人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2017年12月24日日曜日
魂の存在を信じますか?
人とは?と聞かれて、即答できる人は少ないと思います。
地球に棲む最も高い知性を持った動物が人であると、定義することには異論がないと思います。
知性は精神の産物であり、人とは目に見える肉体と、目に見えない精神から成り立っていると考えられています。
ところで、精神とは何なのでしょうか?
現代科学をもってしても、精神は未だに解明できておらず、謎だらけです。
精神は、物質的ではなく、再現性もないので、現代科学によって立証するのは不可能です。
大脳生理で、精神活動の全てを説明しようとする科学者がいます。
脳は確かに優れたコンピューターであり、思考の働きにより多くの問題を解決しています。
でも、どうしても説明できないことがあります。
それは感情です。
優れたコンピューターに求められるのは、正しい答えを導き出すことであり、感情など必要ありません。
なのに、どんな人にも感情はあります。
もし、感情を人から取り除いたらどうなるでしょうか?
ただの画一化されたロボットになり、個性は失われてしまいます。
人の個性はどの様に形作られるのでしょうか?
育った環境によって作られるのは確かです。
しかし、どんなに同じ様に育てたとしても、別々の個性が発現してきます。
生まれた時から個性が備わっていると考えた方が妥当なようです。
なぜ、生まれた時から個性があるのでしょうか?
遺伝子の違いが原因なのでしょうか?
塩基配列の違いは、肉体的な個性をもたらしますが、精神的な個性に関係しているとは、とても思えません。
個性を形作っている別の存在が、生まれた時からあると仮定した方が、合理的な説明がつきます。
別の存在が精神に反映され、個性となっていると考えれば全く無理がありません。
その存在は、科学で立証できないので認められていませんが、立証できないからと言って否定してしまのは過ちだと思います。
愛は科学で立証されたでしょうか?
立証されてないから、否定するべきなのでしょうか?
天文学の父と呼ばれるガリレオ・ガリレイは望遠鏡で木星を覗きました。
そして、木星の周りを衛星が回っているのを観察して、地動説を唱えました。
ところが、実際にその様子を見ていない宗教家や学者は、信じられずに否定し、裁判までかけました。
真実はどうだったでしょうか?
固定観念に捉われ、自分が信じられないものを否定してしまうのは、同じ過ちを犯しているように思えてなりません。
たとえ立証できなくても、証拠を見ていなくても、素直に信じなければいけないことがあると思います。
個性を形作っているのは物質的なものではなく、肉体とは別個に存在しています。
そんな単純な事象を認めるだけで、科学では説明困難なことが、納得の行く説明が可能になります。
問題を生じさせているのは、その存在と肉体が別の次元のものだからです。
人は肉体に備わっている感覚によって、この世界を感識しています。
その存在は、物質的な次元のものではないので、この世界の人は感識出来ません。
感識出来ないけれども、存在すること前提に話を進めて行きます。
肉体と目に見えない別の次元の存在、俗に言う魂が複合して、そこに精神が生まれ、人を構成しています。
3者は密接に関連し、お互いに影響を及ぼし合っています。
この世界では肉体がなければ、個性を表現できなくなり、その存在がいなくなれば肉体は存在意義を失って土に還ります。
生命とは肉体ではありません。
魂です。
魂に個性があるのです。
肉体には、物質的次元の自然法則が働いていますが、魂には霊的次元の自然法則が働いています。
肉体は自然法則の働きにより、成長し、老化して、やがて朽ちます。
しかし、魂は成長するのみであり、老いて朽ちることはなく不滅です。
この世に生まれたのは偶然ではありません。
私たちは、魂を成長させると言う、同じ目的を持って生まれてきました。
では、どのようにすれば成長するのでしょうか?
人や社会や動物のために奉仕をすることで、成長して行きます。
さまざまな出来事を乗り越えて行くことで、成長して行きます。
この世界が、奉仕をする機会に溢れていて、さまざまな出来事が起きるのは、成長するためです。
全てのことが、自然法則の働きによって生じています。
自然法則の働きによって、私たちは成長するように、導かれています。
身体は同じ構造であり、同じ組成ですが、魂にはそれぞれ個性があり、それぞれの成長度があります。
あらゆる成長度の魂が、交じり合っているのがこの世であり、そこに大きな意味があります。
それぞれが違う個性なので、共存するのには、お互いに認め合わなければいけません。
この世に生まれる人は、過ちを犯さないほど、成長度は高くはありません。
自分が過ちを犯すように、他者も過ちを犯すので、お互いに許し合わなければいけません。
もし、認め合い、許し合わなければ、いさかいとなり苦痛を伴う出来事が生じてしまいます。
この世界に生まれて、苦痛を経験しないためには、自己犠牲を伴う愛を表現しなければならず、その表現を通して魂は成長して行きます。
また、この世の人には肉体があります。
肉体を養うためには食べていかなければならず、そのためにはお金が必要です。
お金を得るためには、働かなければいけません。
働くとは、何らかの形で、人や社会へ向けた奉仕をすることです。
この世を生きて行くことは、他者への奉仕につながっているので、それだけで成長していることになります。
この世では、いろいろな出来事が起こります。
うれしいことばかりであれば良いのですが、つらいことも起こります。
スポーツ競技は厳しい練習を積んでいれば、次第に上達して行きます。
しかし、どんなに練習をしても結果が伴わない時があります。
困難な出来事が起こると、人は何とかして乗り越えようとします。
乗り越えようと悪戦苦闘する中で、魂は知らずに成長しています。
神の摂理(自然法則)の働きは完璧であり、困難を乗り越えて行けば、魂の成長という結果が必ず伴っているのですが、残念ながら、この世に生きる私たちに、そのことを感識できません。
今日はクリスマス・イブです。
ホワイトクリスマスはロマンティックですが、空から舞い降りて来る雪の結晶を見る度に、その造形の美しさを感じずにはいられません。
偶然によるものではなく、自然法則の働きによって、形の異なる幾何学的な造形になります。
その自然法則も偶然生まれたのではなく、何者かによって考案されたはずです。
その何者かが、神と呼ばれる存在です。
神は自然法則を考案し、その働きによって広大無辺な宇宙を隅々まで支配しています。
神が美しい存在なので、自然法則の働きも美しくなり、その働きによって造られた雪の結晶も美しくなります。
その美しさを感じているのが魂です。
魂は美しいものを知っているから、美しいと感じるのです。
では、なぜ知っているのでしょうか?
それは、魂は神から生まれた神の一部だからです。
全ての人は、神の心を持っているからです。
クリスマス・ソングです。お時間があるようでしたら聴いて下さい。
2017年12月10日日曜日
人間関係で苦悩するのがこの世
この世を生きていている多くの人にとって、悩みや苦しみにつながっているのが人間関係です。
気心の合う人ばかりであれば良いのですが、この世には、自分と性格や考え方、価値観の違う人がたくさんいます。
この世は、一人では生きていけないようになっていて、いろいろな人たちと交わりながら生活しなければなりませんが、そのことに大きな意味があると考えられます。
誰しも、いつの日か死が訪れます。
その先に待っている世界は、この世と大きく違います。
自分が会いたいと想う人だけと会い、嫌いな人、苦手な人、親しみを感じない人たちと、会うことはなくなります。
人間関係の煩わしさから、完全に解放された世界があの世です。
では、何故、私たちはこの世で人間関係に、悩み、苦しまなければならないのでしょうか?
全ての次元を通して、私たちが生きている目的は、自分(魂)を成長させるためであり、苦しみを乗り越える中で自分(魂)が成長すると言う、自然法則の働きがあるためです。
人間関係に煩わされることのない快適なあの世よりも、性格や考え方、価値観の違う人と交わり、その中でもまれ、時に苦しい思いをするこの世の方が学ぶことが多く、魂はより大きく成長すると考えられます。
快適なあの世を離れ、この世に生まれて来たのは、より大きく成長し、大切なことを学ぶために自らが志願した結果であり、学び、成長するのに従って、この世の苦しみから解放されて行くと考えられます。
考え方や価値観の違う人と接すると、一種の軋轢が生じます。
激しい個性の持ち主同士であれば衝突が起きて、時に怒りのようなものが生じてしまうかもしれません。
軋轢が生じるのは、自分が理解されなかったり、自分の意見が通らなかったためと考えられます。
しかし、裏を返せば、相手を理解していなかったり、意見を尊重しないために生じているようにも思えます。
軋轢を避けるために、相手に考え方や価値観を自分に合わせてもらうのは、極めて困難です。
自分は変えようとせずに、相手に変わってもらおうとするのは利己的な考えであり、上手く行くはずはありません。
もし、軋轢を避けたいのであれば、相手に変わってもらうより、自分が相手を理解する、尊重するように変わるしかありません。
軋轢から争いに発展している世の中の状況は、自分はそのままで、相手に変わることばかりを求めているからのように思えます。
相手に変わることを求めても、受け入れるはずはなく、反発を生んでしまうだけです。
自分のことを、ますます受け入れてもらえなくなり、両者の溝は深まって行くだけです。
相手が間違っていると決め付けてしまうのが、1番良くないのかもしれません。
決め付けてしまう人ほど自分の意見を譲ろうとせず、相手の意見にも耳を傾けないような気がします。
間違っていると決め付けると、因果律の働きにより、相手もこちらが間違っていると決め付けてしまい、両者に歩み寄りはありません。
間違っていると決め付けてしまうことから、まず解放されなければいけません。
正しい間違っているのかは、主観によるものではなく、神の摂理(自然法則)を基準に、判断しなければいけません。
個ではなく全体の利益をもたらす方、大きな悦びをもたらす方が、より正しい意見です。
自然法則(神の摂理)に適っている人は、自分の意見を通そうとする人ではなく、相手の意見を尊重する人です。
相手の意見を尊重すれば、因果律の働きにより、結局は自分の意見が尊重されることになります。
それでも、どうしても相手の意見が明らかに正しくなかったり、利己的で認められない時はどうすれば良いのでしょうか?
その意見は、長くは続かずに、いずれ淘汰されてしまうと考えられます。
自然法則に適った意見のみが、永続的に残ります。
相手の意見を無視して、頑なに自分の意見を通そうすると、後ろめたさや罪悪感を感じるかもしれません。
魂には良心が内在されています。
良心とは、自分の中に顕現している神の心です。
神の心は、あらゆる自然法則の中に現れていて、ばらばらになった違うものを一つにさせようとしています。
自然法則の働きに従えば悦びが、背けば苦痛がもたらされるのは、自らの過ちに気付いて、私たちが一つになるように導かれているからです。
相手と自分が歩み寄るのを妨げてしまう行いは、一つになろうとする良心の声に逆らうことになり、何かしらの苦痛を感じてしまうと考えられます。
シルバーバーチの霊訓を読んでいると、交霊会の参加者が、人を非難したり、咎めたりする発言をすると、途中で話を遮り、いさめる場面がありました。
咎めたり、非難するのは、対象が間違っていると決め付けているからであり、その言動自体が間違っているので、いさめられたのかもしれません。
間違っていると咎めたり、非難してしまうと、その事象はそれで完結してしまい、自らを省みることはなく、欠点に気付いたり、足りないところを補おうとする努力を放棄してしまうことになり、それでは成長が望めないような気がします。
また、相手を咎めたり、責めてしまうのは、自らの寛容性のなさを露呈しています。
自分の未熟さを承知している人ほど、相手の未熟さを咎めたりすることが出来なくなると思います。
たとえ過ちであっても、それが相手の未熟さから来るものであれば、より成長した人は認め、許さなければいけないのかもしれません。
さまざまな人(魂)が交わるこの世の人にとって、認め、許すことは極めて重要であり、咎めたり非難をすると、成長の機会を1つ失ってしまうことになるのかもしれません。
怒りや、拒絶からは、何も生まれず、何も得られません。
怒りや拒絶が生まれないような考え方や捉え方をするようになるのが、この世の学びであり、成長につながっていると思います。
意見が衝突して怒りや拒絶が生じる前に、相手の想いを探り、そこに隠された意図を見つけ出す必要があり、より成長した人がその努力をしなければいけないのかもしれません。
例えば、怒りや拒絶をあらわにしている人がいるとします。
怒りを前面に出して、攻撃的になっているのですが、その根底にあるのは恐怖なのかもしれません。
恐怖に支配されているために、信じることが出来ず、過剰に自分を守ろうとしてしまうことがあります。
過剰に自分を守ろうとする行為が、相手に恐怖を生じさせて自分を守ろうとする行為となり、それが新たな恐怖を生み出してしまいます。
その連鎖を断ち切るためには、相手に恐怖を感じさせないような十分な配慮が必要と思われます。
相手を知らないと、不安になります。
不安になるから、自分を守ろうとします。
自分を守ろうとすると、自我が強固になり、お互いが衝突してしまうことになります。
お互いを知らないことから始まっているので、こちらの方から知ろうとする努力が必要です。
そして、表面だけを見るのではなく、言動に込められた想い(真意)を知ることで、人々を悩まし、苦しめている多くの問題は解決されると思います。
あの世では、自分の想いが直接、相手に伝わります。
しかし、今いるこの世界では、言葉や行動で表現して伝えなければいけません。
お互いを知るために、コミュニケーションを取る必要があります。
意見が衝突してしまう相手とは、係わり合いになりたくないと避けるのではなく、そんな人ほど密なコミュニケーションを取って、お互いのことを知らなければいけません。
自分とは合わないと思っている人は、実はお互いに知らないだけなのかもしれません。
想い(真意)を知ろうとする努力は、この世での成長につながっていると考えられます。
お互いを知ることで、緊張が解けて、初めて信頼関係を築く土壌が出来上がります。
信じ合うことは神の摂理であり、心が通い合い、1つになれた悦びを感じます。
2017年11月26日日曜日
今を生きる
「今を生きる。」
良く使われるこの言葉は、過去に捉われず、未来を心配しないで、今この一瞬を大切にして生きるという意味と解釈しています。
言葉にするのは簡単ですが、これはなかなか難しいと実感しています。
人は、過去の記憶に縛られやすく、将来に対し不安を抱いてしまいやすい生き物だと思うからです。
過去に捉われてしまうと、何故いけないのでしょうか?
それは、今の自分に、少なからず影響を与えてしまうと考えられるからです。
何かを精一杯しようと思っても、過去に捉われていると、力を出そうとしても出せません。
生きていれば、誰にでも失敗はあります。
しかし、過去の失敗に捉われてしまうと、今、何かに挑もうとしても、二の足を踏んでしまうかもしれません。
もし、過去に裏切られた経験があれば、同じような経験を恐れるあまり、今、出会った人が信じられずに、友好関係を結べなくなってしまうかもしれません。
過去に捉われてしまうと、今が変わってしまい、その先の人生に大きな損失が生じてしまうのは間違いありません。
また、未来のことを心配し過ぎるのも良くありません。
自分の力を、出し切れなくなってしまうからです。
何かをやろうとする時に、どのような結果になるのかは事前には判りません。
上手く行かなかった時のことを想定して備えるのは当然です。
しかし、上手く行かない時のことばかりを考えてしまうと、そこから派生して生じるであろう事態をまた心配してしまい、際限がなくなってしまいます。
失敗するかもしれないと思うのは良いのですが、失敗したらどうしようと思ってしまうと、好ましくない感情に支配されてしまいます。
不安や怖れが生まれれば、今を精一杯生きようする力が、内から湧いて来なくなってしまいます。
全ての人の人生の目的は、自分(魂)を成長させるためです。
人それぞれに、人生で困難や障害が立ちはだかりますが、それは乗り越えて行くことで自分(魂)が成長して行くという自然法則が存在するためです。
この世に生まれた人にとって、困難や障害が立ちはだかるのは避けられません。
人生には、人それぞれに大まかなシナリオがあります。
シナリオは人智を超えたものによって立案され、それに沿ってさまざまな出来事が訪れます。
目の前に立ちはだかった困難や障害は、必ず乗り越えられるようになっています。
それは、乗り越えられる困難や障害だけが自分の前に生じるように、自然法則の働きによって計られているからです。
本当の自分(魂)は、目の前に起きた出来事を乗り越えることによって、自分が成長することを知っています。
人生のどこかで、その出来事が起きて、乗り越えて成長することを誓って、この世に生まれて来たからです。
しかし、地上の人間には、もう1つの自分(自我)が存在しています。
もう1つの自分は、そのことを知りませんので、頭であれこれと考えてしまいます。
「魂なんて存在するはずはない。死んだら終わりで無になる。」
そう考えてしまえば、出来事は運、不運として片付けてしまい、人生は不公平で、不平等なものに思えてしまいます。
そして、もう1つの自分は、自分を守るために、安全で楽な方向に進んで行こうとします。
「やっぱり無理だ」
「失敗したらどうするんだ。恥をかくぞ」等々、躊躇させたり、止めさせようと頭の中で囁いています。
乗り越えようとする本当の自分と、躊躇するもう1つの自分の間で、せめぎ合いが起こり、その状態は、精神的な葛藤として自覚されます。
では、どちらに進んで行けば良いのでしょうか?
本当の自分の想いに従い、乗り越えて行く方向に進んで行くのが正解です。
自分が成長し、生きている意味の1つを成就させることになるからです。
全ての事象は、自然法則の働きにより生じていて、偶然は何1つありません。
自然法則とは、神の摂理です。
私たちは、神の摂理の働きによって、成長する方向、神に近づく方向に導かれていると考えられます。
人生の出来事も、神の摂理の働きにより生じていて、その目的は私たちを成長させるためと考えられます。
人生の(困難や障害を伴う)出来事を乗り越えて行くことで成長して行きますが、もし、乗り越えて行けない出来事が起きたならば、目的から外れたことが起きたことになります。
神の摂理の働きは完全無欠と考えられます。
目的から外れるような出来事は、決して生じないはずです。
従って、今回は絶対に無理と思うような出来事が起きたとしても、神によって乗り越えられることが保障されていると考えられます。
シルバーバーチの霊訓には、取り越し苦労はするなと、何度も書かれています。
取り越し苦労とは、もう1つの自分の想像により生み出される不安や心配や怖れの感情であり、その感情は霊力の流入を妨げてしまい、乗り超えられるはずの出来事が、乗り越えられなくなってしまう可能性があると考えられます。
霊力とは生命力であり、魂を介して思念となります。
不安や心配や怖れは、想像している以上に厄介なもののようです。
乗り越えようとする思念が生じる、大きな妨げとなってしまうからです。
霊界で見守っている存在からの援助の力が届く、大きな障壁となってしまうからです。
困難や障害が立ちはだかった時の1番の障壁は、対象そのものではなく、実は自分自身かもしれません。
立ち向かっていこうとしている本当の自分(魂)にブレーキをかけている、もう1つの自分がいるからです。
人生の出来事が起きると、両者の間でせめぎ合いが必ず起こります。
自分に克つとは、本当の自分(魂)が、もう1つの自分(自我)に打ち克つことを指すと考えられます。
しかし、全力を尽くしても、期待した結果が出ないこともあります。
目に見える結果は、地上的なものです。
形となる結果が出せなくても、目に見えない最善の結果が得られていることがあります。
結果を出すのはもちろん大切ですが、その経験により、いかに成長したか、何を学んだかの方が、霊的にははるかに大切です。
また、期待した結果が出なかったとしても、それは予定されていたことであり、その先でさらに大きく成長するためなのかもしれません。
もう1つの自分は、思考によりさまざまな想像を作り出します。
その想像から不安や心配や怖れが生じてしまうと、その念が(乗り越えさせる)力の流入を妨げてしまいます。
自分(魂)を信じて進んで行けば、最善の結果が待っていますが、道をふさいでいるのは、もう1つの自分です。
もう1つの自分がいるのを意識し、それを沈めて、内側にいる本当の自分が望んでいるものを浮かび上がらせ、それに迷わず従いましょう。
過去の自分が、今の自分を作り上げて来て、今の自分の成長にとって最適な出来事が生じています。
たとえ直ぐにとは行かなくても、必ず乗り越えられるようになっています。
強く信じて進んで行けば、その先に悦びが待っています。
過去に捉われず、未来を心配し過ぎず、今を生きましょう。
2017年11月12日日曜日
愛は魂を引きつけ合う力
月が地球の周りを回っているのは、両者の間に万有引力が働いているからです。
もし、引力がなくなれば、月は周回軌道を外れて、宇宙のかなたへと飛んで行ってしまうでしょう。
目に見えない力が、地球と月の間に働いているのを、疑う人は誰もいません。
この世で人を引き付ける力を持っているのは何でしょうか。
ある人にとっては、それはお金かもしれません。
あるいは、名声や権力であったりします。
美貌も、そうかもしれません。
それらに引き付けられて集まって来た人は、対象を失ったとたんに離れて行ってしまいます。
人と人を引き付け合うものは、それだけではありません。
それは愛です。
愛は、人と人を引き付け合う引力のようなものと考えられます。
磁石のS極とN極が見えない力によって引き付けられるように、魂と魂は目に見えない愛によって引き付けられます。
なぜ、愛によって人は引き付け合うのでしょうか?
