健康でいる人と、病気になりつらい思いをしている人に、何か違いがあったのでしょうか?
外から見る限り、大きな違いはなかったように思われます。
「どうして私がこんな病気になったの」と思ってしまうのも当然です。
苦痛が強ければ、「何で私がこんなに苦しまなければいけないの」と、誰かに怒りをぶつけたくなるのも仕方ありません。
すべての病気に原因があることは、確かです。
現代(西洋)医学では、物質(肉体)を対象としているため、遺伝子を含め、からだの隅々まで検査をしていくことになります。
感染症は、細菌やウィルスの感染により起こります。
原因は物質次元にあり、検出できます。
免疫機能の働きと、薬の効果により、体内から原因である細菌やウィルスがいなくなれば、病気は治ります。
胃潰瘍になると、一昔前は手術をしていたようですが、今ではストレスが大きな原因となっているのは、周知の事実です。
最近の研究では、腰痛も怒りの感情が関与していると言われています。
日々の出来事がストレスとなり、目に見えない「心」に影響を与えているのは明白です。
心とからだは、切っても切り離せない関係にあります。
目に見えない「心」が原因となり、生じている病気は多いのではないでしょうか。
誤解を恐れずに言えば、日々の出来事により生まれた感情(想い)が、肉体で表現されずに滞っていくと、病気になると思います。
心は、さまざまな感情を生み出します。
忌 (いむ) ・忍 (しのぶ) ・怒 (いかる) ・恐 (おそれる) ・恥 (はじらう) ・恋 (こい) ・悲 (かなしい) ・愁 (うれえる) ・慕 (したう) ・憂 (うれえる) ・怪 (あやしむ) ・怖 (こわい) ・悔 (くやむ) ・恨 (うらむ) ・惜 (おしむ) ・悼 (いたむ) ・愉 (たのしむ) ・憎 (にくむ) ・憤 (いきどおる) ・懐 (なつかしむ)等、
調べてみると、日本には実に多くの感情の表現があります。
これらの感情は、便宜的に名前を付けているだけであり、国や文化によっても表現は変わってきます。
愉(楽)しむ感情がいくらあっても、病気になることはありません。
喜びすぎて病気になってしまったと言う人を、聞いたことはありません。
しかし、怒りの感情が生まれると、からだに大きな影響を及ぼします。
交感神経が興奮し、アドレナリンが分泌され、血圧が上昇します。
一過性の怒りであれば、すぐ回復しますが、怒りが大きく、感情が蓄積していくと、交感神経の興奮が持続したままとなり、からだ全体に悪影響を及ぼし、長引けば病気になってしまうかもしれません。
では、心はどこに存在するのでしょう?
科学(大脳生理学)では、脳から生じると結論付けたいところですが、それは無理なようです。
いくら研究を積み重ねても、心についての解明は進んでいません。
心は、大脳辺縁系での神経伝達物質により、生じるものではありません。
心は魂から生まれます。
人間は、目に映る肉体だけの存在ではなく、肉体を超えた魂が存在し、肉体と精神を支配しています。
(大)脳は、魂から生まれる心を認識し、肉体で表現する司令塔の役目を果たしています。
目に見えない心は、目に見える脳から生まれると考えるよりも、目に見えない魂から生まれると考えた方が、より自然です。
それでも、科学者が「魂」の存在を否定するのであれば、未だ証明されていない「心」の存在も否定しなければいけません。
魂(霊)の存在を認めれば、現代の自然科学が根底から覆えってしまう怖れがあります。
医学においても、病気の概念は変わり、既存の治療法の多くが、過去のものとして姿を消すことになるかもしれません。
証明できないという理由で、魂(霊)の存在を否定してしまうのではなく、偏見を捨てて、未知のものとして解明していく姿勢が科(医)学にあれば、人類のためになる、すばらしい発見が待っていると思います。
なぜ、病気になるのか。
その前に、人はなぜ、この世を生きているのかを知っておく必要があります。
死んでしまえばお終いと考えれば、生きる意味は極めて乏しくなります。
病気は不幸以外の何者でもありません。
生命は、そんな底の浅いものではありません。
深遠であり、神聖なものだと思います。
生命とは魂です。
従って、肉体がなくなっても生き続けます。
これは、動かし難い事実であり、厳粛に受け止めて生きていかなければいけません。
人は、なぜ生きるのか?
