健康でいる人と、病気になりつらい思いをしている人に、何か違いがあったのでしょうか?
外から見る限り、大きな違いはなかったように思われます。
「どうして私がこんな病気になったの」と思ってしまうのも当然です。
苦痛が強ければ、「何で私がこんなに苦しまなければいけないの」と、誰かに怒りをぶつけたくなるのも仕方ありません。
すべての病気に原因があることは、確かです。
現代(西洋)医学では、物質(肉体)を対象としているため、遺伝子を含め、からだの隅々まで検査をしていくことになります。
感染症は、細菌やウィルスの感染により起こります。
原因は物質次元にあり、検出できます。
免疫機能の働きと、薬の効果により、体内から原因である細菌やウィルスがいなくなれば、病気は治ります。
胃潰瘍になると、一昔前は手術をしていたようですが、今ではストレスが大きな原因となっているのは、周知の事実です。
最近の研究では、腰痛も怒りの感情が関与していると言われています。
日々の出来事がストレスとなり、目に見えない「心」に影響を与えているのは明白です。
心とからだは、切っても切り離せない関係にあります。
目に見えない「心」が原因となり、生じている病気は多いのではないでしょうか。
誤解を恐れずに言えば、日々の出来事により生まれた感情(想い)が、肉体で表現されずに滞っていくと、病気になると思います。
心は、さまざまな感情を生み出します。
忌 (いむ) ・忍 (しのぶ) ・怒 (いかる) ・恐 (おそれる) ・恥 (はじらう) ・恋 (こい) ・悲 (かなしい) ・愁 (うれえる) ・慕 (したう) ・憂 (うれえる) ・怪 (あやしむ) ・怖 (こわい) ・悔 (くやむ) ・恨 (うらむ) ・惜 (おしむ) ・悼 (いたむ) ・愉 (たのしむ) ・憎 (にくむ) ・憤 (いきどおる) ・懐 (なつかしむ)等、
調べてみると、日本には実に多くの感情の表現があります。
これらの感情は、便宜的に名前を付けているだけであり、国や文化によっても表現は変わってきます。
愉(楽)しむ感情がいくらあっても、病気になることはありません。
喜びすぎて病気になってしまったと言う人を、聞いたことはありません。
しかし、怒りの感情が生まれると、からだに大きな影響を及ぼします。
交感神経が興奮し、アドレナリンが分泌され、血圧が上昇します。
一過性の怒りであれば、すぐ回復しますが、怒りが大きく、感情が蓄積していくと、交感神経の興奮が持続したままとなり、からだ全体に悪影響を及ぼし、長引けば病気になってしまうかもしれません。
では、心はどこに存在するのでしょう?
科学(大脳生理学)では、脳から生じると結論付けたいところですが、それは無理なようです。
いくら研究を積み重ねても、心についての解明は進んでいません。
心は、大脳辺縁系での神経伝達物質により、生じるものではありません。
心は魂から生まれます。
人間は、目に映る肉体だけの存在ではなく、肉体を超えた魂が存在し、肉体と精神を支配しています。
(大)脳は、魂から生まれる心を認識し、肉体で表現する司令塔の役目を果たしています。
目に見えない心は、目に見える脳から生まれると考えるよりも、目に見えない魂から生まれると考えた方が、より自然です。
それでも、科学者が「魂」の存在を否定するのであれば、未だ証明されていない「心」の存在も否定しなければいけません。
魂(霊)の存在を認めれば、現代の自然科学が根底から覆えってしまう怖れがあります。
医学においても、病気の概念は変わり、既存の治療法の多くが、過去のものとして姿を消すことになるかもしれません。
証明できないという理由で、魂(霊)の存在を否定してしまうのではなく、偏見を捨てて、未知のものとして解明していく姿勢が科(医)学にあれば、人類のためになる、すばらしい発見が待っていると思います。
なぜ、病気になるのか。
その前に、人はなぜ、この世を生きているのかを知っておく必要があります。
死んでしまえばお終いと考えれば、生きる意味は極めて乏しくなります。
病気は不幸以外の何者でもありません。
生命は、そんな底の浅いものではありません。
深遠であり、神聖なものだと思います。
生命とは魂です。
従って、肉体がなくなっても生き続けます。
これは、動かし難い事実であり、厳粛に受け止めて生きていかなければいけません。
人は、なぜ生きるのか?
