2014年8月27日水曜日

自分を大切にする


自分のからだを傷つけ、苦しんでいる人は、どうぞ最後まで見てください。



本当の自分とは、魂です。

目に見える肉体(からだ)は、魂を表現している媒体に過ぎません。

本当の自分は目に見えず、媒体である肉体は目に見えます。

従って、からだの変化には気付きやすいのですが、魂のありさまの変化には、なかなか気付きません。

魂のありさまの変化は、肉体上の変化として表れる時があります。

その逆に、肉体に影響を与えるのものは、心そして魂に影響を及ぼしています。

誰かに暴力を振るわれて、からだに傷を負ってしまったならば、少なからず心にも傷を負ってしまいます。

傷つけた人が、たとえ自分自身であっても、心に傷を負っています。



自分のからだを、自分で傷つける、自傷行為をしている人は、直ちにやめましょう。

生きていたいのだけど、うまく生きれない、罪の意識に苛まれて、とても苦しい状態に置かれているかもしれませんが、傷つけても、苦しみから逃れることは、決してできません。

それどころか、その行為は危険なばかりではなく、霊的に大きな罪を犯していることになります。

自らを傷つけるのは、人を傷つけるのと、罪の大きさに変わりありません。

その罪の償いのために、さらに大きな苦しみを経験しなければいけません。

苦しみから逃れたいために、自らを傷つければ、さらに苦しむことになるだけです。



自分のからだは、自分のものであり、どうしようとも、かまわないと思うのは、無知であり、傲慢です。

もし、自分にしている行為を、他の人にしたらどうなるでしょうか?

傷害罪で逮捕され、繰り返せば、刑務所行きになるでしょう。

自分のからだを、どんなに傷つけても、法律上、罪に問われることはありません。



しかし、世の中を支配しているのは、人間が作った法律だけではありません。

すべての人間は、逃れることができない、目に見えない法則に支配されています。

その法則では、自分のからだを傷つけるのは、他人のからだを傷つけるのと、同等の罪になると思われます。

もし、他人を傷つけてしまったら、後悔して、罪の意識に苛まれます。

自分を傷つける行為も、全く同じです。



からだは、この世で果たすべきことを果たすために与えられた、魂の大切な乗り物です。

与えられたと言うより、この世にいる時だけ、借りているものです。

その大切な肉体を傷つける行為は、見えない法則に反していて、自らの心の苦により、その罪を償わなければなりません。



少しでも楽になりたいと思ってする、その行為は、楽になるどころか、さらに心を苦しめる結果につながっています。

周囲の人に、迷惑や心配をかけていれば、さらに償いは大きくなります。



うまく生きれないこと自体は、罪ではありません。

うまく生きれないから苦しいのではなく、後悔し、自らを責めてしまっているから苦しいのだと思います。

世の中は、うまく生きている人と、生きれない人がいるように思えますが、そうではないのかもしれません。

後悔の念をあまり持たず、今を生きている人は、うまく生きているように見え、後悔の念が強いために過去に縛られ前に進めない人は、うまく生きれないと感じてしまうのだと思います。



そもそも、罪悪感を持つ必要はないと思います。

蒔いた種は、自らが刈り取らなければいけません。

すべてに因果律が働いて、罪悪感を持とうと、持つまいと、結果責任は、自分で引き受けることになるからです。

傷つける時の痛みや、傷から流れ出る血により、現状(結果)を寸毫(すんごう)足りとも、変えることは出来ません。




今までの生き方、言動に対して、悔やんでばかりいると罪悪感が生じて、因果律により苦しみを味わいます。

苦しみに耐え切れなくなって、罪悪感から逃れようとして、さらに自らを傷つけてしまっています。

傷つける行為により、罪悪感が増して、大きな苦しみが生まれ、さらに深く自らを傷つけようとします。



いっそのこと、手首をもっと深く切れば、苦しみから解放され、楽になるのではないかと思う人もいるかもしれませんが、それは大きな間違いです。

もし、そんなことをすれば、今、味わっているのとは比べ物にならないほどの、とてつもない後悔と罪悪感が待っています。

想像を絶する苦しみの世界に、長い間、閉じ込められます。

この世で、つらいことがあっても、乗り越えるという、魂の約束があったのを、自らが破ってしまったからです。

その約束をすっかり忘れてしまい、破ってしまった時の後悔は、今の比ではありません。

いくら後悔しても、今度は取り返しがつかないからです。

からだがなくなっても、生命は魂であるために、生き続けます。

後悔、苦しみの思いから逃れたくて、命を終わりにしたはずなのに、意識は前のままであり、後悔、苦しみの思いから逃れれらないことを知ります。

しまったと思っても、戻るからだは、もうありません。

からだは、魂の入れ物であり、自分のものではなかったことに気付いても、手遅れです。

自分のものは魂だけであり、表現する肉体を、自ら手放してしまったのです。



人生で何か起きた時、望まない出来事が起きた時にどうするか、道は2つです。

後悔して留まるか、それとも、そこから何かを学んで進むか。

何かを学んで進むのが、見えない法則に則った、正しい道です。

後悔して留まってしまうと、法則に反しているため、結局は苦しみが待っています。

つらくても、前に向かって進んでいかなければいけません。

ほんの少しでもいいから、前に進むことが大切です。

少しでも前に進めば、きっと心が楽になるでしょう。

薬では、心は楽にはなりません。

前に進んでいるわけではないからです。



この世は、楽しむためだけにあるのではありません。

自分に足りなかった何かを学ぶために、この世を生きているのであり、それは楽しい出来事よりもつらい出来事から多くを学ぶことができます。

多くのことを学び、向上していくのが人生ならば、つらい出来事はつきものということになります。

失敗や挫折に出会うのは、この世では避けられません。



悔やんでも、悔やみきれないことは、誰にでもあると思います。

私も仕事上で過ちを犯して、大きな後悔の念に苛まれました。

あの時こうすればよかった、何でしなかったのか、どうして全力を尽くさなかったのか、数えたら切りがありません。

勇気が足りなかったり、自分をごまかしてしまったりすると、後悔することに繋がると感じています。

けれども、そこから何かを学ぶことができたのなら、意味があったことになり、立ち直るきっかけになると、私は思っています。



生きる目的は、人や社会に奉仕して、自分(魂)を向上させるためにあり、悔いの想いに縛られていては、とてもできません。

悔やんでばかりいると、生きている意味がなくなってしまいます。

この世で与えられた時間は限られていて、大きな損失をしています。

今の苦しみは、そんな大切なことに気付いて、想いを手放すためにあります。



繰り返します。

からだを傷つける行為により、得られるのは、苦しみだけです。

今すぐ、やめて下さい。

責任を取ることが、さらに多くなってしまいます。



生命は魂です。

死んで終わりではありません。

この世に生まれてきたのは、前世で悔やむことがあり、借りを返すためかもしれません。

自分を傷つけるのは、自分の魂を裏切る行為です。

また、借りを作ってしまいます。



本当の自分である魂は、からだを傷つけるのを止めようとしています。

勇気を出して、正直に生きろと、叫んでいると思います。

その声に、逆らってはいけません。



過去は変えられません。

しかし、未来を変えていくことはできます。

そのためには、たとえ少しでも、前に進んで下さい。

一歩進めないのであれば半歩、半歩進めないのであれば、足を地面から離すだけでも、大きな前進です。

それが苦しみから解放される、唯一の道だと思います。







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