この世を生きているのは、生命そのものであり、真の自分である魂を成長(向上)させるためです。
なぜ、魂を成長させなければいけないのか?
生命とは活動し、変化するものです。
意識されませんが、生命である魂は、神からの力(生命力)を受け取っています。
魂は神の一部として、神の心である「愛」を表現するために、力を受け取っています。
神の心に近い「愛」を表現するためには、魂を向上させなければいけません。
それが、自我に目覚めた生命の宿命と考えられます。
向上させるためには、できる範囲で、周囲に愛を表現していかなければいけません。
人や社会のために汗をかき、喜んでもらうことであり、
倒れて助けを求めている人に、手を差し伸べて、立ち上がらせることであり、
傷ついた人を、いたわり、慰め、励ますことであり、
人や動物にやさしくすることであり、
人を許したり、出来事に耐えることです。
生きていると、いくらでもその機会が訪れます。
その1つ1つが、魂を向上させる、またとない機会となります。
そして、人生で訪れる困難を乗り越えていく中でも、魂は向上(成長)していきます。
できれば避けたい障害、病気といった経験を通して、もがき苦しむ中で、知らず知らずに、向上していきます。
自分に欠けているものを補うためであり、大切なことに気付くためであり、神の摂理を身を持って学ぶためです。
魂を向上させさる困難は、痛みや苦しみを伴ったものとなります。
山登りと同じで、登っている時は、とても苦しく感じられます。
なぜ、病気になるのか?
病気は、肉体次元から見れば、正常組織の変性であり、異常組織の増殖であり、そして機能の異常です。
霊的次元から見れば、病気は魂のありさまの変化が、肉体上の変化として反映されたものです。
病気の苦痛は肉体次元から見れば、肉体の異常を知らせるシグナルです。
霊的次元では、摂理に反した想いや行いの償であり、魂を目覚めさせるためにあります。
霊的次元は、思念(想い)の世界です。
人は生きていると、さまざまな想い(感情)を抱きます。
この世(物質次元)では、想いは目に見えず、人にも知れませんが、霊的次元では実在そのものであり、周りに認識されます。
さまざまな想いは、大きく2つに分けられると思います。
自分を成長させる想い(神の摂理に適った想い)と、成長を妨げる想い(神の摂理に反した想い)です。
もっと分かりやすく言えば、愛に基づいた想いと、愛に反する想いです。
怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲などは、神の摂理(愛)に反した想いです。
生きていると、いろいろな出来事が起こり、さまざまな想い(感情)が生まれます。
例えば、人に侮辱されたり、裏切られたりすると、怒りの想いが生まれてしまいます。
高じると、憎しみや恨みの想いとなっていきます。
人によっては、相手に復讐するという行動に出ます。
復讐は正当と考える人もいますが、自分と同じように相手を傷つけてしまおうとするものであり、明らかに摂理に反した行動です。
それを、真の自分(魂)は分かっていて、好ましくないと感じ、多くの人はその衝動を抑えて、じっと耐えていくと思われます。
この世では、魂から生まれる想いを、肉体で表現しようとします。
しかし、耐えて、我慢してしまうと、想いは表現されずに、滞ってしまいます。
表現されない想いが蓄積していくと、魂のありさまに変化が生じます。
怒りの想いが蓄積して、魂のありさまが変化してしまうと、ささいな事で怒りを感じ、怒りやすくなってしまいます。
悲しみの想いが蓄積し、魂に変化が生じてしまうと、悲しみを感じやすくなり、なみだがすぐに流れてしまいます。
この世では、自分なりに愛を表現して、成長していかなければいけません。
怒りの想いにとらわれている人に、それは難しいかもしれません。
何度となく訪れるであろう、困難や障害を乗り越えて、成長していかなければいけません。
悲しみにくれている人に、それは無理かもしれません。
想いが蓄積して、予定されていた人生を変えてしまうほどになると、因果律の働きによって、病気が生じると思われます。
神の摂理が働いていているのは、言動だけではありません。
自らの想いにも、しっかりと働いて、責任を負うことになります。
病気の苦痛は、摂理に反した想いを抱き続けた、償いとなっています。
それとともに、魂を目覚めさせ、大切なことに気付く触媒となります。
大切なことは、「愛」です。
病気は、愛の大切さに気付き、とらわれていた(摂理に反する)想いから、摂理に適った想いに変えるためにあります。
なぜ、病気になったのか?
