通知票をもらって開く時に緊張するのは、今も昔も変わりありません。
開くと、学科の成績とは別に「生活ようす」というのがあります。
そこには、学校でどんな生活をしていたのかが評価されています。
項目として「基本的な生活習慣」「けんこう・体力の向上」「自主・自律」「責任感」「創意工夫」「思いやり・協力」「生命尊重・自然愛護」「勤労・奉仕」「公正・公平」「公共心・道徳」があります。
霊的真理を知った今、学科の成績よりも、むしろそちらの評価の方が大切であり、その人の実態を表しているのではないかと思うようになりました。
もっと目を向けて伸ばしてやれば、健全に成長して行くような気がします。
私たちの生きる目的は、自分を成長させるためです。
それは、死んで霊界に行っても変わりません。
勉強ができて、社会で成功し、富と名誉を手に入れたとしても、霊界に行くと評価の対象とはなりません。
魂の成長とは、全く関係のないことだからです。
シルバーバーチの霊訓には、こう書かれています。
「霊的成長は、思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、仕事を立派に仕上げることを通して得られます。 言いかえれば、内部の神性が日常生活において発現されてはじめて成長するのです。」
「思いやりの心」「寛容の精神」「同情心」「愛」「無私の行為」が、日常でどれくらい表現されているかで、その人の霊的な価値が決まると考えられます。
霊界に行くと、魂(自分)が露わになります。
自分に欠けている、あるいは足りない資質に、気付くことになります。
それが成長の足かせになっているのであれば、手に入れようとするでしょう。
霊界は、苦痛が取り除かれています。
極めて快適な世界なのですが、霊的な資質を手に入れるのには、苦痛がある方が適しています。
そのために地上に生まれることを志願します。
足りない資質を手に入れるために必要な出来事を経験する人生が立案され、それを了承し、適した環境に生まれます。
例えば、思いやりに欠けて、利己的な人がいたとします。
そのままでは、霊的な成長は望めません。
親として選ばれるのは、飛び切り利他的な人かもしれません。
間近で親の姿を見て、徐々に感化され、見習うようになり、利己性が薄れて行くこともあるでしょう。
それとは逆に、利己的な親を選ぶこともあるかもしれません。
自分の性分を親から見せられて、そうなりたくないと思うようになり、改めて行くこともあるでしょう。
学校に上がるようになると、たくさんの子供たちと一緒に過ごすことになります。
そこで、わがまま(利己的)な振る舞いをしていると、因果律の働きにより、周りにいる子供たちから咎められたり、仲間外れにされたりします。
地上では、自分に欠けている部分、神の心に反する部分が表現されると、周りにいる人たちの良心(神の心)が反発して、苦痛を感じる行動を取られることがあります。
苦痛は感じたくないので、わがままな言動を改めるようになります。
大人になるのに従い自我(エゴ)が発達して行きます。
改めるように周囲から促されても、自我(エゴ)が適当な言い訳をして、改めようとしない人もいるでしょう。
無限の叡智である神は、全てを織り込み済みです。
その先で、言い訳が通用しなくなる出来事を経験することになるかもしれません。
因果律の働きにより、最適なタイミングで、逃げ場がなくなり、徹底的に追い詰められる出来事が起きるかもしれません。
万事休すと思われた時に、救いの手が差し伸べられたとしたらどうでしょう。
周囲に感謝せずにはいられなくなります。
それを境に、周りに目が向くようになり、思いやる心が芽生えるかもしれません。
なぜ自分は、この国のこの家族の元に生まれたのかと、ふと考える時があります。
自分に足りなかったものの1つは「勇気」だったのかもしれません。
勇気は愛と同じように、成長するために欠かせない資質と考えられます。
今は引退した父と兄と同じ職場で働いています。
父も兄も、新しいことに挑戦する気概に溢れていて、誰もやったことのないことを臆することなく始めます。
私にはない資質を持っていると感じています。
同業で、同じ職場であれば、慎重(臆病?)な私にも、同じことが求められます。
勇気を出して挑戦することに意味があり、成功しても失敗しても、何かしら得るものがあることを学んでいると思います。
そして、宗教とは無縁な家庭環境であったからこそ、霊的真理をすんなりと受け入れられたと思います。
カルマを解消するために、生まれて来る人も少なくないようです。
例えば、怒りや憎しみの感情から、人を傷つけてしまった人がいたとします。
罪が大きければ、次の人生で償うことになるでしょう。
