして、不安にかられて、持てる力が発揮されずに終わり、後悔してしまうこともありました。
恐怖や不安を追い払うのには、どすればいいのか?
勇気を出すしかありません。
魂は神の一部です。
そして、苦難を乗り越えていくことで、魂が向上します。
魂を向上させるために、人は生きていますので、苦難に立ち向かっていく勇気は、神の摂理に適っている想いのはずです。
神に摂理に適った想いは、神とのつながりを深め、神の力を受け取れます。
神の力よりも、強く、頼りになるものはありません。
従って、神の力を受け取るためには、勇気を出さなければいけないと考えられます。
その力を持ってすれば、心を侵食している恐怖や不安は、跡形もなく吹き飛ばされると思います。
恐怖や不安が消えてしまえば、霊力(神の力)の流入を妨げるものはありません。
勇気を出せば、神の力をふんだんに受け取ることができ、望む方向に進んで行けると思います。
つらくても、苦しくても、勇気を出すしかありません。
しかし、現実を見つめると、どうしても悲観的になり、勇気など出せないと思ってしまう時があります。
どこを、どう探しても、良いところは見つからず、悪いところだけしか見当たらない、絶望的な状況もあります。
激しい苦痛があったり、心を支えていく力がどこにもない時に、勇気を出すのは難しいと思われます。
そんな時は、祈ってみてはどうでしょうか。
「乗り越えていく勇気を与えて下さい」と。
魂は神の一部であり、つながっているため、祈りが見過ごされることはありません。
祈りにより、恐怖や不安が少しでも和らいだのであれば、回答として、神から力が与えられのだと思います。
もし、叶うのであれば、「病気を治して下さい」とか「今の苦しみからから逃れさせて下さい」と、祈りたいところですが、残念ながら、それは叶えられないと思われます。
なぜなら、すべては因果律によってに生じているため、結果(病気や苦しみ)を変えることはできないからです。
病気や苦難には、魂を向上させ、大切なことに気付かせるという、深い意味があります。
そうであるならば、魂が向上し、大切なことに気付いたのなら、病気や苦難は、過ぎ去っていくことになります。
もし、祈りで病気が治り、苦難が取り除かれるとしたら、魂を向上させる機会が失われてしまい、大切なことに気付くこともありません。
神の意図ではないことを、神が叶えるとは思えないからです。
しかし、苦難を乗り越えるようとする、真摯な祈りは、摂理に適っているため、勇気(力)が与えられるはずです。
勇気が与えられ、恐怖や不安が追い払われると、痛みやつらさも、いくらか和らいでくるのではないでしょうか。
そんな私も、少し前は神などに関心はなく、祈ったことはありませんでした。
今は、(摂理に適った)祈りに対して、導きが得られたり、力が与えられるのを知っています。
魂は神の一部であり、つながっているために、すべての人に力が与えられます。
祈りは、宗教的儀式ではありません。
生きる力を呼び込むため、人に与えられた、ありがたい恩寵です。
その恩寵に浴した方が、賢明です。
恐怖や不安の相手(対象)が外にある時に、克服するために、どうしても必要なものがあります。
それは、愛です。
愛は、好きという感情が発展したものだけではありません。
奉仕する、やさしくする、親切にする、思いやる、励ます、労わるなど、すべて愛に基づいた行いです。
自分と異なるものを認める、許すのも、自己犠牲がなければ成り立たず、愛が必要です。
恐怖や不安を抱く、最たるものとして、戦争があります。
ほとんどの国は、自国を脅かす者に対しては、敵とみなして、守るために攻撃をします。
何の理由もなく、脅かしてくるのであれば、自国を守るために、反撃するのはやむを得ません。
時代が古くなるほど、そんな戦争が多かったと考えられます。
現代では、国家間の連携が強くなり、無用に侵略する国家は、国際社会において非難され、制裁を受けます。
それでも、世界中で戦争や粉争が絶えることはありません。
人種、宗教、文化、言語の違いから、誤解が生まれて、戦争へと発展することもあります。
どちらが善で、どちらが悪と決められない争いが、ほとんどなのかもしれません。
認めない、尊重しない、許さないために起きる戦争と言っていいのかもしれません。