「魂が正しい方向へ進んで行くため」であり、
「愛を表現するため」という答えになると思います。
次の世界に行けば、肉体はもうありません。
病気の苦痛からは解放されます。
ただし、魂のありさまが変わってしまっても、それを知らせてくれるものがなくなります。
変わってしまった自分(魂)に気付くために、この世に病気が存在し、肉体や精神の苦痛は、魂の浄化を促し、神の摂理(愛)を学ぶためにあると考えられます。
もし、変わってしまった自分(魂)に気付かずに、大切なこと(神の摂理)を学ばないまま、この世を去ったのであれば、変わってしまった自分が犯した過ちを償い、大切なことを学ぶために、もう1度この世に生まれて、さらに大きな苦難を経験して、目的を果たさなければならないと思われます。
病気は、言葉ではとても言い表せないほど、つらいものですが、自分(魂)が正しい方向に進んで行くため、この世のうちに軌道修正するために、どうしても必要だったと思われます。
そして、正しい方向に進み出したのなら、目的が達成されて、治癒していくと考えられます。
病気は、無意味で不幸なものではなく、神の摂理の働きによるものであり、自らを成長させる方向に導くものです。
ガン、膠原病、ALS等、人々を苦しめている病気の根本原因は、残念ながら解明されていません。
従って、有効な治療法も確立されておらず、手術を含め対処療法となります。
医学的に原因不明で、治療が困難な病気の中には、霊的次元に根本原因があり、それ突き止めて解消していけば、治癒に向かうものも多いと考えられます。
霊的に見れば、不治の病は存在しません。
生きる力は、神から流れてくるものであり、愛する力そのものです。
精一杯生きたとしても、愛を忘れた生き方をしてしまえば、この世を生きる目的は成就されません。
生命は魂であり、魂は真の自分です。
真の自分は、肉体で愛を表現するために、この世に生まれ、そして生きています。
病気は不幸ではありません。
魂を成長させて、愛を表現する生き方へ変えていく、この世だけにある神から与えられた機会(チャンス)です。
この世で生まれ変わるためにあると、言ってもいいのかもしれません。
生まれ変わるためには、想いを捨てなければいけません。
愛を表現するために、とても障害となっている、怒り、憎しみ、恨み、妬み、貪欲などの想いです。
想いにとらわれている限り、変わることはできません。
その想いを手放すためには、出来事を正面から受け止めて、許さなければいけません。
とても難しいことだと思います。
しかし、長い間、病気でつらい思いをして、大切なことに気付いた人であれば、できるはずです。
苦痛に耐えてきたので、そこまで魂が向上していると思われるからです。
想いを手放せば、魂は本来の姿を取り戻します。
魂が本来の姿を取り戻せば、肉体や精神も本来の姿を取り戻します。
生き方が変わり、病気は癒されて、この世に生まれてきた目的を果たしていくと思います。
生きることは、愛することです。
病気になり、本当に大切なことに気付いたのであれば、解放される日は近いと思います。
どんなに苦しく、つらい状況であっても、その時は、すぐに訪れるかもしれません。
どうか希望は持ち続けて下さい。
人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2014年9月16日火曜日
生まれる前にした約束
すべての人に、生まれる(受胎)前、自分で自分にした約束があります。
どんな約束をしたのか、残念ながら、知ることはできません。
私も、この世に生まれて53年が経とうとしていますが、その約束を、きちんと果たせているのかどうかは分かりません。
だいぶ回り道をしてきましたが、この文章を書いているのも、約束を果たすための一環だと思っています。
周りから見て、とても大変な人生を歩んできた人を見かけますが、人や社会に貢献するために、どうしてもその経験が必要であり、強い動機付けになっていることが、多いと思われます。
そんな人たちは、「その経験があったからこそ、今の自分がある」と、異口同音に語っています。
人の苦しみは、経験してみなければ分かりません。
誰しも、苦しみは味わいたくありませんが、経験した人のみが、同じ苦しみを抱えている人を、救うことができる時があります。
同じ苦しみを抱えている人の重荷を、少しでも軽くすることができたのなら、その経験は少なからず価値を持ちます。
