2024年10月13日日曜日

この戦争を終わりにするために



今、中東で起きていてる戦争が拡大しそうです。

この戦争は、私が生まれる前から続いています。

どちらが正しい悪いと単純に決め付けられないこと、いくつもの原因と結果が折り重なっていることが、この戦争が終わらない理由になっていると思います。



イスラエルに住む人の多くはユダヤ教徒です。

ユダヤ教の聖典(出エジプト記)には「もし損害があれば、命には命を、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を」と書かれています。

自分が受けた危害と同じものを相手に与えるという意味だと思っていましたが、実際には損害を受けた分を公正に保証してもらうという意味合いが強いようです。

ところが、今起きていることは、目を傷つけられたら、相手の目だけではなく歯も耳も鼻も傷つけようとしているように感じられます。



ユダヤ人には、ホロコーストで何百万人も殺された忌まわしい過去があります。

その時に誰にも助けてもらえなかったという悔しい思いがあります。

傍目からは過剰な攻撃に見えますが、自分の身は自分で守るしかないという意識が強く、それを当然と考えているのかもしれません。

やり返さなければ、相手の為すがままになってしまうという強い怖れが、このような行動に駆り立てているのかもしれません。



今から2000年前、イスラエルの地はローマ軍の支配下にありました。

抑圧されたユダヤ人は、怒りや憎しみが渦巻いていたでしょうが、強大なローマ軍の前に為す術がありませんでした。

昔のユダヤ人は、今のパレスチナ人の境遇と似ている気がします。



そんな時代に、イエス・キリストが現れました。

「汝の敵を愛せよ」

「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」と言いました。

当時のユダヤ人にとって、これまでとは全く違うこの教えは、極めて新鮮に感じられたと思われます。



現実に、このような対応をするのは極めて難しいです。

けれども、やられたらやり返すのでは、さらに傷つくだけです。

報復の連鎖から抜け出すためには、この「愛」の精神がどうしても必要となって来ます。



人は自分が受けた被害にばかりに目が行ってしまいます。

相手はどのような理由でその行為に及んだのかを知ろうとはしません。

そこには、大切な人を殺された怒りや憎しみや悲しみ、住む土地を追われた絶望があるはずです。

激しい憎悪を感じる相手にも、自分たちと同じ感情があり、それによって突き動かされている同じ人間であることに気付くでしょう。



ユダヤ教もイスラム教も、神は唯一絶対で全知全能の存在と言っています。

それ自体は間違っていませんが、人間から超越していて、全く別の存在と考えるのは誤りです。

シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

私たちもミニチュアの神としてもちろん大いなる慈悲を宿してはいるのですが、地上の人間性という覆いをかぶっているがために、それをきわめて不完全にしか表現できていないからです。



全ての人間に神が内在しています。

地上の人間は、内在する神性を表現しようとする存在です。

けれども、表現媒体(肉体や精神)が未熟なため思うようにできません。

神性は閉じ込められ、エゴから生まれる怒りや憎しみの感情に支配されています。

その感情を表現してしまうと、相手にも同じ感情が生まれ、エゴの連鎖が始まります。



人を傷つける行為は、神を傷つけようとする愚かな行為です。

人を傷つけた者は、神の法則(因果律)によって、自らが傷つきます。

憎しみに燃えて、やり返さなくても、宇宙を支配している神の法則により、等価の報いを受けるようになっています。



相手を愛する行為は、神を愛する行為です。

敵を愛する行為は、最大限に神を愛する行為です。



あらゆる感情に優越する力が愛です。

エゴから生まれる感情は、愛によって打ち消すことができます。

愛を表現することで、エゴの連鎖は止められますが、少なからず自己犠牲が伴うので、簡単ではありません。

それでも、許すことで愛を表現しなければ、この戦争を終わりにすることはできません。

愛を表現することのできた者が真の強者であり、勝者であると考えています。



私はミサイルが爆発した音を聞いたことはありません。

住む家を失ったり、戦争で傷ついた人を直接見ることもありません。

死の恐怖を感じたこともありません。

戦争を止めさせるために、何かできるわけでもありません。

けれども、同じ地上を生きている同胞として、想いを共有しようと努めることはできます。



肉体を使って意念を具現化しているのが地上の人間です。

意念はエネルギーです。

1人の人間から放たれる意念は弱くても、より多くの意念が集まれば、この物的世界においても具現化する方向に向かって動き出すと信じています。

1947年にインドはイギリスから独立しました。

ガンジーが放つ「非暴力と不服従」の意念は神の法則に反することなく、その意念に多くの国民が同調することで、独立を勝ち取ったと考えられます。

同じ意念を発することで、世界は具現化する方向へと変わって行きます。



多くの人が神に平和を祈っています。

戦争の最中にいる人は「もう終わりにして欲しい」と切望しています。

もし、世界中の人たちが想いを共有し「この戦争を終わりにする」という同じ意念を一斉に放つことができたとしたら、具現化する方向に動き出すと思っています。

意念は地上的労苦の代用とはなりませんが、何もできない現状において、有効な手段になり得ると考えています。


10 件のコメント:

  1. たとえば戦争状態の国に生まれて、小さな子供に、自分の代わりに死んで欲しいと言われたら、命を差し出さないといけないんでしょうか?

