新型コロナウィルスの流行が止まりません。
身近に迫って来ている様に感じます。
感染したらどうしよう?
そんなことを考えてしまうと、心の中に不安や心配が生じます。
先のことを考えるだけでなく、人は過去のことも振り返ります。
あの時にこうしていれば良かった、こうしなければ良かった、過去の言動を振り返り、後悔の念に苛まれる時があります。
思っている以上に、未来や過去に捉われているようです。
「未来を心配しないで、過去を悔やまなければ、今だけを考えて生きれば良いので、人生の重荷は3分1にすることができる」と、イギリスの心霊治療家であるT.H.テスター氏は言っていましたが、全くその通りだと思います。
シルバーバーチの霊訓には、こう書かれています。
「私たちが闘わなければならない本当の敵は、無用の心配です。それがあまりに多くの人の心に巣くっています。単なる想像上の産物、実在しない心配事で悩んでいる人が多すぎます。だから私たちは‟取り越し苦労はやめなさい”と、繰り返し言うのです。自分の力で解決できない問題に直面させられることはありません。克服できない困難は起きません。重すぎて背負えない荷物は与えられません。」
実在していないものを想像しては生じる心配や不安や取り越し苦労は、霊界から見ると、とてもやっかいなものに映っているようです。
物質に囲まれて生きている私たちが理解するのは難しいのですが、こんなことも書かれています。
「霊界では思念は実体のある存在です。存在するもの全てが思念で創り出されているのです。ですから必要と思うものは、どんなものでも手に入れることができます。」
霊界から見ると、肉体は薄ぼんやりとしか見えず、発せられた思念は実体をもって見えるようです。
どうやら、頭の中で考えた(想像した)ものと、思念とは全く別なもののようです。
以前このブログに、地上の人は「地上的な自我」と「霊的な自我」が存在していると書きました。
地上的な自我は、シルバーバーチの霊訓に書かれている「パーソナリティー」、霊的な自我は「インディビジュアリティー」に当たると思います。
地上的な自我は、言わばこの世の顔であり、外部環境を認識し、より安全に快適に生きようとしています。
霊的な自我は、本当の自分であり、そこから思念が生まれています。
霊的な自我から生じた思念は、地上的な自我によって具体化され、肉体によって具現化されていると考えられます。
従って、霊的な自我は地上的な自我の上位に存在していると言えます。
思念が霊的に実体があると言われるのは、具現化する力を秘めているからと考えられます。
一方、頭の中で考えたもの(思考)に実体がないのは、具現化する力が備わっていないからと考えられます。
頭の中で考えたものに実体がないのであれば、そこから生じる不安や心配も実体はないはずです。
しかしながら、実体がない不安や心配が、地上を生きて行く上で大きな影響を及ぼしているのは深刻な事実のようです。
霊界から届けられる援助の通路を塞いでしまいます。
援助の力が届かなくなると、導きや、乗り越える力が得られなくなります。
ひいては、予定されている人生が歩めなくなる可能性があります。
そんな理由から、霊界の人は、地上の人が不安や心配を抱くことを、強く戒めていると考えられます。
不安や心配を生じさせないためには、先のことをあれこれと考えないように努めるのが1番です。
瞑想は、一時的に思考をしなくなるので、大いに有用と考えられます。
しかし、止めると再び考えてしまうので、不安や心配を払拭するのは容易なことではありません。
地上的な自我よりも霊的な自我の方が上位にあります。
思考よりも、思念の方が優っているのです。
思念とは、個の意思の発露と言えます。
何かをしようとする時、そこに意思があります。
仕事をしようとするのも、家事をしようとするのも、そこに意思の働きがあります。
趣味に興じている時も、運動している時もそうです。
何かをしている時には、意思が優先されて、思考の働きが抑制されるために、一時的に不安や心配が生じなくなります。
何かに挑戦する時には、心配や不安が生じるものです。
それは、失敗することを考えてしまうからです。
そんな時は、「成功させる」と意思を持つようにすれば良いと思います。
失敗すると言う「考え」よりも、成功すると言う「意思」の方が優先されるので、不安や心配は生じなくなるはずです。
そして、意思には具現化する力が備わっているので、成功へとつながって行くと思います。
何も考えていなくても、漠然とした不安や心配が生じる時があります。
そんな時は、過去の出来事で生じていた想いが原因になっているかもしれません。
例えば、子供の頃にひどく怖い経験をしたとします。