ある人は、他の人に同じつらい経験をして欲しくないために、社会に訴えて、世の中を変えて行こうとします。
ブログなどで、自分の経験を発信し、一人でも多くの人に知ってもらい、役に立てようとする人もいます。
先日、高校の先輩の話を聴きました。
幼くして父親を失い、新聞配達をして家計を助け、苦労の末に大学を卒業し、事業を立ち上げて成功し、現在は政治家として要職にあります。
経済的に恵まれていない子供たちにも、夢を叶えさせる機会を与えるという、強い信念のもと、精力的に活動をされていて、今まさに実を結びつつあります。
その信念は、自身の経験に裏打ちされたものであり、揺らぐことはありません。
経験が活かされて、同じ境遇にある子供たちに、夢や希望を与えようとしています。
もし、恵まれた家庭環境で育ったならば、そんな子供たちに思いを巡らせることはなかったかもしれません。
生まれる前に自分にした約束を、今、果たされていて、過去の経験や環境はそのために必要だったと、私は強く感じました。
道路の端に、横断禁止を知らせる交通標識を見かけます。
その下に小さなプレートがあり、「わたるな」とひらがなで書かれています。
私の記憶が確かなら、数十年前に、交通事故でお子さんを亡くされたご両親の働きかけにより、このプレートができたはずです。
ご両親のお子さんは、小学生の低学年であり、それまでの標識に書いてあった、「横断禁止」という漢字の意味が理解できずに、道路を渡ろうとしたために、不運にも交通事故に遭ってしまいました。
ご両親の悲嘆はどれほどのものだったでしょう、長い間、つらい日々が続いたと思われます。
その日々の末、同じ年頃の子供が同じ悲劇にあってはならない、亡くなった最愛のお子さんの死を無駄にしないたくない、という結論にたどり着いたのだと思います。
行政に強く訴え続けて、幼い子にもわかる標識の設置を、全国で実現させました。
標識に「わたるな」と書いてあるのに気付き、事故に遭わずに済んだお子さんも、きっとたくさんいると思います。
亡くなったお子さんも、さぞ喜んで、ご両親を誇りに思っていることでしょう。
とても大きな社会貢献だと思います。
身を引き裂くような、つらい経験であっても、世の中のために活かすことで、計り知れない意味を持つことがあります。
たとえ社会で活かすことができなくても、同じ立場の人と、想いを分かち合えて、力になることはできるでしょう。
自分の経験が、誰かの役に立つのは、とてもうれしいことです。
楽しい経験は、あまり人の役には立ちません。
苦難の経験であればあるほど、救いを求める人にとって大いに役に立ち、貢献できると考えられます。
生きていると、どうしても悲劇や不幸と思える出来事が身に降りかかってきます。
避けたくても、避けらるものでなく、その渦の中に巻き込まれていきます。
苦しくて、つらくて、逃げたくなります。
無我夢中で、何と切り抜けようと苦闘する中で、少しずつ魂は向上していきます。
そして、魂に目覚めて、本当に大切なことに気付くことになります。
魂は神の一部です。
そして、神は愛です。
魂に目覚めたら、障壁は取り払われて、しきりに(神の)愛を表現しようとします。
人や社会のために何か役に立たつことはできないかと考えるのは、そのためだと思います。
つらい出来事がなければ、魂に目覚め、本当に大切なことに気付くことはありません。
人や社会のために、何かの行動を起こし、役立てていけたのならば、つらい出来事は、大きな意味を持ったことになります。
人それぞれ、起こす行動は違いますが、それが生まれる前にした約束なのかもしれません。
困難を乗り越えて、人のために役に立てていくのは、神の意思そのものと考えられます。
魂を目覚めさせるために、つらい経験があり、魂は神の一部であるために、その意思に従い、役に立とうとするのだと思います。
生きている目的は、人として成長する、本質は魂を向上させるためにあります。
すべての経験は意味があると言われますが、自らの魂の向上にとって意味があるのだと思います。
人や社会のために役に立つ以上に、魂を向上させ、人間を成長させるものはありません。
神の摂理に一致し、愛を表現しているからです。
人は人、自分は自分と思っていても、つい周りが気になって、比べてしまいます。
その結果、人を羨ましがったり、あるいは優越感に浸ったりしてしまいますが、どちらも間違っています。