愛は1つになろうとする、神の力と考えられるからです。
もともと1つであったものが別れて、愛によってまた1つになって行く、それが神の意志と思います。
ところで別れって何でしょう?
もしも、親しくしていた人が何かの事情で遠くに引っ越してしまえば、それは別れであり、寂しいものです。
しかし、今は携帯電話があるので、声を聞きたければ、直ぐに聞くことが出来ます。
交通手段が発達しているので、また会おうと思えば、いつでも会うことが出来ます。
そばにいれば、別れはないのでしょうか?
目の前にいたとしても、別れていることはあります。
人と人の間に親愛の想いがなければ、鉄と鉄を近くに置いても引き合わないように、魂を引き付け合う力は働いていません。
いくらそばにいても、霊的には無関係です。
死は別れを意味するのでしょうか?
死んで姿は見えなくなっても、別れていません。
確かに死んでしまえば、見ることも、話すことも、触れることも出来なくなります。
携帯電話やメールをしてもつながらず、世界中どこを探しても、その姿は見つけられません。
けれども、愛がある限り別れはありません。
人の本質は、目に見える肉体ではなく魂です。
死んで見えなくなっても、魂は変わりなく存在しています。
この世とあの世の魂から放たれる愛という霊的な力により、両者は生前と全く変わらずに結ばれています。
あの世の人は、そのことが良く判っています。
残念ながら、この世の人には実感がありません。
実感がないので、魂なんて存在しないと思うのであれば、自分から別れを告げていることになります。
愛は、お互いを引き付ける力だけなのでしょうか?
それ以外にも、魂を良い方向に変えて行く力を持っています。
イソップ物語の「北風と太陽」の日差しのようなもが愛であり、他のどんな力によっても変わらない人(魂)が、愛によって変容します。
愛を受けて、自らにも愛が湧き上がり、それを外に向かって表現したくなります。
愛は愛を表現する衝動を起こさせる力であり、表現することによって魂は成長し、変容して行きます。
あの世の魂から愛が放たれ、それがこの世の魂に伝わり、魂のありさまを変えて行きます。
伝わってくる愛により、悲しみは癒され、生きる力が生まれ、心に光が灯ります。
一瞬にして、心境を変化させる力を秘めていますが、五感を超えたものなので、この世の人は無意識の内に伝えられていることに気付けません。
しかし、あの世の人は返してもらおうと思ってはいないので、それで良いのかもしれません。
肉体はなくなっても魂は存在し、愛で結ばれている限り、別れはありません。
変わりなく結ばれていることを信じられる人は、あの世から愛を受け取ることが出来ます。
受け取った愛の力により、心があたたかくなり、安らぎを覚えます。
今生の(肉体上の)別れは、時に途轍もない苦痛を伴います。
その苦痛は、本当の自分(魂)を目覚めさせると言う神の計画の一部と考えられます。
この世に生まれて来た目的はたった1つであり、自分(魂)を成長させるためです。
困難や障害を乗り越えて行くこと、愛を表現することで、魂は成長して行きます。
神から見れば、直接的な愛の表現も、求めることも、祈ることも、信じることも、失った悲しみの涙も、同じ愛の表現なのかもしれません。
同じ成長をするのなら、悲しみの中でなく、喜びの中で成長するのでも良かったのではと思う時があります。
しかし、深い悲しみの経験から学んでいるのは、言葉にならないほど大切なものであり、実体験しなければ判らないのかもしれません。
この世で、大きな成長を望む人にとって、どうしても必要だったのかもしれません。
同じ次元に生きて、同じ経験をしても、同じ想いを共有しているとは限りません。
違う次元にいても、この世の人と同じ想いを共有することが出来ます。
この世では人の想いは見えませんが、思念の世界であるあの世は、この世の人の想いが視えます。
この世にいる人が遭遇する出来事から生じている想いを知り、同じ想いを共有しようとします。
うれしいことがあったら、我が事のように喜びます。
つらいことがあれば、同じようなつらさを感じます。
それでも乗り越えて行かなければいけないのを知っているので、励まし、力付けようとするでしょう。
別れにより、この世の人とあの世の人は、どれほど愛し、愛されていたのかを知ります。
別れほど、愛を喚起させるものはありません。
別れを通して愛の本質を学び、この世界で愛より大切なものはないことを、深く魂に刻んで行きます。
止むことない悲しみ、寂しさは、愛し続けていればこそです。
悲しむことも、愛することも、その人を想うことに変わりはありません。
この世で共に暮らし、愛し続けるのには限界がありますが、次元を異にして生きることで、純粋に想い続け、愛し続けることが出来るのかもしれません。
求める気持ちは愛です。
求め続けている限り、愛し続けています。
この世が終わる時まで求め続けたならば、一生愛し続けたことになります。
そこまで求め続け、愛し続けることは、別れなしには出来ないのかもしれません。
その想いはあの世の魂に届いています。
受け取った想いに応えるために、道を間違えないように、この世の魂が成長できるよう、想いを返して導き続けます。
次元を異にして生きてきた魂は、同じ次元で再会する時が訪れます。
次の次元に移行した魂は、流した涙により、魂は浄化され、成長していることに気付きます。
待っている魂は、お互いの愛により同じ輝きを放つようになった魂を見つけて、そっと抱きしめるでしょう。
愛し続けられたことを誇りに思い、お互いの魂を引き付け合う力が強くなっていることに驚くでしょう。
参考ページ: 「信じることで愛することができる」
2017年11月4日土曜日
成長した君へ
見違えるほど、強く成長した君を見ていると誇らしくなる。
2人で見ていた景色を、私も忘れない
雪の降る海
凍えるほど風が冷たかったね
あの時も、この時も、いつも一緒にいて励まし合っていたね
別れって突然来るけど、これは別れじゃないとすぐ気付いた。
でも、君はなかなか気付けなかったね
全て決められていたことだけど、あまりに過酷な運命だと見ていて思った。
冬の海で、1人震えていたね
寒くて寒くて仕方なかったけれど、あたたかな日差しが差し込んで来たね。
その日差しが、こちらから届く想いなんだ、それが君からまた外に放たれるんだ
どこにいても明るくしていたね
けれども心は一杯一杯だったね
もう無理しなくても、大丈夫だから
会いたいと思っていたら、会えないんだ
みんなの笑顔の中に、私を見つけ、そこにいることに、やっと気付いてもらった
さっすがだなーと思う
思っていることは、いつも一緒
願っていることも、いつも一緒
あの時と、何も少しも変わってないんだ
良く気付いてくれた
本当にうれしい
それでこそ自分が好きになった人
あの時と同じ気持ちのままでいられるんだから、すごく幸せなんだ
本当に、本当に、本当に大好きな人
楽しいことが、たくさん待ってるんだから、それまで辛抱して下さい
さっすがだよ、誇りに思ってるよ
これからも離れることはないから
2017年10月29日日曜日
ガンの原因
今、テレビなどで、健康食品やサプリメントの宣伝を見ない日はありません。
多くの人が、健康に関して大きな関心を持っています。
でも、それは肉体に限ったことであり、本当の健康はもっと違うところにあると思っています。
多くの人は、目に映る肉体こそが自分だと思っています。
けれども、それは間違っています。
自分の本質は、目に見えませんが魂(霊)です。
生命そのものです。
肉体は、魂から生じた思念をこの世で表現するためにある媒体に過ぎません。
肉体は滅びても、魂(生命)は変わりなく存続しています。
人間は、魂(霊)、精神、肉体から成り立っています。
3者は密接不可分の関係にあり、お互いに大きな影響を与えています。
最近では、精神が肉体に大きな影響を与えていて、病気の原因になっていることは、医学的にも認められています。
精神的に強いストレスがかかると、胃潰瘍になってしまうことが判っていますので、手術をして穴が開いた部位を取り除くようなことはしません。
それよりも、ゆっくりと休養したほうが、はるかに効果的です。
世界中の人々を悩ませているガンについてはどうでしょうか?
興味深い記事を見つけました。
米ハーバード大学などの研究で、感情を吐き出さずに溜めておく人は、ガンのリスクが70%も増加するという結果が判り、「Journal of Psychosomatic Research」(2013年10月)に掲載されたそうです。
胃潰瘍と同じ様に肉体とは別の次元に、何かしらの原因があると推察されます。
しかし、ガンは胃潰瘍と違い、ゆっくりと休養すれば治るわけではありません。
ガンは精神的次元よりも、さらに上位にある霊的次元に原因が存在する病気だと考えています。
霊的次元の原因とは何でしょうか?
それは内に溜まっている想い(想念)だと考えています。
ここで断っておきたいことがあります。
ガンは、霊的(内にある想い)次元の原因だけでなるのではありません。
肉体的次元にある原因によっても生じます。
一定以上の放射線を浴びたり、発ガン性物質やウィルス感染によっても、ガンは生じるのは明白な事実です。
そして、霊的次元の原因にもいくつかの種類があります。
生まれる前から原因が存在し、魂を成長させるシナリオとしてガンが生じる時があります。
次の世界に移行するために、ガンが生じる時もあります。
霊的次元にはさまざまな原因がありますが、今生で生じている原因として、内にある想念が第一に考えられます。
想いは魂から生まれ、精神を経由して、肉体で表現されます。
言い方を変えれば、生命力が霊的次元(魂)で想念となり、精神的次元で司令となり、肉体的次元で言葉や行動となって、外に向かって解放されています。
精神的次元で強い抑制がかかってしまうと、肉体的次元で具現化して外に解放されずに、想いは内に留まってしまいます。
精神的次元での強い抑制は、地上的(この世の)自我によってかかります。
自我は、魂の表現をするために必要ですが、自己を守ろうとする気持ち、上手く生きようとする気持ち、地上的な欲望が強いと、本来の想念を表現するのを妨げてしまいます。
強い想念は、消えてなくなるものではありません。
内に留まっていて、後の人生に影響を与えています。
人に裏切られ、憤りの想いが留まっていれば、安易に人を信じようとしなくなります。
とても恐ろしい体験をして、怖れの想いが留まっていれば、何かにつけて不安になったり、怯えてしまうかも知れません。
この世に生まれて来たのは、自分(魂)を成長させるためです。
そして、人生には自分を成長させるための、大まかなシナリオがあります。
困難や障害を乗り越えて行くこと、他者に奉仕をすることで、人は成長して行きます。
よって、人生には苦難が付き物です。
そして、各々の人生において、他者への奉仕の機会が与えられています。
ところが、内に怒りや、憎しみや、怖れや、不信などの想いが溜まっていると、そんな自分を成長させる機会が訪れても、避けてしまう可能性があります。
もし、避けてしまえば、今生に生まれて来た大きな意味を失ってしまうことになります。
私たちは自然法則によって、成長する方向に導かれています。
内にある想いに気付かず、成長する機会を失っていると、自然法則(因果律)が作動します。
内にある想念は、肉体次元で病変や機能異常となって表現されることになります。
霊的次元に原因ある病気は、自分でも気付いていない成長を妨げている想念が、因果律の働きにより肉体次元を変化させ、五感によって気付かせるために存在する、自然法則の一種と考えられます。
内に想いがあるために、自分本来の想いを表現出来ずにいたのです。
自分ではどうすることも出来ないので、自然法則の働きにより病気になったのです。
(肉体的な)生命にかかわる深刻な病気になり、苦痛を感じなければ、本当の自分が目覚めることはなかったと思われます。
本当の自分が目覚めない限り、内にある想いに気付けません。
内にある想いに気付かなければ、解放することは出来ません。
内にある想いを解放することが出来なければ、本来の自分の想いを表現することは出来ません。
内にある想いを解放し、本当の自分を取り戻すために、ガンになったと考えられます。
自分の中に、大きくて重い、触れたくない想いの塊みたいなものはないでしょうか?
その想いが引っかかっているために、自分の想いを表現できないことはないでしょうか?
言いたくても言えない、やろうとしても何故か出来ないことはないでしょうか?
自分の中に、本来の自分を表現出来なくさせている、何者かが存在しています。
それがなくなれば、あるがままの自分が表現出来て、思い描いている人生を歩むことが出来ます。
その何者かが、霊的次元にある表現できなかった想念です。
私たちは、地上的な自我を作り上げて行きますが、それが本来の自分と錯覚してしまうと、内に溜まっている想いに気付けなくなります。
ガンの苦痛は無駄なものではありません。
魂に働きかけて、目覚めさせています。
魂が目覚めれば、強固になった地上的な自我は自壊して行きます。
そして、本当の自分が前面に現れてきて、大切なものが見えてきてます。
内に溜まっていた想いは、大切なもの(愛)に目覚めた魂との間に親和性を失い、解放されて行きます。
本当の自分を目覚めさせ、本来の生き方や考え方に変えて、人生のシナリオに沿って魂を成長させて行くために、ガンは存在していると考えられます。
ところが、ほとんどの人は、ガンになれば病院で治してもらおうとします。
現代医学はガンの根本原因を未だに掴めていません。
対処療法に終始しているため、死亡者数は減るどころか、年々増えています。
医者は、生命を奪う敵と考え、身体から手術でガン組織を取り除き、見えないガン細胞を薬で消滅させようとします。
もし、霊的次元にある原因でガンが生じたのであれば、本体(内にある想い)が取り除かれていなければ、また肉体上に反映されてしまいます。
苦痛により魂が目覚め、霊的次元にある原因(想念)が取り除かれたなら、肉体上のガンは異物として排除されるはずですが、愚かにも神の創った自然治癒機能(免疫機能)が人為的に破壊されてしまっていれば、肉体上の治癒機転は起こりません。
神の摂理が働かなくなる、極めて不自然な行為が、唯物的な見方しか出来ない現代医学の現場において、当然のごとく繰り返されています。
神が与えた苦しみではなく、人為的な苦しみに多くの人はさらされています。
神の摂理によって魂は癒されているのに、人の過ちによって肉体が癒されないために、肉体から魂が離れざるを得ない状況(死)に陥ってしまう人が、何と多いことでしょうか。
後世において、医学の汚点として歴史に刻まれることになるでしょう。
参考ページ: 「ガンは愛により癒される」
2017年10月14日土曜日
自分を信じる
この世を生きていて、とてもつらく感じることがあります。
それは、人に信じてもらえないことです。
赤の他人であれば、それほどでもないのですが、親しい人であれば、かなり堪えます。
親しい人に信じてもらえないのは、悲しいことですが、自分にとって一番親しい人は誰でしょう?
それは、自分自身です。
自分自身を信じられないのは、とても悲しいことです。
人生では、いろいろな難しい局面に遭遇します。
自分が信じられるか、そうでないかで、進んで行く方向が大きく変わってしまうことが数多くあります。
自分が信じられなくなってしまうと、不安や心配にかられて、安全、無難な方向に進んでしまうことが多いです。
そちらの方向に進んで行くのは、一見すると賢明な選択に思えて、実は成長する機会を1つ失っているのかもしれません。
自分が信じられる、信じられないと言うのは、どのようなことなのでしょう?
自分には大きく分けて、2つの自分がいます。
1つの自分は、本当の自分、真の自分であり、事象を感識し、意志決定をしています。
幼い時には、本当の自分が前面に出て生きています。
しかし、大人になるのに従い、もう1つの自分、この世で生きるための自分(以下この世の自分)を作り上げて行きます。
どうして、もう1つの自分を作り上げて行くのかと言えば、本当の自分を表現するために、この世では必要だからです。
また、あらゆる侵襲から、本当の自分に危害が加わらないようにするためです。
本当の自分を守るための、バリアと言って良いのかもしれません。
失敗するのを怖れ、恥をかくのを怖れ、時に見栄を張ったり、嘘を付いてしまうのも、この世の自分です。
目先の利益に捉われ、大切なものが見えなくなってしまうのも、この世の自分がいるためです。
この世の自分は、精神上に作り上げられています。
ところで、精神はどこから生まれるのでしょうか?
精神は脳から生まれるという科学的根拠は、どこにもありません。
唯物的な科学では、実体をつかめていないのが現実です。
脳は、この世の事象を知覚し、本当の自分に伝達するためにあります。
そして本当の自分から生じた思念を具現化するために、肉体の司令塔の役割をしています。
もちろん、文字を介して事務的な計算や会話を行っているのも、脳の働きによるものです。
1つの生命の中に、2つの次元を異にした自分がいると言って良いのかもしれません。
自分の思念を、周囲の状況に合わせて、効率良く表現するために、この世の自分を作り上げて行きますが、この世を上手く生きよう、過剰に自分を守ろうとすると、強固に作り上げてしまい、本当の自分が埋没してしまいます。
そして、この世の自分が、本当の自分だと錯覚してしまうようになります。
なぜ、そうなってしまってはいけないのでしょうか?