    返信削除
  2. 匿名様

    ブログを読んでいただき、ありがとうございます。
    小さな子供が自分の代わりに死んで欲しいと言わないと思いますが、もし自分が死ぬことで子供の命が救われるのであれば、その選択をする人はいるでしょう。
    弱い子供を大人は守らなければいけませんが、命を差し出さなければいけないのとは違うとは思います。
    それぞれの良心の基準は違います。
    自分の良心の声に従って行動するしかありません。

    返信削除
  3. イクミ様のブログには、変わった発想をする方たちが訪れるのですね。
    正気を失ってしまいたいとか。
    子供が自分の代わりに命を差し出してほしいと言うとか。
    なかなか自分には無い発想なので大変勉強になります。

    返信削除
  4. 子供がしがみついてきて、「怖い、まだ死にたくない、おじさん代わって」と言うようなケースはあるかもしれないと思います。
    その時に良心が「代わってあげなさい」と告げていたら命を差し出さないとカルマになるんでしょうか、

    返信削除
  5. あるいは、幼い子供の親が、半狂乱になって「どなたかこの子の代わりになって下さい、私はどうなっても構いません、この子だけは助けてください」と叫んでいるかもしれません。
    あるいは、もっと、図々しい親ならば、「ちょっとあなた身代わりになってくれない?」と言ってくるかもしれません。
    そのような時に死にたくないと思ったらダメなんですか?

    返信削除
  6. 匿名様

    以前、このブログにアウシュビッツにおいて妻子のある男性の代わりになり餓死刑となったコルベ神父のことを書きました。
    後にコルベ神父は列聖されましたが、肉体を持つ地上の人間にとって、自分の命を差し出すのは、極めて難しいと考えられます。
    良心が訴えていたのなら従うべきですが、そのような人は地上を生きる必要のないほど進化した魂であり、死の恐怖も感じないでしょう。

    親が子供を助けようとするのならば「自分が身代わりになるので、この子は助けて下さい」と言うのではないでしょうか?
    誰かが身代わりになることを親が望むこと自体、神の法則に反していると思います。

    返信削除
  7. ご回答、ありがとうございます。
    イクミ様の仰る、コルベ神父のことが念頭にあって質問しました。
    命を差し出せと言われて命を差し出すのは私にとっては難しくありません。
    それは霊性が高いからではなく、生育環境により、理不尽な要求を受け入れるのが常態化していたため、内心、都合よい駒として利用されていると感じはしても、拒絶する能力に欠けるからです。また、鈍いので、利用されている事にそもそも気づきにくいほうです。

    私にとって命を差し出すよりも人の言いなりにならない事のほうがずっと難しいです。

    イクミ様から頂いた回答は、「神の法則に反した要求にならば従わなくてもカルマにならない」という見解のように思えます。

    コルベ神父は自らの確固たる意志で死を選んだのかもしれませんが、
    私のような、ただ嫌なことを拒絶できないというだけの弱い魂にとっては、唯々諾々と他者の要求を何もかも受け入れる事ではなく、むしろ嫌な要求にはノーを言えるようになる事が魂の成長だと思うのです。イクミ様はどう思われますか?

    返信削除
  8. 匿名様

    おはようございます。
    命を差し出すよりも、人の言いなりにならない方がずっと難しいそうですが、そのようなこともあるのかと思っています。
    理不尽な要求を受け入れるのが常態化していたのであれば、あなたの魂の弱さからから来るものと言うよりも、自己防衛の手段であるような気がします。
    匿名様の自我が、傷ついたり、怖れを感じたくないために、そのような対応をしてしまうと考えられます。

    神の法則に反した要求ならば、従わなくてもカルマにはなりません。
    良心に従わずに行動してしまったら、カルマになります。

    傷つきたくない自分を克服して、意志(考え)をはっきりと相手に伝えることは、匿名様の今生の課題かもしれません。
    今からでも遅くありません。
    勇気を出して行動に移すことで、人生は好転して行くと私は思います。

    返信削除
  9. イクミ様

    紀子です。
    先日はお忙しい中、知り合いの娘さんへのヒーリングをありがとうございました。

    娘さんの通う小学校の運動会に参加されたと聞きました。

    きっと元気に出場されたのではないかと思います。
    学校に通うのが大好きな娘さんですので本当に良かったです。

    ヒーリングをしていただいたおかげと思っております。

    本当にありがとうございました。

    返信削除
  10. 紀子様

    こんにちは。
    お知り合いの娘さんが小学校の運動会に参加されそうで安心しました。
    これからも元気に学校に通われることを願っています。
    報告していただき、ありがとうございました。

    返信削除