自分が生まれる前にした約束と、他の人がした約束は、それぞれ違うのであり、同じような人生になるはずがありません。
その人にとって必要な出来事が、神の摂理である因果律により展開されているだけであり、誰一人として同じになる訳がありません。
忘れてはいけないのは、性別、家庭、容姿、頭脳、およその人生を、すべて自らが承知し、納得した上で、生まれてきているということです。
もし、不幸としか思えない出来事や障害が、自らがこの世で蒔いた種ではなく起きているとしたら、魂を向上させる機会として、生まれる前に約束したことと考えた方がいいのかもしれません。
偶然や突発的なものは、存在しません。
幸、不幸を超えた、神の摂理により営まれています。
従って、外から見るだけで、人を羨ましがったり、身の上を嘆いたりするのは、正しくありません。
たとえ生きている時に、知ることはできなくても、(肉体が)死んでしばらくすれば、真意がわかります。
大切なことは、つらくても、苦しくても、逃げ出さないで、立ちはだかる想いを振り払い、乗り越えようとすることです。
生まれる前に、自分が自分にした約束であるならば、何としても守らなければいけないからです。
それが、この世に生まれてきた意味だからです。
すばらしい人生とは、不幸に遭わず、障害もなく、何不自由なく生活した人生では、決してないと思います。
不幸や障害と言われる出来事にあっても、立ち向かい、乗り越えて、その経験を人や社会に役に立てることができた人生だと思います。
参考ページ: 「人生のシナリオは自分を成長させるためにある」
「この世の出来事の意味を知る時」
2014年9月2日火曜日
恐怖に打ち克つ力
何かに立ち向かったり、乗り越える時に、いつも前に立ちはだかるものがあります。
恐怖や不安です。
この感情を踏み越えて行かないと、前に進んでいくことができません。
イエス・キリストが、処刑される前、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈ったそうです。
父とは神であり、彼らとはユダヤ教の指導者であり、ローマ兵です。
今まさに、十字架の上で殺されされようとしている時に、自分を殺そうとしている者を、哀れんで祈りを捧げる、
「汝の敵を愛し、汝らを責むる者のために祈れ」という教えを、最も過酷と思われる状況で、実践していました。
その姿を目の当たりにして、多くの人は胸を打たれたと思います。
普通の人間であれば、恐怖に押しつぶされてしまうでしょう。
「完全な愛は恐れを取り除く」というイエスの言葉が真実であることを証明しています。
しかし、未熟な私にとって、恐怖や不安との闘いは続いています。
イエスにとって、死は霊界への帰還であるのは、揺るぎない真実だったのは間違いありません。
死んで無になってしまうかもしれないと思うと、大きな怖れを抱いてしまいます。
死の先に、新しい世界が待っているのは、疑う余地のないことです。
けれども、死ぬ時は苦しいのだろうか?病気の痛みに耐えられるだろうか?周りの人を悲しませたり、迷惑をかけたりしないだろうか?と、つい考えてしまうと、恐怖に襲われてしまいます。
現実は、想像と少し違うようです。
霊界に行った人からのメッセージでは、死ぬ時は側から見ているより、苦しくないそうです。
痛くて耐えられなかったと言う話も、聞いたことがありません。
周りで悲しむ人もいるでしょうが、生命は魂であり、少しばかり早く次の世界に行くだけなので、必ず再会できることを、しっかりと伝えておくべきだと思います。
霊的な真実を知れば、知るほど、死の恐怖が和らいでくるは、間違いありません。
未来は、どうなるか分かりません。
分からないだけに、この先、どんなにつらく、苦しいことが待ち受けているのだろうかと、大きな不安や、怖れを抱いてしまいます。
不安や怖れを抱くと、穏やかな心は失われ、苦しく感じられ、いたたまれなくなります。
苦しく感じるということは、不安や怖れが、神の摂理に反している想いであるからなのかもしれません。
克服していかなければいけません。
今まで生きてきて、緊張を強いられる場面は数知れずあり、恐怖や不安に襲われて、それを拭い切れずに、怯えてしまうこともありました。
失敗を恐れたり、悪い結果を想像したりして、不安にかられて、持てる力が発揮されずに終わり、後悔してしまうこともありました。
恐怖や不安を追い払うのには、どすればいいのか?