本当の自分が埋没してしまうと、予定されていた成長が得られなくなるからです。
成長するために存在する、人生のシナリオを知っているのは、本当の自分だからです。
意識に上りませんが、本当の自分は、するべきこと、なすべきことが判っていて、自分を信じることで、予め決めていた方向に進んで行くことが出来ます。
本当の自分が主導権を握っていれば、直感に従って、予定されていた自分の人生を歩むことが出来ますが、この世の自分が主導権を握ると頭脳で考えてしまうために、シナリオから外れてしまう可能性があります。
この世の自分は、本当の自分を表現するためにあるのですが、一人歩きを始めてしまうと、逆に表現の妨げになってしまいます。
両者の間に不一致が起こり、乖離してくると、生命体に不調和が生じてきます。
霊から精神、精神からと肉体へ行き渡る生命力の循環に障害が生じて、心身に病気として現れるかもしれません。
自信が持てないのは、この世で作り上げた自分が不安や否定的な考えを創作して、成長しようとする(本当の自分の)思念に対抗している状態です。
本当の自分の思念に、素直に従って行動すれば、(生命)力が供給されて、目的が成就されて行くはずです。
しかし、不安や心配や怖れがあると、十分な(生命)力が受け取れなくなってしまいます。
自分を強く信じて「必ず上手く行く」と言い聞かせることで、否定的な考えは退けられ、十分な生命力を受け取ることができ、前向きな気持ちとなり進んで行けます。
自分を信じるとは、本当の自分を信じることです。
自分が信じられないのは、この世の自分が身を守るために、適当な理由を付けて、本当の自分の思念を阻もうとしているからです。
この世の自分から生じている考えを識別し、時には耳を貸さないようにすることも必要です。
思念は具現化する力です。
その気になりさえすれば、地上を変化させる力となって、目的を成就できるはずです。
本当の自分とは魂です。
私たちの本質です。
肉体は、魂を表現する媒体に過ぎません。
生命力の始源は、神と言われる存在です。
魂は神によって創造された、神の一部であるため、私たちは神と結ばれています。
神から、いくらでも生命力を受け取ることが出来るはずです。
神は自分の一部である魂に生命力を与え、自らの心を表現しようとしています。
別の言い方をすれば、魂には神の心を表現しようとする、根源的な欲求が潜在しています。
魂には、ふさわしい表現媒体が与えられますが、地上の人間は魂が未発達なため、表現が大幅に制限された肉体が与えらています。
神の心と、かけ離れたものにならないように、きわめて鈍重な肉体が与えられ、表現を制限していると言えるのかもしれません。
さらに、魂の表現に制限を与えているのが、この世の自分です。
肉体とこの世の自分によって、魂(本当の自分)の表現が制限されていますが、成長して行くのに従い、神の心がより表現できるようになると、媒体と自我の束縛から、徐々に解放されて行きます。
それが人の進化であり、より進化して行けば、自我は必要なくなり、純粋な魂の表現により生きて行くようになると考えられますが、ずっと先のようです。
この世では、魂を表現するために自我を作り上げているのですが、その自我が大きくなってしまい表現が妨げられていることがあります。
また、現実的な生活に追われて霊的な意識が低下してしまうと、自我のみが意識されるようになってしまいます。
魂に目覚めるとは、この世の自我から本当の自分に意識の焦点が移行した瞬間を指すと思います。
自我が大きくなり過ぎて、そして霊的な意識が低下すると、さまざまな問題が生じます。
自我はその性質上、自己防衛的になりやすく、他者との調和や融和を妨げてしまいやすいです。
また、霊的な意識が低下すると、唯物的になりやすく、利己的な考えに陥りやすいです。
戦争は、過った自由意思の行使により起こりますが、それは霊性の低下と言うよりも、自我の暴走によるものが多いのかもしれません。
貧困は、霊的な意識の欠如により、自分の欲望だけを満足させようとする利己的な考えが、世の中を支配している結果だと考えられます。
自分には、2つの自分が存在します。
この世だけに存在する自分と、永遠に存在する本当の自分です。
自分を信じることにより、本当の自分が発現するのを促します。
本当の自分は、高次の世界から見守っている存在から、援助の力を受け取っています。
そして神とつながっているため、物事を成就して行く力を受け取ることが出来ます。
外からと内からの力の恩恵にあずかれるかどうかは、自分を信じられるかどうかにかかっています。
2017年10月1日日曜日
願いが叶えられる時
仕事やスポーツでどうしても結果を出したい時や、窮地に陥った時に、思わず誰かに向かって願いをかけることがあります。
願いが届いたせいなのでしょうか、望んだ結果が出ることもあります。
いくら願っても、結果が出ないこともあります。
ところで、私たちは誰かに向かって、お願いをしているのでしょうか?
その多くは、神様らしきものだったり、あるいは亡くなった親しい人だったりします。
神様は空の上にいて、願いを叶えてくれる存在ではありません。
姿形はなく、自然法則として、この宇宙に顕現しています。
目に見えない決まりのようなものによって、全宇宙を支配しています。
神様が、地球に住んでいる私たち人間に望んでいるのは成長です。
成長とは、神の意図したように、進化して行くことです。
神様は人間が進化して行くように、自然法則によって導いていると言えます。
神様は、気まぐれに願いを叶えたり、叶えなかったりしているのではありません。
自分を成長させるような願いであれば、自然法則に適っているので、叶えられる可能性は高いと考えられます。
しかし、成長させるようなものであっても叶えられないことがあり、その時は、叶えられない方がさらに自分が成長すると考えられます。
私たちが、この世に生を受けたたった1つの目的は、自分を成長させるためです。
効率良く自分を成長させるために、最善のシナリオが組み立てられ、それに沿って人生の出来事が生じています。
願いが叶えられたように思えて、その出来事はシナリオとして予定されていたことかもしれません。
どんなに願っても叶わないのは、それが予定されていなかったからなのかもしれません。
人生には、出来れば避けて通りたい出来事が起こります。
しかし、成長するために、生まれる前の自分が決めていたのであれば、願いによって避けられるはずはありません。
起きるべくして起きています。
成長させる出来事は、得てしてつらいものであり、人は弱いために事前に知っていたら耐えられないので、神様の計らいにより記憶から消されていると考えられます。
人が成長しているのは、試練を乗り越えている時、そして人のために何かをしている時です。
それこそが人生で一番大切なことであり、この世に生まれてきた目的そのものです。
従って、試練を乗り越えるための願いは届いています。
奉仕をするための願いも届いています。
その逆に、楽をするためや、自分の利益のための願いであれば、届くはずはありません。
人が、何かを成そうとした時に付きまとうのは、果たして上手くいくのだろうか、失敗してしたらどうしようと言う、心配や不安の思いです。
そんな時は、自分のためではなく、人のためにと願えば、上手く行くと思います。
少し前にあった、こんな出来事をふと思い出しました。
メジャーリーグのニューヨーク・ヤンキースにガードナーという選手がいました。
彼は余暇に小児病院に慰問に行き、そこで重い心臓病の女の子と出会いました。
その場で、女の子と次の試合でホームランを打つ約束をしましたが、彼は小柄でホームランバッターではありませんでした。
実行不可能と思われましたが、代打で出場して何とランニングホームランを打って、見事に約束を果たしました。
いくつもの偶然が重なったように見えますが、少女のためにという真摯な願いが霊界に届き、見えざる力が働き、願いが叶えられたと思っています。
時々ですが、霊界は奇跡のような演出して願いを叶えると共に、神様の存在を示しているように感じています。
何かを成し遂げなければいけない時に、私も上手く行くように願います。
成し遂げようとしている時に、見えざる力の働きを感じる瞬間があります。
それは、困難が立ちはだかり気持ちが挫けそうになった時に励ましてくれるような力であり、不安な気持ちや心配を打ち消すような力です。
その力が届いた瞬間、急に視界が明瞭になり、心境が一変し、局面を乗り越える気力が内から湧いて来るのを感じます。
自分自身で、精神をコントロールしているとは、とても思えません。
霊界から届いた力は、私の中で乗り越えるための勇気になりましたが、その力を一言で表現するのならば、やはり愛だと思います。
この世の人には、守護し、導く存在(魂)が、一生涯に渡って付いています。
その目的は、この世の人を予定通り成長させるためであり、生まれて来た目的を成就させるためです。
見えざる存在が、この世の人の魂に想い(思念)という力を吹き込んでいて、思考や感情に大きな影響を与えていると思います。
何かをしようとする衝動を起こしたり、新しい発想を生じさせたり、それまでの気持ちを一変させたりしていると思います。
誤った方向に進もうとすると、留まらせるような思念を送り、そちらに進めないようにさせていると思います。
さりげなく、そしてしっかりと、成長する方向に導いていると思います。
私たちは気付いていないだけで、たくさんの想い(思念)を受け取り、多大な恩恵に服しながら、生きていていると考えられます。
ただ、見えざる存在が、手出し出来ない局面もあります。
それは、この世の人が成長にかかわる決断をする時です。
人は生きていると、決断を迫られる局面や出来事に出会います。
勇気を出して進んで行くのか、それとも避けてしまうのか、決断はこの世の人に任されています。
干渉は許されず、成長する方向に進んで行くように願いながら、じっと見守るしかないようです。
首尾よく、成長する方向に進み出したのなら、援助を開始して、乗り越えさせようとします。
どちらか迷った時には、つらく、大変でも自分が成長する方向に進んで行けば、意外と何とかなるのです。
見えざる存在から援助を受けて生きているという事実は、五感に触れるものではないので、残念ながら多くの人は判っていません。
はっきりと判ってしまえば、自分で何とかしようとする気力が失われ、頼ってしまうために成長が妨げられてしまうような気もします。
愛と同じく、客観的に証明できるものではありませんので、そんな存在などいるはずがないと思っても、それは個人の自由です。
しかし、信じている人ほど、(魂の同調が進むため)援助を受けやすくなり、良い結果が出るのは確かだと思います。
見えざる存在は、たとえ信じてもらえなくても、結果的に乗り越えて成長すれば、それで満足していると思います。
願いが叶った人へのインタビューで、「自分を信じて臨みました」と言っているのを良く聞きます。
今までやって来たこと、努力してきたこと、出してきた結果から、自信を持って臨んだという意味が大きいと思います。
しかし、それだけではなく、自分を強く信じることによって、見えざる存在とのつながりが強固になり、大きな援助が受けられて、願いが叶ったと考えています。
その人の努力の結果なのですが、自分が持っている以上の力が出せて、願いが叶えられることも多くあると考えています。
私たちは、自分ひとりで生きているのではありません。
この世の人の成長を願っている、見えざる存在が常に寄り添っていて、守り導いてくれています。
見えざる存在は、自分とは別個でありながら、強く信じることで一心同体になれると考えています。
強く信じるほど、大きな力を与えてくれて、とても自分には無理と思った困難や障害でさえも、乗り越えさせてくれていると思います。
2017年9月17日日曜日
自然法則(神の摂理)の働きを知るために生きている
少し前ですが、私の先輩の奥様が、悪性の病気になっていることが判りました。
その先輩は仕事で成功し、都内の一等地に住み、家庭においてもご夫婦の仲は睦まじく、二人のお子さんがいて、どちらも良縁に恵まれ、孫ももうすぐ生まれようかと言うところでした。
全てが順風満帆で、こんな絵に描いたような幸せな人もいるのかと思っていました。
早速ですが、病気が癒やされることを祈念して、奥様に向けて遠隔ヒーリングを行いました。
ヒーリングにより、悩まされていた症状は軽快したとの報告を受けましたが、病気の進行は予断を許さない状況です。
それからしばらくして、奥様の重病に大きなストレスを受けためでしょうか、先輩も脳内出血を起こしてしまいました。
幸いにして、命には別条はなく、頭から血を抜く手術を受けることになりました。
奥様には、ヒーリングの効果を実感していただいたので、もう1度行うことを申し出ました。
返ってきた答えは、「私ではなく、主人をお願いします」でした。
ご自身が深刻な状況にもかかわらず、ご主人のことをとても心配していました。
昔から、奥様は人を助けるのが好きな人で、実は私も助けられた人間の1人です。
このメールを見た瞬間、不謹慎かもしれませんが、治らないかもしれない、向こうに行く時期が来ているかもしれないと思ってしまいました。
どんなに自分がつらく、苦しくても、他の人を思いやるような人は、この世にいる意味が薄れてきているように思えます。
心が優しく、思いやりが深く、誰からも慕われる人は、若くして逝ってしまう時があると感じています。
私たちの実体は、目に見える肉体ではなく魂です。
肉体は、魂から生じる想いを表現をするための、この世だけの媒体に過ぎません。
ピアニストがいなければ、ピアノはただの音が出る木の箱であるように、魂のいない肉体は、ただの有機体の塊であり、活力を失い土に還ってしまいます。
魂にとって肉体は重い鎧のようなもので、実に煩わしいものです。
食べなければ養えませんし、肉体的な本能を併せ持ってしまい、様々な欲に苛まれてしまいます。
人は肉体を持つと、自分が一番大切になり、他者は二の次になってしまいます。
生まれてからしばらくの間は、大きな声で泣いて、他者(親)に要求するばかりです。
泣き声がうるさくて、周りに迷惑をかけても、おかまいなしです。
大きくなり、学校に行くようになると、少しずつ周りの人のことも考えるようになります。
そうしないと、仲間外れにされたり、自分が痛い目に遭ってしまいます。
そして、学校を卒業し社会に出て働くようになり、得たお金で生活をします。
自分を犠牲にして、他者に奉仕をしなければ生きて行けないように、この世はなっているようです。
結婚も、子供を育ても、自分以外の者への奉仕に他なりません。
人生は、自分から他者を優先する行程であり、他者への奉仕によって魂は成長して行きます。
年齢とは関係なく、自分が一番大切な人は霊的に未熟であり、自分よりも他者を大切にする人は成熟していると言うことになります。
熟れた果実が木から落ちるように、成熟した魂が肉体から離れて行くのは、自然の成り行きです。
この世界は、目に見えない自然法則に支配されています。
物質が地面に向かって落ちるのは、万有引力の法則の働きによるものです。
当然のことながら、人にも自然法則が働いています。
生まれるのも、老いるのも、死ぬのも、病気になるのも、自然法則の働きによるものです。
地上の法律に背けば、罰せられます。
自然法則に背けば、その報いを受けることになり、相応の苦痛を味わうことになります。
法律と違うのは、法則の働きは完璧であり、何人も逃がれられないことです。
人は誰しも、苦痛を味わうのは嫌です。
苦痛を味わないためには、自然法則の働きを知るしかありません。
この世の中に生じている苦痛の多くは、自然法則の働きを知らない無知によって起きていると思います。
世界中で起きている戦争もそうです。
自然法則の根幹を成すのは因果律です。
因果律とは、原因を作れば必ず結果が生じ、結果には必ず原因が存在し、偶然はないと言うことです。
どの戦争にも、必ず原因が存在しています。
しかし、原因を究明せずに、起きた結果にばかり目が向けられ、報復を繰り返しているように見えます。
戦争の根本原因は、怒りや憎しみや恨みの想いと考えられます。
怒りに任せて攻撃すれば、今度は相手から攻撃されます。
自分から出たものが、因果律の働きで、自分に返ってきていているだけです。
口で言うほど簡単ではありませんが、戦争にならないためには、相手を認め、そして許し、怒りや憎しみの想いを向けないようにするしかありません。
自然法則の働きを知らないために苦痛が生じていますが、その苦痛により自然法則の働きを学んでいます。
人は死ぬと次の世界に移行します。
次の世界は、煩わしい肉体から解放され、思念を直接伝えられ、この世よりもはるかに快適です。
私たちが生きている目的は、魂(自分)を成長させるためです。
もし、次の世界が、そんな快適な世界なのであれば、そこで成長して行けば良いはずです。
なのに、何でわざわざこの世に生まれて来なければならないのでしょうか?
泳ぎ方を知らない人が、水中に投げ込まれたなら、溺れて苦しい思いをします。
苦しい思いをしないためには、泳ぎ方を身に付けるしかありません。
泳ぎ方は、教本を見ても、口で教えてもらってもだめです。
実際に、水中で苦しい思いをしながら、身に付けるしかありません。
自然法則の働きも同じです。
人に教えてもらうのではなく、自らが苦しく、痛い思いをしながら、得心しなければいけません。
この世に肉体があるのは、目に見えない自然法則の働きを、肉体を介した経験によって、魂に焼き付けるためと考えられます。
肉体のない次の世界では、苦痛が取り払われているために、自然法則の働きを身に付けるのは難しいと思われます。
自然法則は、空気のようなものです。
陸上で生活している時は、空気は目に見えず、意識しませんが、水中に沈んで息が出来なくなった時に、存在を強烈に意識します。
自然法則の働きも、平穏に過ごしている時は意識しません。
しかし、苦境に追い込まれ、助けもなく、真っ暗やみの中にいる時に、初めて意識するようになります。
水中で空気を求めるように、真っ暗闇の中で真実を求めるからです。
自然法則の働きを静かに悟り、魂は救われます。
自然法則とは神の摂理であり、神の心を体現しているものです。
全ての出来事は、神の法則の中で起きています。
神の心は計り知れない愛なので、どんなにつらく、苦しいことであっても、必ず乗り越えられます。
神の創った自然法則の働きによって、導かれているので安心して良いのです。
後で振り返った時に、大切なことを学び、大きく成長し、この世に生まれて来た目的を成就していたことを知り、感謝するはずです。
2017年9月3日日曜日
先のことを知れば生きるのが楽になる
甲子園球場で行われていた、夏の高校野球を観ました。
選手達の表情に輝きを感じましたが、最高の舞台に立つまでに、厳しい練習に耐えてきたはずです。
あまりの厳しさに、弱音を吐いたり、投げ出してしまおうと思った時も、あったかもしれません。
高校球児たちが、厳しい練習に耐えられるのは、真価を発揮できる試合という場があるからであり、練習を怠れば、良い結果が出せないことを知っているからです。
その先で、勝利の喜びを味わうためだと思います。
厳しい練習を、人生と重ねてしまいます。
生きていると、うれしいこと、悲しいこと、苦しいことなど、いろいろな出来事を経験します。
うれしい出来事であれば、ずっとこの悦びが続いて欲しいと思うのですが、つらい出来事であれば、早くこの苦しさから解放されて、楽になりたいと願うばかりです。
何で自分が、こんな苦しい思いをしなければならないのかと、憤りを覚える時もあります。
生まれた環境も良く、才能にも恵まれ、何不自由なく生活して、一生を終えて、羨ましがられる人もいます。(その人なりの苦労はしていたと思いますが)
一方、生まれた環境も悪く、苦労ばかりをして死んで行ったと、哀れみの言葉を聞くこともあります。(その人なりの幸せを感じていたと思いますが)
同じ人間であっても、人生はさまざまであり、不公平、不平等があるように思えてしまう時があります。
もし、死んで終わりならば、苦労ばかりをした人は、不幸な人生だったと言えるかもしれません。
ところで、死んだら終わりなのでしょうか?
意識がなくなり、無になってしまうと思う人もいます。
意識は存続し、その先も人生が続いていると思う人もいます。
どう思おうと、個人の自由であり、人から干渉されるものではありません。
しかし、どちらかが間違った認識をしていることは確かです。
17世紀にパスカルという有名な物理学(哲学)者がいました。
彼は、死後の世界があるのか、それともないのか、どちらか判らなかったら、ある方に賭けた方が無難だと考えていました。
その理由を、こう説明しています。
死後の世界がなければ、たとえ死後がある方に賭けていても、無になってしまうので負けにはなりません。
死後の世界がない方に賭けて、もしあったとしたら、賭けに負けたのをはっきりと意識することになります。
誤った認識で生きていたことになり、後悔すると考えたようです。
残念ながら、死の先がどうなっているのか、客観的に明らかにすることは出来ません。
けれども、明らかにされないからと言って、否定するのはあまりにも愚かです。
それは、生命の本質は(科学的に)明らかにされていなので、生きていることを否定するようなものです。
個人的な意見を言わせていただければ、これまでの経験により、死後の世界があるのは、揺るぎのない事実です。
あるのにもかかわらず、なぜ明らかにされないのか、つい考えてしまいます。
死後は、肉体から解放され自由になり、生命(魂)が光り輝いている世界と言われています。
一般的に、苦しみや悲しみはなく、衣食住の心配もなく、争いも起こりません。
想像するのが難しいかもしれませんが、想い(思念)が直ちに具現化する世界、別の言い方をすれば夢が叶う世界です。
平穏で明るく夢が叶う死後の世界と、苦痛の多いこの世界の、人はどちらを選ぶのでしょうか。
ほとんどの人は、前者を選択するでしょう。
でも、この世界を生きるのをやめて、死後の世界に行こうとはしません。
その大きな理由は、自分の中の何かが抵抗し、死後の世界が明らかにされていからです。
もし、明らかにされたなら、かなり多くの人が、この世の人生を中断して、あの世に行くことでしょう。
では、なぜ死後の世界での快適な生活を捨てて、苦痛の多いこの世に生まれて来るのでしょうか?
その理由は、自分(魂)を成長させて、大切なことを学ぶためです。
苦しみや悲しみを経験することにより、魂が成長するように、自然法則がなっているからです。
他者に愛を表現することで、魂が成長するように、自然法則がなっているからです。
苦しみや悲しみや争いのない、死後の世界は快適ですが、この世界の方が魂がより大きく成長し、多くのことを学べると考えられます。
手ぬるい練習より厳しい練習の方が、体が鍛えられ、野球が上手くなるように、この世で苦しく、悲しい出来事を経験した方が鍛えられ、魂は大きく成長します。
死後の世界には存在しないものを、この世界で経験することにより、目に見えない大切なことを、深く学んでいます。
戦争を経験した人は、平和や許しについて深く学んでいます。
病気を経験した人は、生命について深く学んでいます。
別れを経験した人は、愛について深く学んでいます。
この世界で学び、大きく成長するために、自分の意志で、この人生を選んで生まれて来ているのに、中断して戻ることは許されません。
自分自身にした約束を破ることになり、自然法則が厳格に働いて、相応の償いをしなければいけなくなります。
死んで無になるのであれば、人生に苦しいことは無用です。
とにかく、楽しく生きれば良いはずです。
立ちはだかる困難や障害など、避けて通れば良いはずです。
つらくて仕方がない時は、命を絶って無になる選択も、許されるはずです。
無になってしまうと思う人は、そんな生き方をしているでしょうか?