この世を生きているのは、生命そのものであり、真の自分である魂を成長(向上)させるためです。
なぜ、魂を成長させなければいけないのか?
生命とは活動し、変化するものです。
意識されませんが、生命である魂は、神からの力(生命力)を受け取っています。
魂は神の一部として、神の心である「愛」を表現するために、力を受け取っています。
神の心に近い「愛」を表現するためには、魂を向上させなければいけません。
それが、自我に目覚めた生命の宿命と考えられます。
向上させるためには、できる範囲で、周囲に愛を表現していかなければいけません。
人や社会のために汗をかき、喜んでもらうことであり、
倒れて助けを求めている人に、手を差し伸べて、立ち上がらせることであり、
傷ついた人を、いたわり、慰め、励ますことであり、
人や動物にやさしくすることであり、
人を許したり、出来事に耐えることです。
生きていると、いくらでもその機会が訪れます。
その1つ1つが、魂を向上させる、またとない機会となります。
そして、人生で訪れる困難を乗り越えていく中でも、魂は向上(成長)していきます。
できれば避けたい障害、病気といった経験を通して、もがき苦しむ中で、知らず知らずに、向上していきます。
自分に欠けているものを補うためであり、大切なことに気付くためであり、神の摂理を身を持って学ぶためです。
魂を向上させさる困難は、痛みや苦しみを伴ったものとなります。
山登りと同じで、登っている時は、とても苦しく感じられます。
なぜ、病気になるのか?
病気は、肉体次元から見れば、正常組織の変性であり、異常組織の増殖であり、そして機能の異常です。
霊的次元から見れば、病気は魂のありさまの変化が、肉体上の変化として反映されたものです。
病気の苦痛は肉体次元から見れば、肉体の異常を知らせるシグナルです。
霊的次元では、摂理に反した想いや行いの償であり、魂を目覚めさせるためにあります。
霊的次元は、思念(想い)の世界です。
人は生きていると、さまざまな想い(感情)を抱きます。
この世(物質次元)では、想いは目に見えず、人にも知れませんが、霊的次元では実在そのものであり、周りに認識されます。
さまざまな想いは、大きく2つに分けられると思います。
自分を成長させる想い(神の摂理に適った想い)と、成長を妨げる想い(神の摂理に反した想い)です。
もっと分かりやすく言えば、愛に基づいた想いと、愛に反する想いです。
怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲などは、神の摂理(愛)に反した想いです。
生きていると、いろいろな出来事が起こり、さまざまな想い(感情)が生まれます。
例えば、人に侮辱されたり、裏切られたりすると、怒りの想いが生まれてしまいます。
高じると、憎しみや恨みの想いとなっていきます。
人によっては、相手に復讐するという行動に出ます。
復讐は正当と考える人もいますが、自分と同じように相手を傷つけてしまおうとするものであり、明らかに摂理に反した行動です。
それを、真の自分(魂)は分かっていて、好ましくないと感じ、多くの人はその衝動を抑えて、じっと耐えていくと思われます。
この世では、魂から生まれる想いを、肉体で表現しようとします。
しかし、耐えて、我慢してしまうと、想いは表現されずに、滞ってしまいます。
表現されない想いが蓄積していくと、魂のありさまに変化が生じます。
怒りの想いが蓄積して、魂のありさまが変化してしまうと、ささいな事で怒りを感じ、怒りやすくなってしまいます。
悲しみの想いが蓄積し、魂に変化が生じてしまうと、悲しみを感じやすくなり、なみだがすぐに流れてしまいます。
この世では、自分なりに愛を表現して、成長していかなければいけません。
怒りの想いにとらわれている人に、それは難しいかもしれません。
何度となく訪れるであろう、困難や障害を乗り越えて、成長していかなければいけません。
悲しみにくれている人に、それは無理かもしれません。
想いが蓄積して、予定されていた人生を変えてしまうほどになると、因果律の働きによって、病気が生じると思われます。
神の摂理が働いていているのは、言動だけではありません。
自らの想いにも、しっかりと働いて、責任を負うことになります。
病気の苦痛は、摂理に反した想いを抱き続けた、償いとなっています。
それとともに、魂を目覚めさせ、大切なことに気付く触媒となります。
大切なことは、「愛」です。
病気は、愛の大切さに気付き、とらわれていた(摂理に反する)想いから、摂理に適った想いに変えるためにあります。
なぜ、病気になったのか?