号泣するなどして、その時の想いが外に表現されれば良かったのですが、余りに怖かったり、幼かったりするとできなくなります。
そうなると、表現できなかった想いは内に滞ります。
表現できなかった想いが内在していると、何の脈絡もなく不安や怖れが生じることがあると思います。
子供の頃、虐待やいじめを受けていた人は、多かれ少なかれ表現できなかった想いを抱えていて、大人になってからも不安や怖れに苛まれることがあると思います。
トラウマと呼ばれるものの実体は、表現できなかった想いと考えています。
過去に生じていた想いを解放させるものが「愛」です。
愛されている、守られていると言う安心感が得られたならば、不安や怖れは生じなくなります。
漠然とした不安が生まれた時は、それは過去に起きた出来事が原因になっているのかもしれません。
その出来事が起きた頃の写真を見つけて、その時の自分をみつめながら、慰める、労わる、安心させる言葉をかけてみて下さい。
理由もなく、涙が出て来るかもしれません。
その時のいくばくかの想いが、今の自分の愛によって、涙となって外部に表現されて解放されたと考えられます。
他にも、不安や心配を和らげる方法があります。
守護霊を始めとする霊界とのつながりを意識することも大切です。
意識することにより、霊的な力が流れ込んで、それまであった不安や心配がスッとなくなるのを感じられる時もあるでしょう。
その力も、地上の人を思いやる、霊界の人から届く愛の力です。
不安や心配が生まれると苦しく感じられるのは、成長を妨げているものだからです。
不安や心配は、「思念の力」及び「愛の力」により消すことができると考えられます。
魂が進化するほど、不安や心配が生じなくなるのは、霊界とのつながりが深まり、神の力(愛)がふんだんに魂に流れ込むためと思います。
人生には確固とした計画があり、乗り越えられないことは決して起きないと言う、神の摂理の働きを信じられたのなら、不安や心配は生じないと思います。
先のことを考えないように意思を持って今を生きること、そして霊界とのつながりを意識し神の摂理の働きを信じることで、不安はなくなると考えられます。
イクミさん、
返信削除読ませていただきました。いつもありがとうございます。
今朝のことです。
いつものように一人で朝ごはんを食べながら頭の思考が際限なく繰り出す不安や心配に苛まれていたのですが、ふと思考が途切れた空白の瞬間、心にサッと光が差したように視界が明るくなって、
”今追いかけていることを続ければ良い。それは光と喜びに続いている。”
というようなイメージが浮かんだんです。言葉ではなくひとかたまりのイメージが、ほんの一瞬の火花のスパークのようにです。
思わず「、、そうだ、この道しかない。。」
そう、ボウッとしたまま呟いたら、またすぐに、”これまでと同じ生き方(奴隷のような仕事)を選べば、後悔する。” とまたイメージが浮かんで(不思議なことに)「年収300万」という文字と、私が何か作業をしている情景が目に浮かびました。
正直に、全身全霊で生きるために、本当に人の役に立つために、心の底から求めている夢を追いかけ続けるか、諦めていやなことでも我慢してお金のための仕事を見つけるか、、両親のことを含めて経済的にとても苦しくてこれからが心配で悩んでいる中での、今朝の出来事でした。
もちろん、シンデレラの魔法使いの杖のように、これで突如として素晴らしいカボチャの馬車が現れたわけではありません。
それでも、思考の壁の途切れた瞬間に浮かんできたこのイメージが、私の霊的本体である真の自己=インディビジュアリティーからのものだと信じたいです。
ラッパ吹き
ラッパ吹き様
返信削除こんばんは。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
普段はパーソナリティーが表に出て生活をしているのですが、ふとした瞬間にインディビジュアリティーが顔を出して、自分の本当の想いに気付く時があると思います。
パーソナリティーは世の中に迎合する無難な生き方を志向していますが、インディビジュアリティーはより困難な方向を提示することが多いと思います。
今回のイメージは、インディビジュアリティーによる閃きなのか、守護霊からのインスピレーションによるものなのか判別は難しいのですが、いずれにせよ、自分をより成長させる方向だと思います。
しかしながら、地上では養わなければいけない人がいたり、考慮しなければならない諸事情もあり、勝手に決められないところもあります。
それでも、時期が来たならば、自然に道が開けて、そちらに進んで行くことになると思います。
今朝の出来事に対し、今回のブログの内容はタイムリーだったと思います。
このブログを観ることを見越しての計らいだったような気もしています。