苦難から逃げるのは嫌で、何とか乗り越えて行こうとする人が多いと思います。
なぜ、無になってしまうと思っているのに、苦難を乗り越えようとするのでしょうか?
それは自らの中に、人生の苦難を乗り越えて、成長しようとする根源的な欲求があるからであり、それに逆らうことに抵抗を感じるからだと思います。
成長して行くように定められていて、留まっていることに苦痛を感じるようになっているからだと思います。
この世界での経験を通して、成長して、教訓を身に付けなければならないことを、深い部分で知っているからだと思います。
この世界に暮らす人たちの、霊性の高さ(魂の成長度)はさまざまであり、見た目では判りません。
死後の世界では、肉体は取り払われ、魂が剥き出しになり、個々の霊性は一目瞭然となります。
完全な界層社会であり、同じ霊性の高さの者同士が、一緒に暮らしています。
自分より高い界層には行けず、低い界層には行けますが、行く気にはならないようです。
高校球児にとってプロはレベルが高く通用せず、かと言って中学生と一緒では物足りなくなってしまい、結局、同じレベルの者と野球をするのと同じです。
霊性の高い者、叡智を身に付けた者が、自然法則の働きにより上に位置します。
上に位置する者は、より愛を表現する者であるため、水が流れるがごとく、上から下へと神の愛が行き渡ることになります。
一方、この世界はどうでしょうか?
上に位置する者は、権力を有する者、富を有する者であり、そのために神の愛はせき止められてしまい、愛に飢えている人が世界中に溢れています。
霊性とは神性であり、他者を愛する行為の中で高められます。
この世界は、愛に飢えている人で満ち溢れているので、自らの霊性を高める行為をしようと思えば、いくらでも出来ます。
だからこそ、成長する機会に恵まれたこの世界に、生まれて来ます。
この世界に困難や障害が多いのは、経験を通して成長するためです。
実際に経験しなければ、学んだことは身に付きません。
人生のつらい出来事は、不幸なことで終わってしまうのではなく、魂を成長させて、生まれる前にいた界層より、高い界層に上がることにつながっています。
学んだことは、そこでの生活に活かされます。
厳しい練習に意味を見いだせなければ、体を酷使しているようにしか思えず、つらく感じるだけです。
それと同じで、先のことが判らず、人生の試練に意味を見出せなければ、生きるのがつらくなってしまいます。
厳しい練習をした人ほど、試合で勝った時の喜びは大きくなります。
人生においては、大きな苦難を乗り越えて来た人ほど、死後の世界で成長した悦びを味わいます。
完全な公平、公正が保たれていて、苦難は全て報われます。
先のことを正確に知れば、生きるのがもっと楽になります。
2017年8月20日日曜日
苦難は悦びの種
小学生の時でしょうか、音楽室に入ると、たくさんの肖像画が壁の高いところに飾ってありました。
バッハ、シューベルト、ブラームス、ショパン、モーツァルト、その中に、少しこわい顔をした人物がいました。
ベートーヴェンです。
何で1人だけにらみつけるような形相をしているのか、その時は判りませんでしたが、眉間に刻まれたしわに、彼の苦難に満ちた人生が表れているように思います。
ベートーヴェンは1770年、ドイツのボンに生まれます。
父親は宮廷お抱えの歌手で、祖父も楽長を務めた音楽一家でした。
しかし、祖父が亡くなると生活は貧窮して行きます。
父親はウィーンで一世を風靡していたモーツァルトのように育てようと、ベートーヴェンに苛烈なスパルタ教育を施します。
10歳で小学校を退学して音楽に専念することになり、14歳で宮廷のオルガニストに任じられます。
17歳の時に、モーツァルト(当時31歳)に会うためにウィーンに赴き、憧れの音楽家の前で演奏する機会を得ました。
ベートーヴェンは作曲家として知られていますが、天才的なピアニスト(オルガニスト)でもありました。
その演奏を聴いて、モーツァルトは弟子入りを許すと共に、才能を高く評価し「彼の名を覚えておきなさい。いずれ世界がその名を知ることになるだろう 」と、言ったそうです。
しかし、弟子入りする直前になって、最愛の人であった母親の病気が悪化して、帰郷しなければいけなくなります。
そして、母親の最期を看取った後、20歳の時に再びウィーンに戻ります。
モーツァルトは35歳の若さで亡くなったため、ハイドンの元で音楽の修行をしていましたが、しばらくして演奏会を開いたところ、ウィーンの貴族たちから拍手喝さいを浴びて、名声を高めていきます。
しかし、28歳の時に思いもしなかった、苦難がベートーヴェンを襲います。
音楽家としては致命的な、聴覚障害が起きたのです。
そのことを人に知られないために、家に引きこもるようになりました。
そんな中、30歳で最初の交響曲である第1番を書き上げました。
31歳の時に、ピアノの教え子であるジュリエッタ・グイチャルディ(16歳)と恋に落ちます。
しかし、彼女は貴族階級であるために、身分の差により結婚は叶いませんでした。
その後、難聴が徐々に進行して、絶望感が頂点に達した32歳の時に命を絶とうとします。
しかし、芸術への思いから、どうにか自殺を思い留まります。
苦渋の決断の末、ピアニストとしての活動を諦め、作曲活動に専念することになります。
34歳の時に作曲した、交響曲第3番「英雄」は、フランス革命を成し遂げたナポレオンに捧げたものであるのは有名です。(後にナポレオンは皇帝の位に就いたので、ベートーヴェンは激怒します)
その後10年間に、5つの交響曲、数々の優れたピアノやヴァイオリンの協奏曲、そしてピアノソナタを、次々と世に出して行きます。
しかし、難聴が急速に進んでいき、40代半ばからはほとんど聴力を失っていたようです。
そして、後継者として考えていた甥であるカールの養育権を巡る長い裁判などもあり、いろいろなことに頭を悩ませていました。
交響曲第8番から長い時を経て、54歳の時にかの有名な「第9」を世に出します。
その後、養育していたカールと意見が対立し、カールはピストル自殺を図ってしまいます。
奇跡的に一命は取り止めたものの、ベートーヴェンは大きな精神的ショックを受けます。
すっかり気弱になったベートーヴェンは、肺炎になったのをきっかけに、肝臓病も悪化し、56歳の若さでこの世を去ります。
葬儀にはウィーン市民2万人が見送ったそうです。
作曲家として多大な賞賛は受けましたが、あまりにも苦悩に満ち溢れた人生だったと感じざるを得ません。
ベートーヴェンは、後世に遺る楽曲を作るのを使命として、この世に生まれて来たのは間違いありません。
18世紀のヨーロッパ社会では、音楽に携わる家庭環境に生まれない限り、作曲家になるのは極めて困難と考えられます。
祖父や母親が早く亡くならなければ、ベートーヴェンの音楽の方向性は全く違うものになったと予想されます。
恋人との身分の差に苦しむことがなかったら、有名な「月光ソナタ」も生まれなかったでしょう。
彼の生まれ持った、誰にも媚びない性格により、貴族たちの使用人としての音楽家の地位をあっさりと捨てて、音楽家として自立することが出来ました。
そのため、ヨーロッパが王族や貴族の支配から民衆が中心になって行く大変動の時期に、ベートーヴェンは革命的な音楽を通して、自由、平等、博愛の精神を、強く訴えることが出来たと思います。
そして、聴力を失い、音楽家として絶望の淵に叩き落されることになりますが、作曲活動に人生の全てを捧げることになりました。
最高の喜びが、「第九」という音楽に表現されていますが、ベートーヴェン自身が極限の苦難を乗り越えたからこそ、この曲が生まれたと思います。
ベートーヴェンがこの世に遺したものは、彼の生い立ちや人生の出来事と密接に関係していて、どれ一つとして欠けてはいけないと考えられます。
人生の苦難や苦悩を乗り越えていく過程が、ベートーヴェンの曲に表現されていて、苦難とベートーヴェンは不可分の関係だったと言えます。
絶望の果てに命を絶とうとして、思い留まった時に2人の弟に向けて手紙(遺書)を書いていますが、その中にこんな一節があります。
「私は自分が果たすべきだと感じている総てのことを成し遂げないうちに、この世を去ってゆくことはできないのだ」
絶望の果てに死を垣間見た時に、天命を悟って出た言葉だと思います。
ベートーヴェンはこうも言っています。
「ぼくの芸術は、貧しい人々の運命を改善するために捧げられねばならない」
また、人生経験からこんな言葉も遺しました。
「人間はまじめに生きている限り、必ず不幸や苦しみが降りかかってくるものである。
しかし、それを自分の運命として受け止め、辛抱強く我慢し、さらに積極的に力強く、その運命と戦えば、いつかは必ず勝利するものである。」
こんな力強いことも言っています。
「神がもし、世界でもっとも不幸な人生を私に用意していたとしても、私は運命に立ち向かう。」
そして、苦悩について、こう考えているようです。
「不死の心を持つ我々人間は、苦悩と歓喜の為だけに生まれる。
その中で最も優れた者は、苦悩を突き抜けて、歓喜を勝ち得ると言えるだろう。」
魂は苦悩と歓喜その両方を味わうためにこの世に生まれ、苦悩(難)は実は喜びにつながっていることを、音楽を通して伝えたかったと思います。
もし、ベートーヴェンが人生の苦難を、偶然降りかかって来るものと思っていたのなら、不運を嘆き、運命を呪い、人生を投げ出してしまったかもしれません。
そうではなく、苦難は神から与えられたものであり、偉大な創造のための必然であると確信していたので、果敢に立ち向かいながら、命が尽きるまで作曲し続けたと思います。
人々に喜びを与える音楽を作ることが、自分に与えられた使命だと考え、幾多の苦難は自分の運命と受け入れ、強い意思で乗り越えて行ったと思います。
乗り越えて行くことで魂は向上し、更にふさわしい困難が生じて、またそれを乗り越えることで魂は向上浄化され、より次元の高いインスピレーションを受けるようになって行ったと思います。
ベートーヴェンの曲は全人類に向けた、愛と平和と勇気のメッセージであると共に、想像を絶する人生の困難を乗り越えてきた作曲家自身に与えられた、神からの祝福でもあると思います。
多くの人は、ベートーヴェンに困難や障害が襲い、その結果、数々の曲が生み出されたと思っているでしょうが、それは違うと思います。
苦しんでいる、悩んでいる人間を鼓舞する音楽を世に送り出すために、ベートーヴェン自身が深い苦悩を経験する必要があり、そのためにこの人生が用意されていたと、私は思います。
ベートーヴェンに降りかかった苦難は、多くの人の魂を音楽を通して癒すためにあったと考えていますが、偉大な芸術家だけではなく、全ての人に苦難は与えられていて、同じ様に立ち向かって行かなければならないのだと思います。
ベートーヴェンの苦しみは楽曲に昇華されましたが、この世の苦しみを経験した人は、魂の強さとなって昇華されていると思います。
その経験は、先になって人のために役立つのだと思います。
苦難から救い出してくれるのは、苦難の末に自らが見つけ出した真実しかないのかもしれません。
真実を見付け出した瞬間、苦しみは悦びに変わると思います。
人生の苦難は、真実を見つけ出すために生じていて、見付け出した真実が人を豊かにし、心の平和をもたらし、魂の財産になると思います。
この世で学び、成長するとは、その様なことを指すのかもしれません。
もし、人生で起きる出来事が偶然であるならば、生まれたのも、死ぬのも偶然であり、生きている意味など、どこにも見つけられません。
そうではなく、全ての出来事は自然法則に従って生じているのであり、その法則の働きが見えないために、偶然として片付けてしまっているだけだと思います。
人は成長するために、この世に生まれて来るのであり、そのために苦難というものが、どうしても必要です。
成長とは、自然法則を創った偉大な存在に近づくための行程であり、より高く、より強い愛を表現するためにあると思います。
苦難とは成長の種であり、後に悦びの花が咲きます。
苦難が大きいほど、魂は大きく成長し、悦びも大きくなります。
2017年8月6日日曜日
この世の苦しみの意味
子供の時、学校にはいろんな子がいました。
勉強ができる子、走るのが速い子、野球が上手い子、歌うのが得意な子など、自分より秀でた面を持っている子がたくさんいました。
また、親切な子、正義感が強い子、面倒見の良い子、意地悪な子、嘘をつく子など、さまざまな個性や特徴を持った子にも会いました。
そんな子と、友達になって遊んだり、時にケンカをしたりしました。
わがままや嘘を言ったりすると、仲間はずれにされました。
困っていたら、助けてくれたこともありました。
競い合ったりもしました。
自分と考えが違うの子がいても、学年が上がるに従い、認められるようになりました。
もまれながら、1番大きく成長していたように思います。
この世は学校と良く言われます。
生きていると、自分にはない面を持った人、欠けている面がある人、色んな人に出会います。
出会いたかった人もいれば、できれば出会いたくなかった人もいます。
そんな人たちに囲まれながら、生きて行かなければいけません。
生きて行くための智恵を、少しずつ学んでいると思います。
人生は、さまざまな出来事が起こります。
うれしい出来事もあれば、悲しい出来事もあります。
つらい出来事もあれば、楽しい出来事もあります。
うれしい出来事や楽しい出来事ばかりであれば良いのですが、そうは行きません。
でも、後になって考えてみると、出来れば避けたい出来事の方が、何か大切なものを学んでいるような気がします。
やはりこの世は、子供の時の学校と同じ様に、知識を吸収し、人や社会にもまれ、さまざまな出来事を経験しながら、何かを学ぶためにある学校なのかもしれません。
霊的な知識が増えるのに従い、死んだ後に行くあの世はどんな世界なのか、少しずつ判るようになってきました。
この世の苦痛から解放された世界です。
食べるために働く必要もありません。
苦手な人と会うこともありません。
肉体がないので、もちろん病気にもなりません。
自分の想ったことが、直ちに具現化されます。
何もかもが快適な世界です。
そんな快適な世界から、苦しみや痛みのあるこの世に、人はなぜ生まれてくるのでしょうか?
しかも、強制的ではなく、自発的に生まれて来ると言われています。
この世に生まれてくる目的はただ1つであり、自分(魂)を成長させるためです。
自分に足りない面を補うためです。
この世ではなく、快適なあの世で学びながら成長できればと、つい考えてしまいますが、そんな訳にはいかないようです。
あの世は、この世と違い、同じレベルの人(魂)が集まって暮らしています。
本質が似ているので、想うこと、考えることもほぼ同じです。
そのため、争いも、競争も生まれません。
皆、平和に過ごしています。
人は、降りかかる困難や障害を乗り越えて行くことで、成長します。
何もかもが快適なあの世では、困難や障害が生じ難く、魂を大きく成長させることは難しいようです。
魂を成長させるのは、人の定めのようです。
自分を大きく成長させるために、覚悟をしてこの世に生まれて来るようです。
けれども、自ら進んで困難の中に飛び込んで行ける人は、極めて少ないと思われます。
そこで、魂を成長をさせるためのシナリオが用意されます。
そのシナリオに沿って、困難や障害が生じるようになっています。
この世に生まれて来る限り、困難や障害のない人生はあり得ないと言うことになります。
どんなに苦しくても、自分が大きく成長し、足りない面を補うために、最も適した人生を送っているはずです。
人は生きていくのが苦しくなるような困難や障害に出会うと、思わず逃げ出したくなります。
しかし、その気持ちを抑えて、何とか生きて行くことで、魂は大きく成長しています。
生まれる前の自分は、逃げ出したくなるような困難や障害が、自分が成長するために起きることを承知していました。
それが神の計らいにより、記憶から消されました。
もし記憶していれば、途中で逃げ出してしまう人がいるからです。
不幸になったのではなく、この世に生まれた目的を成就しようとしています。
乗り越えられる困難しか与えられないと、良く言われますがそれは正しく、自分が乗り越えられると判断した困難なので、必ず乗り越えられるはずです。
困難や障害に出会った時に1番大切なこと、それは逃げ出さず、正面から立ち向かうことです。
自分(魂)に正直になることです。
何故、自分に正直に生きないといけないのでしょうか?
後で後悔することになるからです。
どうして後悔するのでしょうか?