戦争になれば、爆弾や銃弾により、命を落とすかもしれないので、恐怖と不安な日々となります。
何とか終わりにするために、相手を降伏させる必要があると考えます。
そのために、攻撃をすることになります。
相手が降伏するまで闘おうとするならば、因果律が働き、相手から相応の反撃を受けることになります。
相手が傷つき、苦痛が生じたのならば、相手は報復し、自らが傷つき、苦痛を経験します。
攻撃をして、相手に恐怖や不安を与えたなら、自らが攻撃を受け、恐怖や不安を味わう結果となります。
自分から出たものが、自分に返ってきているだけです。
争いを終わりにするためには、元となった、根本的な原因を見つけて、改めることが必要です。
思いもよらぬ出来事は、いつ起きるのか分かりません。
その出来事により、自らが傷を受けてしまうことがあります。
憎しみを持ち、目には目をで、報復すれば、争いになるかもしれません。
もし、許せたのならば、争いは避けられます。
どちらに進むのかは、自分次第です。
認め合う、尊重する、許すことは、自己犠牲であり、苦痛を伴うかもしれませんが、神の摂理である「愛」を表現しているため、争いから生まれる恐怖や不安から逃れることができます。
私の歯科医院に、とても気難しく、少しでもこちらに不手際や失敗があると、容赦なく怒鳴られる、年老いた男性の患者さんがいました。
治療は、誠心誠意、行いましたが、どうしても気になり、納得できないことがありました。
客観的に問題はなく、これ以上の改善は難しいことでした。
以前、時間を取って、話をして、その時は了解して帰られましたが、また、突然来られました。
受付から、その患者さんが来られたと聞いて、怒鳴られた時の記憶がよみがえり、緊張しました。
前回と同じことを、話さなければなりませんが、どの様な反応をされるか、全く分かりません。
また、怒鳴られはしないかと思うと、「いやだ」という気持ちになりかけますが、相手を思いやる気持ちでいるように心がけました。
早く帰って欲しい思うと、どうしても表情や、言葉に表れてしまい、相手に伝わってしまいます。
言葉で丸め込もうとか、誤魔化そうとすれば、さらに不満が募り、怒りがこみ上げて、容赦なく怒鳴られたかもしれませんでした。
相手を思いやる気持ちで対応したので、怒りを爆発させるきっかけを失い、徐々に鎮まる方向へ向かっていきました。
しばらくして、心が落ち着かれて、帰っていきました。
話の内容よりも、どんな気持ちでこちらが対応しているのかを、しっかり見ていると感じました。
どこにでもある話ですが、相手を思いやる気持ちは、怒りを鎮め、結果として恐れや不安にとらわれずに済むことを、私は実感しました。
恐怖や不安を克服するためには、相手(対象)を忌み嫌っているよりも、親愛の想いを向ける方が得策だと思います。
神の摂理である因果律により、親愛の想いを向けるものに、怒りや憎しみの想いを返すことはできないために、新たな恐怖や不安が生まれることはないからです。
そうは言っても、恐怖や不安の相手(対象)に対し、親愛の想いを向けるのは、とても難しく思えます。
しかし、過去を振り返ってみると、幼い時には、嫌いな人が来ると逃げたりしたのが、少し大きくなると、嫌いな人が来ても、逃げたりせずに、向き合えるようになっています。
さらに、年月が経つと、嫌いな人でも、どうにか普通に付き合えるようになっています。
いろいろなことを経験し、成長しているからです。
さらに成長することが出来たなら、決して無理ではないように思えます。
忌み嫌うのをやめれば、相手(対象)の想いに気付くようになるかもしれません。
実は、何かを、必死に訴えているのかもしれません。
もし、訴えている想いを、素直に認めて、共感できたならば、相手(対象)との関係は変わってくるでしょう。
そうすれば、相手(対象)から生じる、恐怖や不安は、きっと少なくなります。
恐怖心は、人から理性と、生きる力を奪う、最大の敵です。
一刻も早く、決別すべきものです。
前に進んでいくには、乗り越えなければいけません。
恐怖と不安に打ち克ち、困難に立ち向かわせるのは、愛と勇気であり、それは神の力だと思います。
愛と勇気の大切さを、恐怖や不安を克服していくことで、学んでいるのかもしれません。
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