勇気を出すしかありません。
魂は神の一部です。
そして、苦難を乗り越えていくことで、魂が向上します。
魂を向上させるために、人は生きていますので、苦難に立ち向かっていく勇気は、神の摂理に適っている想いのはずです。
神に摂理に適った想いは、神とのつながりを深め、神の力を受け取れます。
神の力よりも、強く、頼りになるものはありません。
従って、神の力を受け取るためには、勇気を出さなければいけないと考えられます。
その力を持ってすれば、心を侵食している恐怖や不安は、跡形もなく吹き飛ばされると思います。
恐怖や不安が消えてしまえば、霊力(神の力)の流入を妨げるものはありません。
勇気を出せば、神の力をふんだんに受け取ることができ、望む方向に進んで行けると思います。
つらくても、苦しくても、勇気を出すしかありません。
しかし、現実を見つめると、どうしても悲観的になり、勇気など出せないと思ってしまう時があります。
どこを、どう探しても、良いところは見つからず、悪いところだけしか見当たらない、絶望的な状況もあります。
激しい苦痛があったり、心を支えていく力がどこにもない時に、勇気を出すのは難しいと思われます。
そんな時は、祈ってみてはどうでしょうか。
「乗り越えていく勇気を与えて下さい」と。
魂は神の一部であり、つながっているため、祈りが見過ごされることはありません。
祈りにより、恐怖や不安が少しでも和らいだのであれば、回答として、神から力が与えられのだと思います。
もし、叶うのであれば、「病気を治して下さい」とか「今の苦しみからから逃れさせて下さい」と、祈りたいところですが、残念ながら、それは叶えられないと思われます。
なぜなら、すべては因果律によってに生じているため、結果(病気や苦しみ)を変えることはできないからです。
病気や苦難には、魂を向上させ、大切なことに気付かせるという、深い意味があります。
そうであるならば、魂が向上し、大切なことに気付いたのなら、病気や苦難は、過ぎ去っていくことになります。
もし、祈りで病気が治り、苦難が取り除かれるとしたら、魂を向上させる機会が失われてしまい、大切なことに気付くこともありません。
神の意図ではないことを、神が叶えるとは思えないからです。
しかし、苦難を乗り越えるようとする、真摯な祈りは、摂理に適っているため、勇気(力)が与えられるはずです。
勇気が与えられ、恐怖や不安が追い払われると、痛みやつらさも、いくらか和らいでくるのではないでしょうか。
そんな私も、少し前は神などに関心はなく、祈ったことはありませんでした。
今は、(摂理に適った)祈りに対して、導きが得られたり、力が与えられるのを知っています。
魂は神の一部であり、つながっているために、すべての人に力が与えられます。
祈りは、宗教的儀式ではありません。
生きる力を呼び込むため、人に与えられた、ありがたい恩寵です。
その恩寵に浴した方が、賢明です。
恐怖や不安の相手(対象)が外にある時に、克服するために、どうしても必要なものがあります。
それは、愛です。
愛は、好きという感情が発展したものだけではありません。
奉仕する、やさしくする、親切にする、思いやる、励ます、労わるなど、すべて愛に基づいた行いです。
自分と異なるものを認める、許すのも、自己犠牲がなければ成り立たず、愛が必要です。
恐怖や不安を抱く、最たるものとして、戦争があります。
ほとんどの国は、自国を脅かす者に対しては、敵とみなして、守るために攻撃をします。
何の理由もなく、脅かしてくるのであれば、自国を守るために、反撃するのはやむを得ません。
時代が古くなるほど、そんな戦争が多かったと考えられます。
現代では、国家間の連携が強くなり、無用に侵略する国家は、国際社会において非難され、制裁を受けます。
それでも、世界中で戦争や粉争が絶えることはありません。
人種、宗教、文化、言語の違いから、誤解が生まれて、戦争へと発展することもあります。
どちらが善で、どちらが悪と決められない争いが、ほとんどなのかもしれません。
認めない、尊重しない、許さないために起きる戦争と言っていいのかもしれません。
戦争になれば、爆弾や銃弾により、命を落とすかもしれないので、恐怖と不安な日々となります。