死んだ後に、振り返る時が来るからです。
この世に生まれてから死ぬまでの間、どんなことを想い、どんなことを言い、どんな行いをしたのか、全人生がスクリーンのようなものに映し出され、それを見せられるからです。
正直になれず、嘘をついている自分を見て、後悔するからです。
このブログにも書きましたが、10年以上前に、今までに経験したことない出来事が私に起きました。
その出来事から逃避する選択肢もありましたが、自分に正直になり、正面から受け止めました。
その結果、多くのものを失いました。
でも、それで良かったと思っています。
自分に嘘を付いて逃げていたのなら、何も失わず、何も変わらずにいたでしょう。
一瞬の幸福を感じたと思います。
そんな出来事が過去にあったことさえ、忘れてしまうでしょう。
しかし、死んだ後に、この世を振り返る時が訪れます。
それまで忘れていた、嘘を付いている自分を見せられ、極めて強い後悔の念に襲われると思います。
大して価値のないものを、必死に守ろうとしている自分を見て、大いに恥じるでしょう。
プライドを守ろうとして、魂を汚してしまったことに気付き、後悔するでしょう。
この世的なものを失わなかった代わりに、大切なもの(霊的真理)を手に入れる機会を失ったことに気付き、地団駄を踏んで悔しがることになるでしょう。
正直に生きた結果、屈辱的で挫折的な結末を迎えた出来事でしたが、どん底で本当の自分(魂)が目覚めました。
嘘をついたら、それまで追い求めてものは失わなかったかもしれませんが、目に見えない最も大切なものを掴み損ねていたでしょう。
正直に生きていれば、物的なものを失うかもしれませんが、それに見合う、霊的なものを必ず手に入れると思います。
困難や障害は、どんな人にも必ずやって来ます。
大切なことは、苦しくても、逃げ出さないことです。
逃げ出したら、後で逃げ出した自分を見て、後悔します。
後悔が大きいと、もう1度、同じ様な状況になる、困難や障害のある人生を選んで、この世に生まれなければいけないかもしれません。
苦しみは、成長するため、大切なことを学ぶために予定されていたので、逃げてはいけません。
出来れば、苦しみのないあの世(霊界)に、ずっといたいと思う時があります。
そんな願望がある内は、またこの世に生まれなければいけないのかもしれません。
シルバーバーチも言っていますが、進化した霊(魂)は、苦しみを苦しみとして感じないようです。
そして、一定以上進化すると、霊界だけで成長して行くようになるようです。
もしかすると、進化するほど、苦しみを悦びとして感じられるからなのかもしれません。
苦しみを、成長する悦びとして感じるほど進化した魂は、この世に生まれて来る必要は、もうないのかもしれません。
2017年7月23日日曜日
苦痛の意味
食事をしている時に、食べ物が予想外に苦かったら、思わず、吐き出してしまいます。
これは生体の防御反応の一種であり、苦く感じるものは、人体に有害なものが多いと、私たちは認識しているからです。
虫歯になると歯が痛くなるのは当然ですが、痛みを感じることで歯に異常があることを知ります。
無痛(無汗)症という病気があります。
この病気は、生まれつき痛覚が働いていないために、痛みを全く感じません。
注射する時も、けがをしても痛くないので、悪い病気には思えないかもしれませんが、とんでもありません。
大けがをしても、全く痛みを感じないので、大出血や感染症を起こして、死に至ることもあります。
苦痛を感じるのは誰でも嫌です。
しかし、自分に異変が起きているのを知るために、絶対に必要なものです。
人は生きていると、さまざまな出来事に遭遇します。
楽しい出来事ばかり起きれば良いのですが、そんなわけには行きません。
嫌な出来事も、挫折を味わう出来事も、悲しい出来事も起きます。
出来事を経験した時、自分の中にさまざまな想いが生じます。
悦び、悲しみ、怒り、憎しみ、そして友愛、不信、絶望、言葉に表現出来ないような想いも、たくさん生じています。
もし、起きた出来事に苦しんでいるのであれば、(その出来事によって)生じた想いによって苦しんでいる可能性があります。
怒りや憎しみ、嫉妬などの想い(感情)を抱くのは、決して快いものではありません。
苦痛のようなものを、同時に感じてしまいます。
苦痛として感じるのは、それらの想いが自然法則(神の摂理)に反しているためと考えられます。
抱いてはいけない想い、手放さなければならない想いなので、苦痛として感じるのだと思います。
病気の苦痛は、誰でも避けたいものです。
病気の原因は、霊的次元、精神的次元、肉体的次元に存在します。
肉体的次元に原因がある病気の苦痛は、身体の異変を知らせる意味があります。
霊的次元に原因がある病気の苦痛は、自然法則に反した想いを抱いているにも拘わらず、精神的苦痛として感じなくなってしまったため、因果律の働きにより肉体的な病気を生じさせ、その苦痛を通して、霊的次元(魂)の異変を知らせていると考えられます。
苦痛の源は、魂にあると言えます。
自然法則に反した想いを溜めているため、本来の自分(魂)の想いを表現できなくなっています。
憎しみの想いを溜めていて、人に優しくすることはできません。
不信の想いを溜めていて、人を愛することはできません。
そんな想いに気付かず、自分ではどうすることも出来なくなると、神の摂理(因果律)が働いて病気が生じます。
人生には、予定されているシナリオがあります。
本来の自分の想いが表現できくなると、シナリオに沿って生きられなくなり、予期した成長が得られなくなります。
苦痛は、魂を目覚めさせます。
魂が目覚めると、内にある想いが解放され、本来の自分の想いを表現できるようになり、再び成長が始まります。
苦痛には、魂を成長させる方向に導くという、大切な意味があります。
自分に起きた出来事を、正しく捉えなければ、苦痛が生じてしまいます。
全ての出来事は、自然法則の働きによって起きています。
たとえ、どん底に突き落とすような出来事であっても、法則の働きにより起きています。
それを、偶然や不運と捉えてしまうと、苦しみとなります。
自分を成長させるために起きていると、正しく捉えることにより、苦しみから免れます。
人に裏切られたり、傷つけられたりすれば、怒りや憎しみの想いが生まれてしまうのは、仕方がないような気がします。
しかし、そんな想いに捉われていると、成長することが出来なくなります。
それでは、怒りや憎しみの感情に任せて、相手に同じ苦痛を味わせてしまったらどうでしょう?
苦痛からは解放されますが、自身の霊性を下げてしまいます。
その失地を回復するために、新たな苦痛を経験しなければいけなくなります。
では、苦痛から免れるためには、どうすれば良いのでしょう?
対象を許さなければいけません。
しかし、許すのは決して容易なことではありません。
それでも、許すしか方法はありません。
もし許すことができたなら、自己犠牲によって愛を表現したことになり、自身の霊性は向上します。
全ての出来事は、魂を成長させる方向に、転化することが出来ます。
憎しみを表現すれば霊性は下がり、許すことで愛を表現すれば向上する、人はどちらでも選択できます。
神は、どんな出来事が起きても、憎んだり、恨んだりしてはいけないと、苦痛を通して私たちに教えているような気がします。
この世界に、無駄なものは、意味のないものは何一つ存在しません。
全く不要とも思える苦痛でさえも、意味があります。
苦痛を感じないことは、実は自分(魂)にとって危険なことです。
苦痛を感じなければ、過った方向進んでいることに気付けません。
苦痛は、正しい方向、安全な方向に導くと言う、明確な意味を持っています。
人は誰でも、苦痛から逃れたいです。
苦痛から逃れるために、その出来事が起きた意味に気付かなければいけません。
気付くことで、その出来事から大切な教訓を学んだことになります。
苦痛は、魂を成長させ、大切な教訓を受け入れる土壌を整えて行き、教訓を学んだら、今までの苦しみから解放されることになります。
何故なら、教訓を学ぶために、神の法則の働きにより、その出来事が起きていると思われるからです。
どんな出来事であっても、神の叡智(愛)により創られた計画によって起きているので、全く心配は要らないのです。
怒り、憎しみ、不信、絶望などが生まれると苦痛として感じるのは、それらの想いが自らの成長を妨げるからです。
愛する気持ち、信じる気持ち、希望を見出すと悦びとして感じるのは、それらの想いが自らの成長を促すからです。
神は、苦痛と悦びにより、私たちをより高い次元へと導いています。
2017年7月9日日曜日
愛するために信じる
日本人は海外の人から、良く無表情と言われています。
アメリカに行くと、初対面の人に握手を求められますが、その時の相手の表情は決まって、口角が上がり前歯を見せた笑顔です。
その方が、確かに安心するのですが、自分が真似しようとしてもなかなかできません。
日本は、ほぼ単一民族国家であり、笑顔を見せなくても、生活をして行く上で支障はありません。
一方、アメリカは多民族国家であり、話す言葉や文化が出身国によって大きく違うため、意志の疎通が上手く行かない時代があったと思われます。
身の危険を感じさせてしまえば、銃の所持が許可されているので、命の保障はありません。
知らない相手には、まず敵意がないことを伝えておく必要があり、自分を信じてもらうために笑顔を強調するようになったと聞きました。
子供の頃に、人を信じることが大切だと、何回も聞かされましたが、その真意は判りませでした。
確かに、誤解が生まれて友達が信じられなくなると、ケンカになり易くなったと思います。
世界中で戦争が起きるのは、お互いを認め合い、許し合うことが出来なくなったせいですが、元をたどれば、相手を信じることが出来なくなったためだと思います。
家族の間で問題が起きた時に、「こんなに、あなたのことを思っているのに、どうしてなの?」と、嘆く人の言葉を聞きます。
どんなに思って(愛して)いても、お互いに信じていなければ、想いが通い合うことはありません。
問題が起きたのは、相手の想いが判らなかったためであり、それは信じ合えていなかったからなのかもしれません。
他者との関係で、苦しい思いをしてる人ほど、相手を信じていないのかもしれません。
信じることで、相互の間に、つながりが出来ると考えられます。
つながりを通して、相手に自分の想いが伝わると思います。
喩えて言えば、相手に伝える想いが「水」であれば、信じることは「水路」のようなものになります。
水路があって、初めて水が流れます。
いくら想いがあったとしても、信じ合えていなければ、想いは通いません。
相手を信じなければ、想いは行き場を失ってしまいます。
行き場を失った想いは、苦しみや悲しみとなって、自分に返って来てしまいます。
苦しくなったり、悲しくなってしまうのは、もしかしたら、相手を信じていないからなのかもしれません。
なぜ、信じないと、苦しみや悲しみを味わうことになってしまうのでしょうか?
信じないことが、神の摂理(自然法則)に適っていないからと考えられます。
神が望んでいるのは、愛し合うことです。
信じなければ、愛し合うことができないので、生きる意味を失ってしまい、苦しみや悲しみとなってしまうと考えられます。
人は誰でも苦しみや悲しみを味わいたくありませんので、神の摂理のの働きにより、やがて信じるようになって行くと思います。
魂の存在を、信じない人がいます。
信じる、信じないは、個人の自由ですが、もし、信じない人が愛する人を失ったら、どうなるでしょうか?
その人にとって、死は永遠の別れを意味します。
愛しているほど、起きた現実に耐えられなくなり、生きるのが苦しくなってしまうでしょう。
苦しくなるのは、永遠に会えないと事実誤認をしていて、それを改めるように、神の摂理が働いているためと考えられます。
誤りを正せば、今の苦しみから解放されると考えられます。
死によって、肉体は無くなっても、魂は存続しています。
魂から想いは生まれているので、生前の愛する想いは、変わることなく続いています。
もし信じなければ、亡くなった人から今も想いが届いていることに、気付くことはありません。
人にとって、悲しく、つらいことは何でしょう?
それは、自分が愛する人に、信じてもらえないことだと思います。
魂の存在を信じない人は、亡くなった人の存在と、想いを信じていません。
悪意はないのですが、亡くなった人を無視し、想いを拒否していることになります。
亡くなった愛する人が、どれほど悲しく、つらい想いをしているか、思いもしていません。
信じようとしない頑固さにあきれて、それが続けば失望に変わってしまい、想いを届けるのをあきらめてしまうかもしれません。
見えないから、存在しないという誤った考えは、あの世とこの世の双方に、無用な悲しみと苦しみをもたらすだけなので、直ちに捨て去らなければいけません。
魂の存在を信じなさいと言われても、にわかには信じられるものではありませんが、信じない限り、いつまでも苦しみから逃れることが出来ません。
信じる者は、(苦しみから)救われるのは事実です。
この世からいなくなった事実は、変えられません。
悲しさ、寂しさが、無くなってしまうことはないでしょう。
しかし、誤りを改めることで、和らげることは可能です。
慰めや、励ましではなく、あの世で生きていて、この世の人に想いを伝えようとしているのは、紛れもない事実です。
姿は見えなくても、あなたが想った瞬間、傍に来ています。
愛する想いは、あの世の魂を引き付ける力だからです。
愛する人の想いがいつまでも届かないのは、あなたが魂の存在を信じ切れていないからなのかもしれません。
頭で考えてはいけません。
五感に頼ってはいけません。
この世に生きている時は、あなたへの愛を肉体的表現により証明出来ましたが、肉体を失った今、それが叶わないことを、どうぞ判って下さい。
証明されなくても、信じるようにして下さい。
あなたに、信じてもらうしか術がないのです。
信じてもらわなければ、想い伝えようにも、伝えられないのです。
愛しているので、想いを伝えたくて仕方がないのです。
何かを感じたら信じるのではなく、この世の人が先に、亡くなった人の存在と想いを、心から信じなければいけません。
今は、信じるのが難しいのであれば、あれほどまで愛してくれた人が、いなくなってしまうはずはないと強く思って下さい。
悲しみ、苦しみの後に、真実を受け入れて、信じられる時がきっと来ます。
この世を生きる意味は、目に見えない大切なものに気付くことかもしれません。
愛より大切なものは、この世に存在しません。
信じ合えば、愛し合うことが出来ます。
強く信じる者が、強く愛し合うことが出来ると思います。
信じることの意味を深く学び、大きく成長して行くために、今生に別れがあるのかもしれません。
違いを乗り越えて、愛し合うために、全ての人は生きています。
ばらばらになったものが、再び1つになるために、私たちは信じ合わなければいけません。
2017年6月25日日曜日
ヒーリングについての私見
約11年前のある朝、ヒーリングの力が出ているのに気付きました。
霊的なことに関心がなかった私には、まさしく青天の霹靂でした。
私は右利きですが、ヒーリングの力は主に左手から出ます。
ヒーリングは左手を置いて行いますが、手のひらが痺れて、ビリビリとした感覚になります。
受ける側も、敏感な人は皮膚がピリピリと感じたり、温みを覚える人がいます。
知らないで自分の太ももに手のひらを置いていると、力が伝わって眠くなってしまいます。
信じられないかもしれませんが、たとえ地球の裏側にいる人でも、ヒーリングは可能です。
実に不思議なのですが、1面識もなく、住所も名前も知らない人でも力は正確に届きます。
また、人だけでなく、同じ魂を持つ動物にも有効であり、人智を超えた力であることは確かです。
現代医学は物質(肉体)を対象としているので、身体を検査して病気の原因が見つからなければ、根本的に治すことはできません。
現代医学で治せない病気の多くは、目に見える身体以外に原因が存在すると考えています。
ヒーリングの力は、見える身体以外の部分に作用して、原因を解消していると思います。
ヒーリングによって不治の病が治るのは、現代医学では認められていない霊的な原因を、霊的な力によって癒しているからと思います。
人は物質的存在ではありません。
物質を超えた精神(心)が存在しています。
科学では精神は脳で作られていると考えられています。
精神活動において、感情は重要な役割を果たしています。
脳は物質であり、精緻な機械(コンピューター)であるならば、感情という非論理的なものが存在する理由は見つかりません。
外部からの情報の処理をしたり、感情や考えを身体で表現するために、司令を出しているのが脳だと思います。
従って、脳が感情を生み出しているのではないと考えられます。
それでは、感情は、どこから生まれるのでしょうか?
怒りっぽい人、泣き上戸な人、笑い上戸な人、その人の個性は感情に表れます。
個性を形作っている何かが存在し、そこから感情が生まれていると考えた方が自然です。
個性を形作っているのものは何か?
それが魂です。
本当の自分です。
魂に個性があり、多種多様な想いが、そこから生まれていると考えれば矛盾は1つもありません。
想い(思念)は、目に見えない魂から生じている霊的な力と考えられ、精神的次元で自覚され司令となり、肉体的次元で言葉や行動となって具現化されます。
例えば、人に裏切られたとします。
魂から、怒りの素となる想いが生まれます。
それが精神的次元で、適当な言語や行動を起こす衝動に変換され、肉体的次元で相手を咎める言葉を発したり、時に攻撃的な行動となって具現化されると考えられます。
想いは消えてなくなるものではなく、肉体的次元で具現化されないならば、内に溜まってしまいます。
想いは、具現化されるべき性質のものであるため、想いが溜まってくると、別の形となって肉体上に具現化される時があると考えられます。
想いという「力」によって、肉体が変化したり、機能が変化するのが、霊的次元に原因がある病気の本質だと考えています。
原因不明とされる病気の多くは、現代医学で存在を認めていない霊的次元に何らかの原因があり、本体は内に溜まった具現化されなかった(摂理に反した)想いであると考えています。
この考えから類推すると、たくさんの想いを溜めている人は病気になりやすく、想いをためていない人は病気になりにくいと考えられます。
思ったこと、感じたことを表現できない人が病気になりやすく、表現できる人は病気になりにくいと言うことになります。
俗に言うストレスが溜まるとは、具現化されなかった想いが溜まっている状態であり、ストレス解消とは、その想いを解放することを指すと考えられます。
想いは、肉体で具現化される力です。
例えば、攻撃的で調和を乱すような想いが溜まってくると、攻撃的で調和を乱す、肉体上のガン組織となって具現化されることがあると思います。
もちろん、ガンの原因は他にもあります。
大量の放射線を浴びれば血液のガンに、タバコやアスベストを吸えばで肺ガンになりやすくなり、遺伝的因子も存在しますが、これらは肉体次元の原因です。
また、霊的次元の原因にも種類があり、過去生の償いであったり、魂の成長させるための手段としてガンになる人もいると考えられます。
霊的次元の想いに原因があり、病気になったのであれば、手術や薬で根本的に治すことは不可能です。
肉体次元の様相は、霊的次元(魂)の様相の反映に過ぎないので、病巣を切り取ったとしても、本体は消失していません。
内に溜まった想いが原因で病気になったのであれば、根本的に癒すためには、その想いが鎮められ、解放されなければいけません。
全ての霊的な病気は、愛によって癒されると考えられます。
ヒーリングの力の源泉は神であり、神の力(愛)によって癒されていると考えています。
しかし、神の力(愛)は、あまりにも波長が高すぎるので、各界層間で波長が下げられ、霊界の医師により、最適な治癒力となってヒーラーに届けられると考えられています。
地上のヒーラーが最後の導線となって、病気を癒す力が患者に注ぎ込まれます。
もし、ヒーリングによって病気が癒されたのならば、神の力(愛)によって、内ある想いが鎮められ、解放されたと考えています。
魂にまとわりついていた想いが、愛により引き剥がされたと言って良いのかもしれません。
ただ、ヒーリングによって、想いが解放され病状が良くなったとしても、魂の成長が伴っていなければ、同じ想いが生じてしまい、再び身体的な症状が現れてしまうと考えられます。
病気の苦痛には、魂を目覚めさせ、成長させると言う、霊的な意味があります。
長年、苦しんできた病気がヒーリングによって治るのは、それまでの苦痛によって魂が成長し、想いを完全に解放する時期が来ていると考えられます。
許せなかったものが許せるようになり、理解できなかったものが理解できるようになり、乗り越えられなかったものが乗り越えられる時が来ると、霊界の導きによってヒーリングが行われ、魂を目覚めさせ、想いが解放され、病気が癒されると考えています。
魂に力を受け入れる資格(成長)がなければ、いかなるヒーラーであっても、病気を癒すことは出来ません。
この世に起きる事象は、全て神の法則に従っています。
病気は、肉体と精神と魂(霊)の不調和によって起こりますが、何かが自然法則に反していたと考えられます。
魂が最上位で精神と肉体を支配しているのが自然な状態です。
しかし、肉体が全てだと勘違いしてしまうと、魂の存在には気付かず、そこから想い(思念)が生まれているなど思いもしません。
そして、人は外部の影響を受けながら、この世だけの自我(エゴ)を精神上に作り上げて行きます。
この世だけの自我がとても大きくなり、幅を利かせてしまうと、魂は奥に追いやられ、そこから生じている想いに気付きにくくなってしまいます。
魂よりも、この世だけの自我(精神)が優先されるのは、自然法則に反していると考えられます。
(魂から生まれた)本当の自分の想いを表現出来ずに溜まってしまうと、その不自然さに気付くために病気になります。
魂から精神、精神から肉体へと生命力が滞りなく、円滑に流れて行くのが本来の姿です。
生命力の循環が妨げられると、肉体上に病気として反映されますが、ヒーリングによって大量の生命力を注ぎ込まれると、内にある想いがフラッシュされるような図式になるのかもしれません。
ヒーリングは、眠っている魂を目覚めさせ、精神を支配下に置き、自然な状態に戻すと考えられます。
では、ヒーラーがいなければ、霊的な病気は癒されないのでしょうか?
人は誰でも、愛する力を持っています。
人(魂)は神の分霊であり、神とつながっているからです。
この世で最も愛する人に向けている想いを、そのまま自分自身に向けてやれば、ヒーリングは可能と考えています。
その想いは自己愛ではなく、他者への愛と同質のものでなければいけません。
人を大切にするように、自分を大切にすれば良いと思います。
人を労わるように、自分を労われば良いと思います。
愛する人の病気が良くなるのを祈るように、自分の病気が良くなるのを祈れば良いと思います。
ヒーリングは心身の病気を癒すために存在しますが、真の目的は魂を目覚めさせるためです。
病気が癒されることで、この世のものではない力が働いたことを実感し、霊的な力の働きによって眠っている魂を目覚めさせると思われます。
病気が癒やされ、魂が主導権を握った時に、人生のシナリオに沿って生きられるようになり、予定されていた成長が得られるようになります。
ヒーリングは、魂の成長のために存在すると思います。
2017年6月11日日曜日
人生の勝者
社会では、常に結果を求められます。
私の仕事においても、(治療)結果が満足いくものでなければ、クレームになったり、黙って去って行く人もいます。
しかし、ベストを尽くしても満足する結果が得られない時もあり、もどかしさを感じています。
スポーツの祭典であるオリンピックでは、結果が出せた人と、出せなかった人の対比が鮮明に映し出されます。
周りの期待を一身に受けて、それに応えるために血のにじむような努力をしてきて、それでも金メダルに手が届かなかった人がいます。
一方、それほど期待されていなかったのに、普段の実力以上のものが発揮されて、金メダルを取ってしまう人もいます。
結果だけを見ると、この世の中は、ずいぶん不公平に出来ていると感じます。
しかし、実際は、自然法則の働きによって、完全な公平が保たれていると思います。
生命とは、肉体ではなく魂です。
人は死んで終わりになるのではありません。
死後にも人生があり、生まれる前にも人生があります。
人生にはおよそのシナリオがあり、今生のシナリオは過去の人生をどの様に生きたかによって決まります。
魂の不完全さを自覚して、過去の人生を悔い改めるために、シナリオが組み立てられ、その人生を承知した上で、最適な母体に宿りこの世に生まれてきます。
メダルを取った人も、取れなかった人も、才能が与えられ、後に競技と出会い、夢の実現に向かって突き進んで行くシナリオがあったと思います。
メダルを取るか、それとも取れないか、決まっていたのかは定かではありませんが、夢を実現させるために、人並みはずれた奮闘努力をすることは、予め決めていたと思います。
人が真似できなような努力が出来るのは、果たさなければならない約束であることを、魂が自覚しているからと考えられます。
表彰台で首にかけてもらうメダルは、勝者だけに与えられる栄光の印です。
しかし、本当に価値があるのはメダルなのでしょうか?
