2024年8月18日日曜日

残された人のために生まれて来た子


以前、読んだブログが心に残っています。

そこには、生まれてから十数分で、お母さんの胸で息を引き取った赤ちゃんのことが書かれていました。

長くは生きられないことを、そのお母さんは承知していました。

どんな気持ちで我が子を産んで、そして看取ったのか、想像もつきません。



生まれて直ぐに死んでしまうのであれば、こう思う人も少なくないでしょう。

「この子は何のために生まれて来たのだろう?」



死に偶然はありません。

100歳を超えて亡くなるのも、生まれて十数分で亡くなるのも、その人の寿命です。

この世での目的を果たした時に、寿命が訪れます。



私たちは、学び成長するためこの世に生まれて来ています。

そのために、この世でしかできない経験をしています。

十数分しか生きられなかったのであれば、この世での経験はほとんどありません。

学ぶことも、成長することもできなかったことになります。



生れて来たことに意味はなかったと、そのお母さんは思えるはずもありません。

どうにかして、生まれて来た意味を見つけようとするでしょう。

悲しみ、苦しみ抜いた末に、ある結論に行きつくかもしれません。

「自分の成長のためではなく、残された人の成長のために生まれて来た。」



子供を失うのは、最も過酷な試練の1つに違いありません。

そのつらさは、経験した人でなければ分かりません。

もし、あの世で生きているとしたら、つらいこの世に別れを告げて、会いに行きたい衝動に駆られる人は少なくないでしょう。



けれども、どうしてもそれができません。

その理由は、あの世に帰ってから、はっきりと分かります。

衝動を抑えて、この世を生き抜くと、生れる前の自分が誓っていたのかもしれません。

生きる意味を見失いながらこの世を生きることが、生まれて来た目的の1つなのかもしれません。



赤ちゃんが母体に宿るのは自然現象です。

偶然ではなく、自然法則の働きによるものです。

自然法則の働きは、神の御業であり、そこに失敗や欠陥が入る余地はありません。

従って、耐えられない魂に、赤ちゃんが宿ることありません。

親子になれたのは、耐えられる魂だったからです。



この世で学び成長する必要の少ない人ほど、早く逝くと感じています。

お母さんの胸に抱かれながら、十数分で逝った赤ちゃんは、極めて成長した魂である可能性が高いと考えられます。

自分との別れを通して、大きく成長するであろう魂を、親として選んだと考えられます。

また、格段の成長を願って、この世で親子となり早く別れる人生を選んだ似通った魂もいると思います。



もしそうならば、長く生きられなかったと嘆いたり、自分を責めたりするのは全くの見当違いです。

明確な目的があったので、哀れむ必要もありません。



親は、我が子の健やかな成長を願っています。

早く逝った子は、親の霊的な成長を願いながら見守っています。

高い愛がなければ、お母さんに宿ることも、早く逝くこともできません。

限られた時間の中で、眩しいほどの愛を放っていたはずです。

死によって両者の関係性が失われることはありません。

これからも、目に見えない愛に包まれながら、生きて行くことになります。




平坦な道から、きつい坂道に変わってしまいました。

坂道は続くでしょう。


果てしなく続くと思われた坂道ですが、終わりになる時が来ます。

坂道が終わった瞬間、視界が広がります。

そこで、片時も忘れることのなかった、あの時のままの子と再会するでしょう。


ふと周りを見ると、きつい坂道を長い間歩いて来た分、高みに導かれていたことに気付きます。

平坦な道を歩いて来た人とは違う景色を見ることになります。


それまでの苦しい道のりが、魂の学びや成長として報われていたのを知り、時に恨むこともあった神に深く感謝するでしょう。

もう、悲しい別れを経験する必要はありません。







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