何とか終わりにするために、相手を降伏させる必要があると考えます。
そのために、攻撃をすることになります。
相手が降伏するまで闘おうとするならば、因果律が働き、相手から相応の反撃を受けることになります。
相手が傷つき、苦痛が生じたのならば、相手は報復し、自らが傷つき、苦痛を経験します。
攻撃をして、相手に恐怖や不安を与えたなら、自らが攻撃を受け、恐怖や不安を味わう結果となります。
自分から出たものが、自分に返ってきているだけです。
争いを終わりにするためには、元となった、根本的な原因を見つけて、改めることが必要です。
思いもよらぬ出来事は、いつ起きるのか分かりません。
その出来事により、自らが傷を受けてしまうことがあります。
憎しみを持ち、目には目をで、報復すれば、争いになるかもしれません。
もし、許せたのならば、争いは避けられます。
どちらに進むのかは、自分次第です。
認め合う、尊重する、許すことは、自己犠牲であり、苦痛を伴うかもしれませんが、神の摂理である「愛」を表現しているため、争いから生まれる恐怖や不安から逃れることができます。
私の歯科医院に、とても気難しく、少しでもこちらに不手際や失敗があると、容赦なく怒鳴られる、年老いた男性の患者さんがいました。
治療は、誠心誠意、行いましたが、どうしても気になり、納得できないことがありました。
客観的に問題はなく、これ以上の改善は難しいことでした。
以前、時間を取って、話をして、その時は了解して帰られましたが、また、突然来られました。
受付から、その患者さんが来られたと聞いて、怒鳴られた時の記憶がよみがえり、緊張しました。
前回と同じことを、話さなければなりませんが、どの様な反応をされるか、全く分かりません。
また、怒鳴られはしないかと思うと、「いやだ」という気持ちになりかけますが、相手を思いやる気持ちでいるように心がけました。
早く帰って欲しい思うと、どうしても表情や、言葉に表れてしまい、相手に伝わってしまいます。
言葉で丸め込もうとか、誤魔化そうとすれば、さらに不満が募り、怒りがこみ上げて、容赦なく怒鳴られたかもしれませんでした。
相手を思いやる気持ちで対応したので、怒りを爆発させるきっかけを失い、徐々に鎮まる方向へ向かっていきました。
しばらくして、心が落ち着かれて、帰っていきました。
話の内容よりも、どんな気持ちでこちらが対応しているのかを、しっかり見ていると感じました。
どこにでもある話ですが、相手を思いやる気持ちは、怒りを鎮め、結果として恐れや不安にとらわれずに済むことを、私は実感しました。
恐怖や不安を克服するためには、相手(対象)を忌み嫌っているよりも、親愛の想いを向ける方が得策だと思います。
神の摂理である因果律により、親愛の想いを向けるものに、怒りや憎しみの想いを返すことはできないために、新たな恐怖や不安が生まれることはないからです。
そうは言っても、恐怖や不安の相手(対象)に対し、親愛の想いを向けるのは、とても難しく思えます。
しかし、過去を振り返ってみると、幼い時には、嫌いな人が来ると逃げたりしたのが、少し大きくなると、嫌いな人が来ても、逃げたりせずに、向き合えるようになっています。
さらに、年月が経つと、嫌いな人でも、どうにか普通に付き合えるようになっています。
いろいろなことを経験し、成長しているからです。
さらに成長することが出来たなら、決して無理ではないように思えます。
忌み嫌うのをやめれば、相手(対象)の想いに気付くようになるかもしれません。
実は、何かを、必死に訴えているのかもしれません。
もし、訴えている想いを、素直に認めて、共感できたならば、相手(対象)との関係は変わってくるでしょう。
そうすれば、相手(対象)から生じる、恐怖や不安は、きっと少なくなります。
恐怖心は、人から理性と、生きる力を奪う、最大の敵です。
一刻も早く、決別すべきものです。
前に進んでいくには、乗り越えなければいけません。
恐怖と不安に打ち克ち、困難に立ち向かわせるのは、愛と勇気であり、それは神の力だと思います。
愛と勇気の大切さを、恐怖や不安を克服していくことで、学んでいるのかもしれません。