「魂が正しい方向へ進んで行くため」であり、
「愛を表現するため」という答えになると思います。
次の世界に行けば、肉体はもうありません。
病気の苦痛からは解放されます。
ただし、魂のありさまが変わってしまっても、それを知らせてくれるものがなくなります。
変わってしまった自分(魂)に気付くために、この世に病気が存在し、肉体や精神の苦痛は、魂の浄化を促し、神の摂理(愛)を学ぶためにあると考えられます。
もし、変わってしまった自分(魂)に気付かずに、大切なこと(神の摂理)を学ばないまま、この世を去ったのであれば、変わってしまった自分が犯した過ちを償い、大切なことを学ぶために、もう1度この世に生まれて、さらに大きな苦難を経験して、目的を果たさなければならないと思われます。
病気は、言葉ではとても言い表せないほど、つらいものですが、自分(魂)が正しい方向に進んで行くため、この世のうちに軌道修正するために、どうしても必要だったと思われます。
そして、正しい方向に進み出したのなら、目的が達成されて、治癒していくと考えられます。
病気は、無意味で不幸なものではなく、神の摂理の働きによるものであり、自らを成長させる方向に導くものです。
ガン、膠原病、ALS等、人々を苦しめている病気の根本原因は、残念ながら解明されていません。
従って、有効な治療法も確立されておらず、手術を含め対処療法となります。
医学的に原因不明で、治療が困難な病気の中には、霊的次元に根本原因があり、それ突き止めて解消していけば、治癒に向かうものも多いと考えられます。
霊的に見れば、不治の病は存在しません。
生きる力は、神から流れてくるものであり、愛する力そのものです。
精一杯生きたとしても、愛を忘れた生き方をしてしまえば、この世を生きる目的は成就されません。
生命は魂であり、魂は真の自分です。
真の自分は、肉体で愛を表現するために、この世に生まれ、そして生きています。
病気は不幸ではありません。
魂を成長させて、愛を表現する生き方へ変えていく、この世だけにある神から与えられた機会(チャンス)です。
この世で生まれ変わるためにあると、言ってもいいのかもしれません。
生まれ変わるためには、想いを捨てなければいけません。
愛を表現するために、とても障害となっている、怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲などの想いです。
想いにとらわれている限り、変わることはできません。
その想いを手放すためには、出来事を正面から受け止めて、許さなければいけません。
とても難しいことだと思います。
しかし、長い間、病気でつらい思いをして、大切なことに気付いた人であれば、できるはずです。
苦痛に耐えてきたので、そこまで魂が向上していると思われるからです。
想いを手放せば、魂は本来の姿を取り戻します。
魂が本来の姿を取り戻せば、肉体や精神も本来の姿を取り戻します。
生き方が変わり、病気は癒されて、この世に生まれてきた目的を果たしていくと思います。
生きることは、愛することです。
病気になり、本当に大切なことに気付いたのであれば、解放される日は近いと思います。
どんなに苦しく、つらい状況であっても、その時は、すぐに訪れるかもしれません。
どうか希望は持ち続けて下さい。
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