メダルは奮闘努力するための触媒であり、その結果得られる成長が、本当の価値を持っていると思います。
たとえメダルを取れなかったとしても、そこに至る過程で成長していれば、当初の目的は十分に果たしていると言えます。
悔し涙を流すかもしれませんが、その想いが次につながって行きます。
どんな経験も無駄にはならず、将来の自分の成長のための糧になっています。
生きる目的は、万人に共通しています。
この世でしか出来ない経験を通して、自分(魂)を成長させるためです。
勝者がいるのは競技だけであり、人生に勝者はいません。
勝つことだけを考えていると、生きる意味を見失ってしまいます。
この世界で勝者としてもてはやされていた人が、あの世の行って、惨めな思いをすることがあるようです。
勝者の証とも言える地位や名声、財産が、死と共に、ことごとく消え失せてしまうからです。
夢中になって追いかけていたものに、永遠の価値がないことを知って、何のために生きてきたのか判らなくなってしまうからです。
一方、苦労ばかりの人生だったと、哀れんでもらうような人が、実は大きな悦びを味わっていると思います。
功績は残らなくても、人や動物や社会が喜ぶことを心がけて生きてきた人も、大きな悦びを味わっていると思います。
目に見えない自然法則が、この宇宙を支配しています。
その自然法則は、想ったこと、言ったこと、行ったこと全てに働いていて、相応の結果をもたらします。
苦難や障害を乗り越えて行けば、自然法則の働きにより、魂は成長します。
他者に愛を表現(奉仕)をすれば、同じく自然法則の働きにより、魂は成長します。
人生に勝者敗者はありませんが、人生を振り返り、悦びに満たされる人と、悔やむ人がいることは確かなようです。
この世で魂が大きく成長した人は、それこそ金メダルを取った時のような悦びと達成感に満たされているような気がします。
どうすれば、生き甲斐のある人生を送ることが出来るのか?
シルバーバーチは、人(や動物や社会)のために自分を役に立てること、困難を乗り越えて行くことによって魂(自分)が成長すると明言しています。
そして、人生の晴れ間ではなく、嵐が吹き荒ぶ時に自分が成長していたことを知り、神に感謝すると言っています。
目に見える結果だけで、全てを判断してはいけないようです。
結果の中に、目に見えない本当の意味が隠されているからです。
人生の学びとは、そこに隠された意味を得心することかもしれません。
物質に囲まれているこの世では、目に見えるものが全てだと、つい勘違いしてしまいます。
本当に大切なものは、神の配慮によって、判らないようになっています。
大切なものが見えてくるのは、それまで見えていたものが目に入らなくなった時です。
あまりの暗さに、この世の目が見えなくなると、魂の目が開きます。
魂の目が開いて視えてくるものは、「命」であり、「愛」です。
この世の出来事は、神の法則によって起こります。
神の法則は、生命を成長させる方向に導いています。
成長とは、より高く、より強い愛を表現するようになることです。
この世に起こる出来事は、苦しみや悲しみを経験し、より高く、より強い愛を表現するためにあり、その目的は1つになるためです。
人生は競い合うものではないので、勝者はいません。
ただ、この世の困難や障害を乗り越え、より高く、強い愛を表現できるようになった人を、神に祝福された、人生の勝者と呼んで良いのかもしれません。
2017年5月28日日曜日
信じ合い、愛し合うことで1つになって行く
ソンブレロ銀河 |
どうすれば、こんな美しい造形が出来上がるのでしょうか。
私たちの宇宙は、138億年前にビックバンにより誕生したと考えられています。
突発的に誕生したのか、それとも計画的であったのか?
その疑問に、科学者は答えてくれません。
宇宙は計画的に誕生したと、私は信じています。
宇宙創造には、何らかの意図が隠されいると信じています。
ちっぽけな私に、その意図など判るはずもありませんが、想像をはるかに超えた、とてつもなく大きな存在が背後にいるのは間違いないと思っています。
多くの人は、その存在を神と呼んでいます。
私たちは広大な宇宙を構成する一部です。
とてつもなく大きな存在である神によって、宇宙が創造されたのであれば、私たち人間も神によって創造されたことになり、両者は密接不可分の関係あると考えられます。
神によって創られた、神とつながっている一部と考えて良いのかもしれません。
けれども、私たちは、完全な神とは遠くかけ離れています。
あまりにも不完全です。
そんな不完全な私たちを、神はなぜ創造したのでしょうか?
完全は不動のものであり、変化はありません。
不完全なものを創り、それが完全に向かって変化して行く過程を、同時に創造したと考えられます。
進化とは、生命が完全へと向かって行くことを指すと考えられます。
より完全な方向へと、自然法則(神)により、導かれていると思います。
完全に向かうためのエネルギーを、神から受けながら、進化していると思います。
本を正せば、あらゆる存在は1つの莫大なエネルギーだったと考えられます。
一つであったものを、何故ばらばらにしたのか?
ばらばらになったものを、再度1つにさせようとする意図があると考えています。
完全であったものを、ばらばらにして不完全にさせ、再度1つの完全なものにする意図があったと考えています。
私たちが五感で認識しているのは、物的な宇宙です。
物的な宇宙よりも高次に、五感に触れない霊的な宇宙が存在し、そこには無限の界層があると考えられます。
霊的な宇宙の中で、ばらばらになった限りなく小さな一分子が、生命(魂)と考えられます。
物的な宇宙は、膨張、拡散を続けています。
霊的な宇宙は、ばらばらになった生命(魂)が、1つになる方向に向かっていると思います。
今から数千年前、自分の住処から山1つ隔てれば、そこは未知の世界だったと考えられます。
1つの小さな集落の中で、一生が完結していた人が、ほとんどだったと思います。
しかし、人間には好奇心、探求心があり、外の世界を覗いてみたくなります。
山を越え、海を渡り、未知の世界に足を踏み入れて行ったと思います。
そこで、言葉や文化や生活習慣の異なる人たちと出会います。
最初は、驚き、警戒したでしょうが、次第に、外の世界との交流は盛んになり、活動範囲は拡がって行ったと思います。
ある者は、周囲を力により服従させ、支配して行ったでしょう。
また、ある者は、友好関係を結び、共存して行ったでしょう。
歴史を振り返ってみれば、1つのまとまりは、時代と共に、大きくなっているのは明らかです。
集落は共同体という形で1つにまとまり、長い年月をかけて、現在の国家と言う単位になって行ったと思います。
もし、1つのまとまりが大きくなる方向に進んで行っているのであれば、はるか先には、地球が大きな1つのまとまりになると考えられます。
小さなものがまとまって集団となり、集団の集まりが国家になり、国家が集まり、間にある障壁が取り払われた時に、地球が1つにまとまると思います。
それは、ばらばらになったものを、1つにさせると言う神の意志によるものであり、神の創った自然法則の働きにより、必ず成就されると考えられます。
1つになって行くために必要なものは、何でしょうか?
力によって、ばらばらなものを、見かけ上ですが、1つにすることは出来ます。
しかし、それは永続的なものにはなりません。
自然法則に反しているため、同じ力によって、いづれ元に戻ってしまいます。
永続的に1つになるためには、何が必要なのでしょうか?
それは愛です。
私たちは、愛により1つになれます。
愛を表現すれば、自然法則の働きにより、お互いの生命(魂)は引き付けられ、1つになります。
神は無限の愛であり、無限の叡智です。
1つの魂(人間)は、霊的な宇宙の中で、極小の存在であっても、神が創った一分子に変わりありません。
魂が神的な一分子であるならば、初めから愛を帯びていると考えられ、愛を表現して1つになろうとしているはずです。
しかし、地上の人には肉体という表現媒体があります。
そのために肉体的欲求が生まれてしまい、それを満足させなければいけません。
満足させるために、地上的自我を発達させて行くようになります。
地上的自我が発達して、肉体的欲求を満足させようとすれば、外部への関心は薄れて、軋轢が生じ易くなります。
それが高じてしまうと争いとなり、苦痛を伴う出来事が起きることになります。
地上的自我が発達してくるのに従い、霊的自我(魂)は奥に押し込められて、1つになろうとする欲求は掻き消されてしまいます。
人は、霊的な存在であることを、忘れてしまっています。
人の本質は、肉体ではなく、魂(霊)であることを、忘れてしまっています。
内在されている神の愛が、地上的自我に阻まれて、表現されにくくなっています。
地上的自我は、目に見えるものだけを信じて生きようとします。
目に見えない愛を感識することは出来ず、物質的なものを頼りに生きようとします。
しかし、物質的なものは本質ではないので、いくら手に入れても、虚しさや、孤独や、不満がなくなることはありません。
霊的自我(魂)は、目に見えないものを感識できます。
目に見えない愛は、魂により感識され、悦びやあたたかさになり、充足感が得られます。
地上的自我が占拠してしまうと、霊的自我(魂)は埋没してしまい、そこから生まれている自分本来の想いを表現出来なくなってしまいます。
内在している愛の想いを表現できなければ、魂の成長は出来ず、生まれてきた目的を成就出来ません。
地上的自我と霊的自我のせめぎ合いの中で、地上的自我が勝てば軋轢が生まれ、争いとなり、苦痛を伴う結果が生じます。
苦痛は誰もが避けたいものですが、魂にまで響き、目覚めさせるという深甚な意味があります。
地上的自我は吹き飛ばされて、霊的自我(魂)が主導権を握り、内在する愛に気付き、それを表現しようとする欲求が生まれて来ます。
苦痛により霊的自我が目覚めると、1つになる方向に向かい始めます。
遠い過去から、その行程が絶え間なく繰り返えされ、今に至っています。
全ての人が、霊的自我に目覚めれば、地球は1つになります。
けれども、肉体を持つ不完全な存在であるために、さらなる苦痛が必要と思われます。
ばらばらになった生命(魂)が1つになるのは神の意図であるために、はるか先になりますが、必ず成就されます。
1つになるためには、愛し合わなければいけません。
その前に、お互いを信じなければいけません。
信じることは水路のようなものであり、その水路を通して、愛と言う水が流れます。
水路がなければ、たとえ水がたくさんあっても、流れることは出来ません。
間にある障壁は、信じ合うことにより消滅します。
とても単純ですが、容易ではありません。
それまでの苦痛や悲しみが、悦びに変わる経験を通して、信じることの意味を魂に刻んで行きます。
お互いの存在(魂)を信じ合えれば、いつの日にか、愛し合えるようになります。
愛し合えるようになれば、隔てるものはなくなり、1つになります。
1つになったものが、またばらばらになることはありません。
なぜなら、信じ合い、愛し合うために、1つのものがばらばらになったからです。
2017年5月14日日曜日
子育ては知識ではなく愛情
私の家には、「しろ」という名の7歳の雑種の犬がいます。
しろは生まれてすぐに、5匹の兄弟犬と一緒に捨てられ、保健所に収容されていました。
このままでは、死んでしまうかもしれなかったので、家族で5匹を引き出して、育てることにしました。
母犬はいなくても、生まれたての子犬たちは、人間が与えるミルクで順調に育ちました。
しばらくして、里親が見つかり、全匹もらわれて行きました。
しばらくして、しろの様子を伺おうと、飼い主になった人に連絡を取ったのですが、つながりませんでした。
義父が亡くなった直後で、妻は大変な時でしたが、そのことがとても気になっていました。
何気なく、保健所に収容されている犬を掲載しているホームページを見たら、そこに大きくなったしろらしき写真を見つけたそうです。
実家から戻った妻は、早速、その犬を確かめに行きましたが、やはりしろでした。
穏やかでやさしい犬なのに、ウーっと唸り声を上げていたそうです。
会えたうれしさと、何でもっと早く迎えに来なかったのかとの想いが、入り混じっていたような気がします。
偶然ではなく、霊界から働きかけがあって、見つけられたと考えています。
飼い主になった人は、その後、精神を病んで動物を飼える状態ではなくなってしまい、しろが逃げ出してしまったようです。
飼い主の家を出て、しばらく放浪していたため、やせ細っていました。
そして、生後8ヶ月しか経っていませんでしたが、妊娠していました。
1才にもなっていない犬が、子犬を産んで育てられるのか、少し心配でしたが、しろのお腹はどんどん大きくなって行きました。
そして、動物の出産を初めて見る時が来ました。
犬は安産の象徴と言われますが、産まれる瞬間は「キャイーン」と痛そうに啼いていました。
2匹の子犬を産んだ直後に、羊膜をきれいになめて取り除いていました。
誰に教えてもらうのでもなく、子犬にフンやおしっこを促したり、お乳を飲ませたりして、1歳にも満たないしろの子育てが始まりました。
母犬から引き離され、子育ての仕方を全く知らないしろでしたが、無事に子犬を育てることが出来ました。
その様子を毎日見ていて、子育ては知識ではないと思いました。
動物の持つ本能と言ってしまえばそれまでですが、子育ては愛情表現そのものと思いました。
生命(魂)は、神の一部であり、常に神とつながっています。
もちろん、神とつながっているのは、体感的に認識されていません。
目に見える肉体は、口から取り入れる栄養によって活動していますが、目に見えない霊的次元の魂(霊)は、大始源である神から生命力を受け取り活動しています。
魂が受け取った生命力は、出来事を経験することにより思念(想い)となり、精神的次元で思考や感情に変換され、最終的に肉体的次元で表現されて、完結していると考えられます。
神は無限の愛です。
生命力は神から受け取っているために、愛を帯びています。
従って、本来人間は、愛を表現するために生きていると思います。
しかし、肉体や(この世の)自我を持っているので、それを満足させることを優先してしまい、愛を表現することを、つい忘れてしまいます。
誰かのために何かをしようとすると、自分の持っている力以上のものが発揮される時があります。
それは、誰かのためにという愛の想いにより、神と同調し、つながりが強くなり、より多くの生命力が魂に流れ込んでいるためと考えられます。
生命力と共に、愛を表現するための叡智が与えられていると考えています。
愛情表現を通して、動物の魂は、神と強く結ばれていると思います。
動物を見ていて、子育てに必要なことは、神から全て伝わって来て、ただそれを行動に移しているだけのように思えてなりません。
そう考えると、同じ動物である人間を育てるのも、知識ではなく、愛情があれば心配ないのかもしれません。
知識は、あくまでも補助的なものであり、詰め込むほどかえって混乱し、不安になってしまうような気がしてなりません。
肝心の愛情がなければ、いくら持っている知識を実行に移しても、上手く行かないのかもしれません。
赤ちゃんが泣いていたら、何故泣いているのかを考えるのではなく、抱き上げて、心を鎮め、その瞳を見つめていれば、何かしらの理由が浮かび上がって来るのかもしれません。
一人で生きているように見えますが、私たちは常に神とつながっています。
頭で考えて行動するのではなく、愛情を持って行動していれば、霊界から直感として答えをもらい、それに従って行動すれば、良い結果が生まれるような気がします。
世の中には、子供に対する愛情を持てないと、悩んでいる人がいます。
そんな人は愛情がないのではなくて、何らかの原因があって、表現できなくなってしまっていると思われます。
原因の多くは、トラウマと呼ばれるものですが、それは過去の出来事の記憶ではなく、生じていた想いによって引き起こされると考えられます。
過去に生じていた想いが障害となって、素直な愛情表現が出来なくなっていると考えられます。
最も信頼するべき存在、愛情を注いでもらえる存在から、ひどい仕打ちをされて、表現できないような強い想いが生じていたと思います。
安心や満足が生まれるところが、恐怖や不安や不満が生まれてしまったと考えらます。
時を経て、自分が親になった時に、記憶として残っていない過去の恐怖や不安が呼び覚まされ、心が縛られて、身動きできなくなってしまっている可能性があります。
あなたが悪いのではなく、物心も付いてない時に受けた行為により、愛情表現が出来なくなっているだけです。
従って、自分を責めたり、愛情がないと嘆く必要は全くありません。
心の奥でうごめいている何者かは、表現が出来なかった想いです。
生きづらくしている、自分の想いを表現しにくくさせている、内にある過去の想いを解放させてやりましょう。
簡単に、誰でも出来るやり方を試してみましょう。
幼かった時のあなたを心の中に思い描いて下さい。
当時の写真があれば、もっと良いです。
その時の自分を、やさしく、包み込むような気持ちで、「もう大丈夫だよ」と、微笑みながら声をかけ、目を閉じて心の中で抱きしめてやりましょう。
その時、注いでもらえなかった愛情を、今のあなたが代わって注いでやりましょう。
少しずつで良いですから、毎日続けてみましょう。
この宇宙を創ったのは神です。
神は無限の愛であり、愛に勝る力は、この宇宙に存在しません。
恐怖、不安、怒り、他のあらゆる想いは、愛の力により解放させることができます。
屈折してしまっている愛の表現は、想いが取り除かれることにより、本来の表現を取り戻します。
ところで、人は何故、愛を表現しなければいけないのでしょうか?
愛を表現することで、自分(魂)が成長するという自然法則があるからです。
そして、魂は成長して、神に近づくように、定められているからです。
愛を表現するように、自然法則により導かれているのですが、何らかの原因で表現できなくなってしまうと、成長が出来なくなってしまいます。
そして、成長が出来なくなると、自然法則の働きにより、苦痛が生じるようになっています。
人は、生まれる前に決めていた試練として(霊的な)病気になることがありますが、それ以外は、今生で生じていた原因で病気になると考えられます。
今生で生じた原因の多くは、肉体で表現できなかった、内に溜まっている想いと考えられます。
病気に伴う苦痛は、魂を目覚めさせ、内に溜まっている想いに気付かせると言う意味があります。
そして、苦痛によって魂は成長し、成長した魂から生まれる愛によって、内に溜まっている想いは解放されます。
原因があって病気になりますが、その原因を取り除いて行くのも病気です。
多くの病気は、自分の成長を妨げている想い(原因)に気付き、それを排除するためにある、神の摂理の1つと考えられます。
与えられた試練以外の苦痛は、愛に反する行為により作り出されたものです。
愛に反する行為を受けたことにより、恐怖や不安が生じていて、愛が表現できにくくなっていて、成長が妨げられています。
自分は悪くないのですから、苦痛から解放されて、自分(魂)から生じている愛を、自然に表現できるようになれるはずです。
子供を育てるのは、成長するために与えられた試練であり、悦びです。
自己を犠牲にすることで魂は成長し、愛情を表現することで悦びとなります。
もし、子育てが悦びにならないとしたら、親としての義務感が優先されて、愛情が表現されていないのかもしれません。
頭で考えるのではなく、湧き上がってくる直観に従えば良いのかもしれません。
神の摂理によって子供を授かったのであれば、神の摂理に守られて子供は育つはずです。
そこに愛情があれば十分なはずです。
しろ |
2017年4月30日日曜日
自分を成長させるために出来事は起こる
人は、何のために生きているのか?