然るべき時期に、苦痛を伴う出来事を経験することになります。
これは1例ですが、考え方や生き方の異なる人が、傍に現れるかもしれません。
その人と接する度に、苦痛を感じるようになります。
憤りを覚え、それを相手にぶつけたい衝動に駆られますが、どうしてもそれができません。
予め決められていたのであれば、逃げることもできません。
苦痛を享受することが償いとなり、過去生で足りなかった「寛容の精神」が身に付けられて行きます。
カルマの解消は、償いであると同時に自分を正すものだと思います。
自分の意志だけで、自分を変えるのには限界があります。
地上でさまざまな出来事を経験することによって、自分を変える方がはるかに確実です。
誰もが避けたい苦しみや痛みの経験を通して、半ば強制的に変わって行きます。
起きた出来事を嘆いたり、運命を呪ったり、人を憎んだりすると、望ましい方向に自分が変わるための力が削がれてしまいます。
霊界に行ってしばらくすると、この世の人生を総括する時が来ます。
その時の心境は、学校で通知票を開く時の心境と似ているのかもしれません。
神の法則に照らし合せて、成績を付けるのは自分自身です。
苦しくて仕方がなかったあの出来事は、自分を成長させるために必要だったことに気付きます。
あの時の痛みにより、本当の自分が目覚めて、大切なことを学び始めていたことを知ります。
現実から逃げ出さずに、乗り越えようとしている自分の姿を見て、思わず安堵します。
そうすることで、生まれて来た目的を果たしていたからです。
生れる前の自分よりも、強く、優しくなっていることに気付いて、深い悦びを感じるはずです。
自分は親に感化されて謝罪や感謝ができない人間でした。
返信削除詳細は省略しますが、家では辛い子供時代でした。
親元を離れて、大人を信用できるようになって、ようやく周りに感謝ができるようになりました。
信用できる親になろうと、子供にも感謝と謝罪はするようにしています。
子供から学ぶことも多いです。
とはいえ、私はひどい人間だろうと思うので、あちらでは幸せなになることは叶わないと感じます。今までお世話になった優しい方々にあえないと思います。
ふと思ったのですが、利己的な人が向こうの世界に行くとき、今までの行いを見て何も思わないようだったら、どうなるのでしょうか。
匿名様
返信削除こんばんは。
ブログを読んでいただき、ありがとうございます。
謝罪や感謝ができなかったそうですが、人との関り合い方は、親の行動を観察して、見習っていることが多いと思います。
酷い人間だと思っているようですが、そんなことはありません。
それが当たり前ではなく、謝罪や感謝をしないのは間違っていると気付かれたからです。
ご自身の良心が、きちんと働いています。
ご自分を肯定したがらないのも、もしかしたらご両親からの影響かもしれません。
そのご両親も、また親から影響を受けていたのかもしれません、
ご質問の件ですが、全ての人に神のモニター(良心)が備わっています。
神のモニターが、地上での1つ1つ言動に対して、正しいか間違っていたかどうかを教えてくれます。
従って、利己的な自分の行動を見て、何とも思わない人はいません。
イクミさま
返信削除コメント失礼します。
カルマの法則によって苦しみがもたらされている、ということは、
カルマを解消し切ったら、良いことしか起こらなくなるのでしょうか。
今、人生の中で苦しみの時期にあります。
自我の声が大きすぎるためか、自分が何をしたら悦びを感じるのかもわからない状態です。
今、苦しいのは、自分がこれまでに積み上げた、悪いカルマのせいなんだろうなと思っています。
匿名様
返信削除おはようございます。
今、人生の苦しみの中にあるのですね。
カルマによって苦しみがもたらされているのであれば、解消することによって、その苦しみはなくなるでしょう。
けれども、良いことしか起こらなくなることはありません。
私たちは、この世でしか学べないことを学び、成長するために生まれて来ました。
良いことしか起きない、言い方を変えれば、苦難がなければ、大きく学び成長することは期待できないからです。
苦しい思いをしているのは、カルマのせいとは限りません。
大切なことを経験を通して学ぶために、生まれる前にこの人生を選択していたのかもしれないからです。
霊的な悦びは、苦しみの時期を乗り越えて、成長できた自分に対して感じるものなのかもしれません。
イクミさま
返信削除ご回答ありがとうございます。
カルマ以外の原因もあるのですね。
確かに、いいことばかりでもつまらないなと思いました。
成長した時に感じる悦びより、大きいものがない気がします。
考えてみます。