答えは明快であり、魂を成長させるためです。
魂とは生命そのものです。
時に笑い、時に泣き、日々悪戦苦闘しながら、この世を生きているのは、魂を成長させるためです。
人や動物や社会のために、何か貢献したいと思うのは、その行為が魂を成長させるからです。
何かに挑戦したいと望むのは、魂がより一層強くなりたいと希求しているからです。
同じ場所に留まっていると、苛立ちを覚えたり、苦痛に感じてしまうのは、魂は成長して行くように定められているからです。
私たちは、大まかな人生のシナリオを承知した上で、この世に生まれてきています。
出生時の環境や、人生で起こる出来事や、出会いなど、生れる前の自分は承知していましたが、そのことをすっかり忘れてしまっています。
何故、忘れてしまうのか?
もし、事前にシナリオが判っていたのなら、どうなるのでしょう?
気になってしまい、落ち着いて生きることなどできません。
人によっては、こんな人生など耐えられないと、逃避してしまうかもしれません。
人はそれほど強くないので、逃避する過ちを犯さないように、判らないようになっていると思います。
一人ひとりに、この世で果たすべきことがあり、学ぶべきことがあるようです。
今、立ち向かっている試練は、今生で果たすために、生まれる前に約束していたものかもしれません。
最中にいる出来事は、経験を通して、大切なことを学ぶために起きているのかもしれません。
大きな出来事を乗り越えた時に、以前より成長したと感じるのは、困難や障害を乗り越えることで魂が成長すると言う、霊的な法則があるためと思われます。
出来れば避けたい不幸や不運と思われるような出来事であっても、苦しみながら乗り越えて行くことで、魂は大きく成長し、この世に生まれた目的を成就していると考えられます。
この世の中には、さまざまな才能を持った人たちがいます。
芸術家と言われるような人たちは、多くの人の魂に響くような作品を創り出すために、天賦の才能を与えられています。
しかし、その人生は平凡ではなく、波乱万丈であることが多いようです。
繊細かつ豊かな感性を磨き、表現する才能を花開かせ、優れた作品を創るためには、さまざまな苦悩や人生経験が必要なのかもしれません。
ベートーヴェンの人生は苦難の連続であり、さらに全聾という音楽家として致命的な障がいがありましたが、全てを乗り越えた末に辿り着いた境地が、第9の「歓喜の歌」に表現されていると思います。
ブログにも書きましたが、フランスの彫刻家であるカミーユ・クローデルは、ロダンとの身が引き裂かれるような別れがなかったとしたら、極限の悲しみを作品に表現出来なかったでしょう。
人はその芸術的才能に憧れますが、もし、その波乱に満ちた人生のシナリオを同時に経験しなければいけないとしたら、ほとんどの人は尻込みしてしまうかもしれません。
多くの人は、特異な才能があるわけではありません。
平凡と思える人生を送っています。
そんな人生であっても、1人ひとりにオリジナルのシナリオがあります。
生まれる国、性別、家庭はもちろん、就職や結婚といった魂の成長にとって重要なライフイベントも、予め決められていて、それに沿わせるように、霊界(守護霊)によって導かれていると考えています。
生活して行くために仕事や家事をしているのですが、少なからず忍耐や自己犠牲が必要です。
1つ1つは小さな行いであっても、社会や家族のためにする立派な奉仕であり、長い年月、続けていくうちに、魂は大きく成長して行くと思います。
結婚する人は、相性が良い人ではなく、自分の魂を大きく成長させてくれる人が、導かれて来ると考えています。
誰1人として平坦な人生はあり得ず、必ず山があったり、谷があったりします。
人は、何とかして山を乗り越えたり、谷から這い上がろうとしますが、何故なのでしょうか?
それは、自分に与えられた試練であり、自分が成長することを、魂は知っているからだと思います。
困難や障害のない人生が、1番幸せと考えている人が多いのですが、それは誤りです。
真に幸せな人生とは、自分を大きく成長させた人生です。
困難や障害を、苦しみながらも、乗り越えて行った人生です。
いくら困難を乗り越えて自分が成長しても、死んでしまえばお終いだから、楽しい人生であれば良いと思う人がいるかもしれませんが、その誤った認識も改めなければなりません。
この世界が、全てではありません。
この世界は感触に実感があるので、他の世界など想像もつかないのですが、死んだ後に別の世界が待ち受けています。
そこでは、物的なものはなくなり、霊的なものが実在となります。
肉体は失われ、あるがままの自分(魂)が、むき出しになります。
この世では、心の中で憎んでいても、笑顔で対応することが出来ます。
あの世に行くと、憎しみを隠し立てするものはなくなり、その想いは光となって放射されます。
光が放つ色によって、その魂がどんな想いでいるのかが判ります。
自分の偽らざる想いが人に知られるため、嘘が存在し得ず、隠し立ても出来ず、裏表はなくなり、真実しか存在しない世界に、私たちは必ず行きます。
この世を、どう生きたかによって、魂のありさまは、大きく変わってきます。
この世で、人に優しく、思いやりを持って接して来た人は、慈愛に満ちた魂となります。
この世で、周りに怒ってばかりいた人は、怒りに満ちた魂となります。
この世で培った本性は、そのままあの世に持ち越されます。
この世で人を評価する時には、知性や地位や財産が基準となることが多いのですが、あの世では魂を評価する絶対的な基準は霊性になります。
自己を犠牲にして、他者に愛が表現できる魂ほど、霊性が高いと考えられます。
霊性が高い魂ほど、神からふんだんに生命力が流れ込み、美しく光り輝いていると考えられます。
完全(神)に近づくほど、次元の高い愛を表現できるようになると考えられます。
あの世では、自分と同じような霊性(格)の魂と共に暮らすことになります。
お互いの想いが判り合える、すばらしい境涯であり、この世のような苦しみや、痛みや、悲しみは、もうありません。
当然、いつまでもそこに居たいと思うような気がしますが、実はそうではなさそうです。
魂(生命)は、完全に向けて成長して行くように、定められているからです。
あの世に行くと、それまで内にあった魂が露わになるために、嫌でも自分の不完全さに気付き、足りないところを、どうにかして補おうとするようです。
しかし、物を買うように手に入れられるはずもなく、それに見合った経験を積まなければいけません。
例えば、他者を信じようとしないという自分の欠点に、ようやく気付いた魂がいたとします。
あの世では、自分と同じような魂と共に平穏に暮らしているので、深く響き、魂を変えられるような出来事は起こり難いと考えられます。
平和で快適な世界なのですが、比較対象となるものがなく、何かの教訓を学んだり、経験を通して叡智を身に付けるのには適していないと言えます。
そこで、自分とは違う魂が集い、魂に響くような出来事が起こる地上に、志願して生まれてきます。
人を信じようとしない魂は、信じることを信条としている両親の元に生まれて育ててもらったり、信じるのに値する人と出逢うことで、考えを改めて行くかもしれません。
あるいは、徹底的に窮地に追い込まれた末に、人に助けてもらうような、強烈な出来事を経験する人生を選ぶことで、人は信じられるものであると得心して行くかもしれません。
この世でしか経験できないさまざまな出来事を通して、自分の欠点を正し、魂の足りない部分を補いながら、成長して行くと思われます。
出来事には必ず意味があると良く言われますが、それは自分(魂)の成長にとって意味があるのであり、完全に一歩近づくために、起きていると考えても良いのかもしれません。
足りないところ、学ばなければいけないことは、誰一人として同じではありませんので、人それぞれ違った人生になります。
従って、人の人生を羨んだり、自分の人生を恨んだりするのは愚かと考えられます。
この世の目でしか見られず、霊的な意味が判らないと、そんな思いを抱いて、苦しんでしまうかもしれません。
人生は死んだ後も続いています。
そこで、今生での苦しみ、悲しみは、全て報われます。
完全な公平、公正、平等が行き渡っていたことを知り、神に深く感謝すると思います。
2017年4月16日日曜日
霊的な病気について
現代医学でも、多くの病気は、精神(心)と密接な関係があると考えるようになってきました。
昔から、胃潰瘍はストレスにより起こることが知られていましたが、現在は、高血圧症やぜんそく、アトピー性皮膚炎なども、精神的な要因によっても引き起こされると言われています。
一般的に、人間は目に見える肉体と、目に見えない精神から成り立っていると考えられています。
実際は、精神の上位に魂(霊)が存在しています。
3者は密接につながり、連携しながら活動しており、魂が精神を支配し、精神は肉体に命令を下しています。
原因が未だ明らかにされていないガンや膠原病などの病気は、目に見えない魂(霊的次元)に、根本原因があると考えています。
では、なぜ霊的次元にある原因が、心身に変化をもたらすのでしょうか?
肉体は、口から入る食物によってエネルギーを摂取して活動していますが、目に見えない魂と精神は、それとは別系統の生命力(霊力)によって活動しています。
魂は、生命力の始源(神)とつながっていて、絶えず生命(霊)力が流れ込んでいます。
私たちは、この世でさまざまな出来事を経験します。
出来事が起こると、さまざまな想いが生まれます。
悦び、悲しみ、怒りなどの想いは、魂から生じていて、精神を経由して、肉体で言葉や表情あるいは行いとなって表現されています。
想いは、肉体で表現される元となる力であり、魂から精神、精神から肉体へと、それぞれの次元に変換されながら流れて行きます。
3者が一直線で結ばれ、肉体に滞りなく力が行き渡って、(肉体的)表現がされている状態が健康と考えられます。
生じた想いが、そのまま肉体で表現されているのであれば、病気になりにくいと思われます。
しかし、想いとは全く違うものを、精神(自我)が命令し、肉体で表現し続ければ、3者の間に、不調和が生じてしまうと考えられます。
具体的に言えば、憎しみを抱いている人に、愛情表現を続けたら、想いと行動が一致していないので、心身を病んでしまう可能性があります。
動物が大好きな人が、殺処分を開始する機械のボタンを毎日押し続けたとしら、病気になってしまうと思います。
また、自分の想ったことが言い表せなかったり、行動が出来なかったりしても、不調和が生じてしまうと考えられます。
他者から、精神的、肉体的暴力を受け続けて、何も言い返せなかったり、逃げ出せなければ、内に想いが滞ってしまい、病気になり易いと思います。
生じた想いが小さなものであっても、長い間、押し殺し続けてしまえば次第に大きなものとなり、不調和が生じて、病気になり易いと思います。
大変稀ですが、熱心なキリスト教信者に聖痕(スティグマ)が現れることがありますが、強い想いが、肉体上に変化を起こしていると考えられます。
その現象は、想いは肉体上に変化を起こす力であることを、物語っていると思います。
魂から生じた想いは、肉体的次元で表現されて、解放されています。
しかし、何らかの理由によって、表現されなければ、霊的次元に滞ってしまいます。
肉体は魂(霊)を表現している媒体です。
霊的次元で起きている変化は、肉体的次元の変化として反映されます。
表現されなかった想いは霊的次元の変化として、肉体的次元において組織を変化させたり、機能異常を起こしていると考えられます。
肉体上の病気と言う、別の形となって、想いは表現されていると考えられます。
今、日本人の2人に1人がガンになります。
高齢化社会になったとは言え、医学が発達した現在、この割合はあまりにも多いと思います。
一般的に、発ガン物質や放射線、あるいは遺伝因子によって細胞分裂時のコピーミスが起こり、無秩序に増殖を繰り返すようなガン細胞が生み出されると言われています。
タバコを吸ったり、放射線を被爆するとガンの発生リスクが高まるのは、周知の事実です。
最近の研究で、ガンになり易い性格(気質)があるらしいことが判ってきました。
L・テモショック、H・ドレイアというアメリカの心理学者が、150人以上のメラノーマ(悪性黒色腫)患者を面接し、その約4分の3に、以下のような共通の性格的特徴があることを認めたそうです。
1.怒りを表出しない。過去においても現在においても、怒りの感情に気付かないことが多い。
2.ほかのネガティブな感情、すなわち不安、恐れ、悲しみも経験したり表出したりしない。
3.仕事や人づきあい、家族関係において、忍耐強く、控えめで、協力的で譲歩を厭わない。権威に対し従順である。
4.他人の要求を満たそうと気をつかいすぎ、自分の要求は十分に満たそうとしない。極端に自己犠牲的になることが多い。
メラノーマ(ガン)になった人は、怒りの感情に気付かないことが多く、怒りなどのネガティブな想いがあったとしても表現しない傾向がありそうです。
つまり、怒りや恐れなどが生じても、上手く表現できずに、内に溜めてしまった人が、ガンになり易いと言えます。
もう一歩踏み込んで、内に溜まっていた想いが、ガンを発生させる原因となっていると考えるのは行き過ぎなのでしょうか。
ガンの本体は霊的次元に存在する、表現されなかった想いであり、長い年月をかけて蓄積した怒りなどの(摂理に反した)想いが、攻撃的で暴力的な細胞に変化させる力となっている可能性があります。
そのために感情と連動していて、強い怒りや憎しみが生じた時には、活性化してより攻撃的な組織に変化すると考えられます。
強い恐怖や不安なども、ガンの元となる想いであるため、怖れや不安を感じた時には連動して、ガンは活性化すると考えられます。
多くの人は、肉体に起こった変化に恐怖や不安を感じて、病変を消滅させようとしますが、その行為が攻撃的で暴力的であるため、ガンを活性化させていると思います。
もし、何者かに攻撃をされれば、自己を守るために、反撃に出ると思いますが、同じことがガンに起きていると思います。
こちらから攻撃をすれば、因果律の働きにより、さらに攻撃的な組織に豹変する可能性があるので、厳重な注意が必要です。
霊的次元の想いが、肉体次元の病変となって反映されていることを忘れてはいけません。
消滅させようとする攻撃的な想いを抱いたならば、その想いがより攻撃的な組織に変えてしまう力になると考えられます。
抗ガン剤を投与したり、放射線を照射して消滅させようとしても、攻撃性が増してしまうだけであり、一時的に病変が縮小したように見えても、より強い攻撃的な組織となって、失地を回復して来るのは目に見えていると思われます。
ガンと闘おうとする想いは、ガンに生命力を与えてしまっています。、
ガンと闘えば、自分と闘ってしまうことになり、損傷を受けてしまうのは自分です。
ガンを消滅させようとする行為は、因果律の働きで、全て自分に苦痛として返って来てしまいます。
ガン患者さんは、肉食をしてはいけないと言われていますが、屠殺された時の、恐怖や怒りなどが残留思念として肉の中に残っていて、それが内に溜まっている想いに影響を与えていると仮定すれば、うなずけるのではないでしょうか。
膠原病の原因についても、未だに不明です。
膠原病は、外敵から守るためにある免疫機能が、自己を外敵とみなして攻撃している病気です。
私たちは(この世だけの)自我を作り、自分(魂)を守っています。
他人から、攻撃されても自我が壁となり、自分(魂)を守っています。
ところが、自我の未発達な幼少期には、他者からの攻撃により、容易に自分(魂)が傷つけられてしまいます。
未発達な時期に傷つけられると、それを防ぐために、自我の壁を高く張り巡らして、自分(魂)を守ろうとします。
また、愛情が不足していると、安心感が得られないために、守ろうとする意識が強くなり、自我を強固に作り上げていきます。
幼少期に自分(魂)を傷つけられたり、愛情が不足して、自我を強固に作り上げて行った人が、何らかの出来事により、自分を責めてしまう想いを抱き続けた時に、膠原病が生じてしまう可能性があると考えています。
霊的次元での様相は、肉体上に病態として反映されています。
自分(魂)を守るべき自我が、自分(魂)を責めてしまっている霊的次元での様相が、自己を守るためにある免疫機能が、自己を攻撃してしまう肉体的次元の病態として表現されていると考えられます。
内に滞った(摂理に反した)想いがあると、怒りや恐怖などの想いは生じやすくなります。
苦しくなるのは判っているのに、自分を責めてしまうこともあります。
それが常態化してしまい、魂の成長を著しく妨げてしまうほどになると、因果律が作動して、霊的次元の様相が肉体的次元の病気として表現されると考えています。
霊的次元で起きていることを、人は認識出来ません。
肉体的次元の変化として表現され、五感で判るようになって、はじめて気付くと考えられます。
では、ガンや膠原病になったらどうすればいいのでしょうか?
もちろん、全てのガンや膠原病が、霊的次元の原因によって生じているわけではありません。
けれども、もし霊的次元に原因があれば、その原因となっている想いを抱かないようにするのが、病状を安定させるために有効と思われます。
ガンを患っているのであれば、心穏やかに過ごすのが何より大切です。
怒りなどの想いが沸き上がらないように、寛容な気持ちを心がけた生活を送るべきと考えられます。
過去の出来事から生じていた強い恐怖や不安は、長い間、封印されたままになっていて、命にかかわる病気であるガンの恐怖や不安として表出していると考えられます。
ガンになって怖いのは、死ぬかもしれないと思うからですが、死ぬかもしれないと思うほどの出来事によって生じた想いが、内に溜まっていたのかもしれません。
恐怖や怖れを覚えても、時を経て過去の想いが表に出てきていると考えて、過剰に反応しないのが賢明と思われます。
疫学的な研究は存在しませんが、膠原病の人は、自分を責めてしまう、性格的傾向があると推察されます。
無防備な時に、愛を受けるべき人からの言動によって、魂が深く傷つけられ、それでも、要求や期待に応えようと、必死に生きてきた人がなり易いと考えられます。
期待に応えられなかった時や、愛を受けるべき人に激しく叱責された時に、強い自責の想いが生じてしいたと考えられます。
期待に応えようとする欲求が強く、達成できないと自分で自分を責めてしまう方向に向かいやすいことを自覚した方が良いと思います。
期待に応えようと必死になっている自分は、本当の自分ではありません。
人のことを気にし過ぎないように、強く自分を戒めて下さい。
自分を責めても、良いことは何1つありません。
人を責め過ぎてはいけないように、自分自身を責め過ぎてもいけないのです。
過去に生じていた想いがあるために、本当の自分(魂)の想いが表現できなかったり、自分の成長を妨げている想いが生じ続けている時に、病気が起きると思います。
霊的次元の病気とは、内にある想いに気付き、苦痛により魂が目覚めて成長し、その想いを解放するためにあります。
あるがままの自分でいられ、成長して行けるようになるために、霊的な病気は存在すると考えられます。
表現されずに滞っている想いは、魂から精神、精神から肉体へと行き渡っている生命力の流れを、阻害しています。
滞っている想いがあるために、本来の自分の想いが表現しにくくなってしまいます。
魂を成長させるような、愛情を表現をしようとしても、成長を妨げている想いが内にあると、その影響を受けて出来にくくなります。
物質的な力では、霊的な病気は治せません。
霊的な病気を根本的に治すためには、想いを解放したり、生じさせないようにするしかありません。
想いを解放させるには、解放させる想いを向けるしかありません。
生じさせないようにするには、自分に想いを向けるしかありません。
その想いは、愛です。
おまじないのようですが、
鏡の中にいる自分に向かって、「あなたのことが大好き」と、言ってみて下さい。
出来事が起きた当時の自分の写真を見つめながら、「もう大丈夫だから」と、その時の自分を安心させるように声をかけて下さい。
毎日、続けていると何らかの変化があるかもしれません。
参考ページ: 「ガンは愛により癒される」
2017年4月10日月曜日
お母さんへ
僕が何か言ったら、またお母さんが悲しんじゃうかな
僕を思い出して泣くのはやめて欲しい
死んで、いなくなってなんかいないから
お母さんは自分を責めてしまっているけど、違うんだ
僕が死んだのは誰のせいでもない
お母さんのせいなんかじゃない
涙を流しているのを見ると、どうしても拭いてやりたくなっちゃうんだ
こうしてそばにいるのに分ってもらえずにいると、僕も結構苦しいよ
僕がこうして話すと、またお母さんは泣いちゃうんじゃないかな
とってもやさしいお母さんだからね
僕がどんな大人になるのか、とっても楽しみにしていたね
こちらでも、少しずつ大人になっているんだよ
学校みたいなところもあって、勉強もしているんだよ
みんなが僕が死んで悲しんでいるけど、本当にいなくなったわけじゃないから、その必要はないんだよ
お母さん、僕は死んでいなくなってしまったのではないんだ
いい加減、気付いてくれないと、僕も疲れちゃうよ
お母さんの子供に生まれてこなければ、もっと長生きして、幸せだったのにと思うのはやめてね
そう思われるのが一番悲しいよ
だって、それじゃ僕がお母さんの子供に生まれてきたのがだめみたいじゃない
そんなこと、あるわけないんだよ
みんな僕が選んだことだし、お母さんも知っているはずなんだよ
お母さんにどうしても伝えなくちゃいけないのは、お母さんは生きなければいけないことだよ
どんなに苦しくても
それが約束なんだよ
みんな約束して生まれて来ているんだよ
忘れちゃっているけどね
僕はこっちで待っているから、お母さんはそっちで頑張って生きなきゃいけないんだ
僕も約束を守っているから、お母さんも約束を守ってね
ちゃんとだよ
2017年4月2日日曜日
2つの自分
イタリアの天文学者であるガリレオ・ガリレイは、手作りの望遠鏡で星を観測していました。
木星をのぞいてみると、周りを回っている衛星の位置が、日によって変わっていました。
今度は、金星をのぞいてみると、季節によって見かけ上の大きさが、変化しているのに気付きました。
それまでは、地球を中心にして、天の星が回っていると、当たり前のように信じられていましたが、この2つの発見は、天の星ではなく、地球が動いていることを示す有力な証拠となり、ガリレオ・ガリレイは「地動説」を主張します。
しかし、その事実を見ていない人たちは、頑なに認めようとせずに、彼を異端者として扱い、宗教裁判にかけて終身刑を言い渡します。
かの有名な言葉である「それでも地球は回っている」を遺して、この世を去りましたが、真実が認められずに、どれほど悔しい思いをしたのか想像も出来ません。
魂が存在するか、しないのかは、長い間、論争されていますが、地動説に似ているような気がします。
目の前で証明して見せないと、人はなかなか信じようとしません。
証明されないものを疑うのは理解できますが、証明されないものを存在しないと結論付けのるは、あまりにも強引で、愚かであると思います。
それでは、天の星が地球を回っていると主張した、望遠鏡がない時代の人たちと同じような気がします。
生命が永遠かどうかは、残念ながら私には判りません。
けれども、魂は存在し、死の後にも生命が続いているは、確かなことだと思っています。
死後の世界や魂の存在が明確にならないのは、今生を精一杯、生きるためだと考えています。
この世の人は、肉体と精神と魂(霊)から構成されています。
誕生とは地上に出る瞬間ではなく、受胎時に魂が宿った瞬間であり、死とは肉体から魂が完全に分離した瞬間です。
どちらも、自然法則の働きにより起こり、偶発的なものではありません。
世の中には、死んで無になるのを怖がる人がいますが、全く心配する必要はありません。
人は死にたくても、死ねないのです。
なぜ、この世とあの世が存在するのか?
それには、生きている目的について知らなければいけません。
生きている目的は、自分(魂)を成長させるためです。
すごく簡単に言ってしまえば、より強く、より美しくなるためです。
どんな人でも、自分を成長させようという欲求があるので、成長できない状況になると苦痛として感じ、成長を促されます。
人は1ヶ所に留まらず、あの世とこの世を行き来しながら、常に成長して行くことが義務付けられているようです。
人生には、およそのシナリオがあります。
その目的は、効率良く、その人に合わせた成長をさせるためと考えています。
11年前、私の身に大きな出来事が起きました。
それ以前は、問題が起きると、頭を働かせて解決して来ましたが、その出来事はいくら頭で考えても解決できませんでした。
次第に絶望的な状況に追い込まれて行く中で、それまで眠っていた本当の自分(魂)が目覚めたようです。
それまでの私は、本当の自分(魂)に忠実に生きていなかったようです。
赤ちゃんの時は、魂がむき出しの状態ですが、神の摂理により、親などの他者により守られていたと思います。
大人になるのに従い、周りに順応して、自分(魂)を守るために、自分の中にもう1つの自分を作り上げて行ったと思います。
幼少の時に、他者により守られていた人は、守られているという安心感があるので、あえて自分を守ろうとはしませんが、守られていなかった人は、安心感が少ないので、もう1つの自分を強固に作り上げて、守ろうとしていると思います。
もう1つの自分が発達して来るのに従い、この世を上手く生きようとして、他人と迎合したり、本音と違うことを言ったりしてたと思います。
それを大人になったと勘違いしていたのかもしれません。
より安全で無難な方向を選んだり、社会的な地位や財産を求めているのも、もう一つの自分だと思います。
知らず知らずの内に、本当の自分は、もう1つの自分の影に隠れて行ったと思います。
出来事をきっかにして目覚めた本当の自分は、進むべき方向を指し示しました。
指し示した方向は、良心に従い、正直に生きようとするものでしたが、それは自分を窮地に追い込むものでした。
その先に、今まで経験のない苦難が待ち受けているのは明らかでした。
一方、前面に出ていたもう1つの自分は、本当の自分が指し示した方向とは真逆でした。
自尊心を守ろうとするものであり、苦難を避けようとするものでした。
その時、自分の中に2つの自分が確かにいました。
正直に生きようとする自分と、偽ってでも守ろうとしている自分がいて、せめぎ合っていたように思えました。
苦しい方向に進んで行くのは、もちろん抵抗がありましたが、それでも正直に生きたいと思い、そちらに進んで行きました。
自分に正直に生きるためには、もう1つの自分が追い求めていたものを捨てる勇気がなければいけないと思いました。
本当の自分は、正直に生きなければ後悔することを、知っていると思います。
良く考えてみると、過去に経験した出来事においても、いつも2つの自分がいて、せめぎ合っていたように思えます。
本当の自分が勝った時は、苦しい方向に進むことが多く、大変な思いもしましたが、相応の成長が得られていたと思います。
もう1つの自分が勝つと、楽で安全な方向に進み、一瞬の安堵を感じたかもしれませんが、成長させる機会を1つ失っていたと思います。
正直に生きようとする自分が、本当の自分であることに気付きました。
本当の自分は、留まることなく、成長しようとしています。
追い風の中ではなく、向かい風の中で生きることが、成長につながることも知っていると思います。
自分に正直に生きると、どうしても苦しく、つらい状況に追い込まれてしまうことが多いのは、神の摂理により成長する場が与えられていると考えた方が良いのかもしれません。
今まで知らなかった大切な真実と、苦難を乗り越え成長した悦びを、手に入れることが出来るのは、本当の自分の声に従って生きた時なのかもしれません。
もし私が、もう一つの自分の声に従っていたのならば、自分を守ることが出来て、失うものはなかったのかもしれません。
しかし、自分を偽ってまで、この世のものに捉われていたのを恥じることになると思います。
さらに、その出来事を通じて、もたらされる予定だった真実を掴み損ねたこと、成長の機会を失ったことに、強い後悔の念が生じるのは間違いありません。
この世の先に、あの世があります。
あの世は偽りのない、あるがままの自分が表現される世界です。
この世で作り上げた自分は、はぎ取られてしまい、本当の自分(魂)がむき出しになります。
オーラには、この世の想いや行いの全てが刻み込まれていて、光となって周囲に知れ渡ります。
そして、死んでしばらくすると、この世を振り返る時が訪れます。
自分に正直になり、勇気を出して進んで、それが成長につながっていたのを知って、悦びを味わうこともあれば、せっかくの成長の機会を逃してしまったのを知り、悔やむこともあると思います。
この世で、私たちはさまざまな出来事を経験しますが、その中には予定されていたものがあり、試されているのかもしれません。
あの世での後悔の念を消し去るために、この世にもう1度生まれて、同じような選択を迫られる出来事を経験している可能性があります。
今度こそは、自分に正直になり、苦難を甘受して、乗り越えて行くことを決意して、生まれて来たのかもしれません。
もし、自分の中に2つの存在がいることに気付いて、どちらに進もうか決断に迷った時には、覚悟を決めて、正直に生きる方向、自分を成長させる方向に進んで行った方が後悔しないと思われます。
2017年3月19日日曜日
霊的な視点から出来事を見つめる
今から約11年前のある朝、いつものように目覚めたら、身体に妙な感覚を覚えました。
左腕が、しびれていました。
真冬に身体が芯まで冷えた後にお風呂に入ると、温まって来るのに従い、手や足がビリビリしてきますが、それに近い感覚です。
歯医者と言う職業柄、首を傾けて口の中を覗き込むようにして治療をすることが多いため、頸椎から来る手のしびれかと思いましたが、どうも違うようでです。
肩から上腕、前腕、そして指先へと、何かがゆっくりと流れて行く感覚であり、一体、何が起きているのだろうと思いました。
すぐにインターネットで調べてみましたが、出た来た答えは「ヒーリング」でした。
そんな力の存在など知りませんでしたし、望んでいた訳でもありませんでした。
試しに、家族が胃痙攣を起こした時に手を当ててみましたが、軽快しました。
犬がびっこを引いていたので、手を当ててみましたが治りました。
とても驚きました。
私は理系の人間であり、科学に興味があったので、証明がされていない、いかがわしいものを信じる気にはなれません。
しかし、目の前で起きていることは疑いようのない現実であり、力の存在を認めざるを得ませんでした。
そのうちに、この病気を癒す力は何なのだろう? どうして自分から出るようになったのだろう?と思うようになりました。
その答えをどうしても知りたくて、質問は受け付けていないにもかかわらず、日本スピリチュアル・ヒーラーグループに電話をしてしまいました。
電話に出られた世話人の方に、「シルバー・バーチの霊訓」を読むことを、勧められました。
当時、私の住む町にはなかったので、東京の大きな書店まで買いに行き、早速、読んでみました。
期待に反して、何のことが書いてあるのか、さっぱり判りませんでした。
知りたかったヒーリングの力についても、霊的な覚醒のためにあると書かれていましたが、その意味が全く判りませんでした。
意味も判らずに、シルバーバーチの霊訓をパラパラとめくって読んでいる時に、一通のはがきが私の元に届きました。
仕事上の監督官庁からであり、疑義が発生したので、指導を行う旨が書かれていました。
この指導は、精神的な重圧がかかり、以前、自殺者が出て問題になったほどです。
けれども、私には後ろめたいことはしていないという気持ちがありましたので、軽く注意をされて終わるだろうと考えていました。
指導を受けましたが、予想に反して不正な事象が複数見つかり、それを指摘され、疑義が深まって行きました。
事態が深刻さ増す中で、シルバーバーチの霊訓を真剣に読むようになりました。
今、起きていることを通して、因果律の働きに、畏れを抱くようになりました。
そして、乗り越えられない困難は絶対に起きないというシルバーバーチの言葉が、生きる支えとなっていました。
約1年間、苦しく不安な日々の末に待っていたのは、最も厳しい処分でした。
これまでの人生で経験のない、挫折感、屈辱感、絶望感を味わいました。
その代わりに、霊的真理というかけがえのない宝を手に入れました。
人生の苦難や挫折は、大切な真実を知るための触媒になっていました。
ヒーリングの力が出始めて、まもない頃の話です。
ある女性の患者さんが、インプラント治療(あごの骨にドリルで穴を開け、金属を植え込んで、その上に歯を作る治療)を希望して来院しました。
手術当日、患者さんの待つ部屋に入ると、何か雰囲気が違っていました。
介助のスタッフが2人いましたが、その他に誰かいるような気配がしました。
当時は、霊の存在や導きなど信じていませんでしたので、気のせいだと思いました。
いつも通り、麻酔をして粘膜を切開してドリルで穴を開けて行きましたが、その時に、心の中で「もっと深く」と、何者かがささやいていました。
何で?と思いましたが、何故かその声に従い、もう少し深くドリルで穴を開けていきました。
すると、骨を削る抵抗は消え、5mm位深いところまでドリルが到達してしまいました。
一瞬、何事が起きたのだろうと考えましたが、予定通り金属を埋入して、手術は終了しました。
翌日は休日でしたが、手術をした患者さんから、自宅に連絡がありました。
あごの麻酔がまだ切れないと、心配されていました。
その瞬間、昨日起こったことが、ようやく理解できました。
骨を削る抵抗が消えた時に、あごの中を通っている神経を、ドリルで損傷してしまったのです。
初めての経験であり、茫然としました。
後日、来院した時に、患者さんに状況を説明し、陳謝すると共に、回復の手段を講じようと思いました。
もしかしたら、左手から出始めた力が、症状を緩和してくれるかもしれないと期待しました。
簡単に説明をしたところ、了解していただけたので、休日に患者さんの自宅にお伺いして、ヒーリングをすることにしました。
始めてすぐに、患者さんはとても気持ちが楽になってきたと、興奮気味に言っていました。
時間にして数十分でしょうか、ヒーリングが終わった後に、しびれているところの具合を聞きましたが、残念ながら変化はありませんでした。
数日後、その患者さんから連絡があり、あごのしびれは相変わらずだが、持病の不整脈がなくなったと言われました。
自分としては、しびれが無くなって欲しかったのですが、その代わりに、予想もしていなかった病気が癒やされていました。
それからしばらくして、患者さんから連絡があり、実家の家族にヒーリングをして欲しいと頼まれました。
実家のお母さんは、40年来の不眠症に苦しまれていました。
妹さんは気功による施術をしていましたが、患者さんから邪気を受け取ってしまい、心身の状態が思わしくないと言うことでした。
お役に立てるのならと、東京にある自宅に向かい、ヒーリングをしました。
お母さんは、ヒーリングをしている時に、幻覚が視えるほどの不眠症に苦しんできたと、話されていました。
続けて、妹さんに行いましたが、ヒーリング時に流れてくるのは、気功のような粗削りなものではなく、やさしい力だと言っていました。
ご両親は、上の階に住んでいる息子さんにも、ヒーリングを希望されました。
息子さんは、脳こうそくで若くして倒れ、一命は取り留めたものの植物状態になり、若く綺麗な奥様
が、付きっ切りで看病をしていました。
非可逆的な神経の損傷に対して、効果は期待できないのは判っていましたが、数十分間、ヒーリングを行いました。
その時に、口がきけぬ息子さんの、奥様への感謝の想いを感じ取りましたが、確信がなかったので伝えずに帰ったのが、今でも心残りになっています。
後日、患者さんから、お母さんはぐっすりと眠れ、妹さんの体調も改善したと報告を受けました。
息子さんの植物状態は変わらないものの、妹さんと同様に不整脈が消えて、医師であるお父さんは心電図を見ながら不思議がっていました。
少しはお役に立てたと思い、うれしくなりましたが、今度は自分の医院に来ている患者さんに、ヒーリングをして欲しいと申し出がありました。
診療室に赴くと、かなり重い精神障害があると思われる少年と、ご両親がいました。
見た目に少し怖さを感じましたが、腕に手を置いてヒーリングをしました。
その時、変化は何もありませんでしたが、2回目のヒーリングの時に、引きこもり状態から、家族で一緒に食事ができるようになったと、ご両親が大変喜んでいました。
次に、自力で歩けないため、移動できる椅子に座ったまま、80代くらいの女性が、妹さんに連れて来られました。
ヒーリングをしている時に、今までの人生についてお話をされていましたので、お聞きしながら、数十分間行いました。
心身が楽になり、元気が出たのでしょうか、歩いて帰ることができました。
そして、ヒーリングをしたお母さんですが、表情を拝見したところ、目が輝いて、とても明るくなり、何かが変わったように感じられました。
ヒーリングは、もちろん心身の病気を癒すために行います。
しかし、真の目的は霊的覚醒にあります。
外からは判りませんが、この一連のヒーリングによって、本当の自分が目覚め、本来の生き方を取り戻せた人がいたとしたら、これ以上うれしいことはありません。
今でも考えるのですが、手術中に心の中でした声は、誰だったのか?
これまで数多くの手術をしてきましたが、同様の事象が起きたのは、この1例だけです。
勿論、あってはならないことであり、医療を施す人間として、強い自責の念にかられ、反省する日々が続きました。
麻痺が起きた患者さんに、私は訴えられても良いはずです。
しかし、逆に感謝されました。
その上、仕事で大変な状況にあるの知って、親身になって相談に乗ってくれました。
どう考えてみても、あり得ないことです。
2度と同じ経験はしたくありませんが、霊界の働きかけとしか考えられません。
この世の人のつながりを、霊界が十分に把握した上で、私が選ばれたのかもしれないと思いました。
霊界で立てられた小さな計画が、地上の人に遂行されたと、今は考えています。
シルバーバーチは、訪ねて来た人は、魂が重大な局面を迎えている可能性があるので、決して拒んではいけないと、繰り返し言っています。
訪ねて来た人は導かれているのであり、その背後にも、魂が癒やされる時が来ている人が、控えているかもしれないと思いました。
私の身に起きた、この2つの出来事は、出来れば避けたいものでした。
他の人から見れば、不運な出来事であり、わざわい以外の何者でもありません。
良い意味など、どこにも見つけられません。
霊的な視点から、起きた出来事を見ると、様相は一変します。
1つ目の出来事がなければ、私の眠っていた魂は目覚めず、崇高な霊的真理は受け入れられなかったと思います。
そして、2つ目の出来事が起こらなければ、ヒーリングをした人との接点はありませんでした。
人の窺い知れない絶妙なタイミングで、因果律が作動すると共に、霊界からの働きかけがあると信じています。
霊力の通路になっている人と、霊力を受けるべき人を結ぶための導きが、随所で行われていると思います。
人は、偶発的な出来事、偶然の出会いなどと片付けてしまいがちですが、実際は、目に見えない存在から、導きを受けた結果であることが多いと思います。
人の本質は、肉体ではなく魂です。
魂を成長させる、言い方を変えれば、自分を成長させるために、この世に生まれてきています。
人として、過ったところ、弱いところがあるので、さまざまな出来事を経験して、真実を学び、魂を鍛錬する必要があると、自ら判断してこの世に生まれて来たはずです。
苦痛を伴う出来事が起きるのは、その経験を通して、自分の過ちに気付くためだと思います。
困難や障害が立ちはだかるのは、必死に乗り越えて、魂を大きく成長させるためだと思います。
全て承知していたはずですが、いざ生まれてしまうと、楽しく、苦のない人生を望んでしまいます。
けれども、安楽な人生では、生まれて来た目的が成就されず、大きな成長は望めなくなります。
本当の自分(魂)が目覚めるのは、嵐が吹き荒れる中であり、真っ暗闇の中です。
人生のどん底の時です。
絶対に起きて欲しくない出来事であっても、魂を目覚めさせるという、霊的な目的があります。
いったん目覚めると、それからは自分を成長させる方向に進んで行くようになります。
突然の事故や病気に思えても、大きな意味が隠されています。
その意味が判らないと、悩み、苦しんでしまいます。
悩み、苦しみから逃れたいので、必死になって意味を見つけようとします。
見つけ出したものが、その出来事に隠されていた真実です。
真実を見つけ出した時に、悩み、苦しみから解放されます。
価値のある真実は、悩み、苦しみなしには手に入れられません。
この世界は、お互いの魂を成長させ、真実を学び取るためにあり、そのために必要な出来事が、自然法則に則って起きるようになっています。
不公平、不公正、偶然の出来事は、一切存在しません。
そのことは、死んだ後にはっきりと判りますが、なるべく早く気付くのに越したことはありません。
起きた出来事の意味を知るのには、霊的な視点から見つめなければいけないと思います。