人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2016年10月30日日曜日
不治の病について その2
人は、肉体と精神から成り立っているのではなく、精神より高次に魂(霊)が存在しています。
肉体と精神と魂が、緊密に連携して、自己表現しながら人は生きています。
病気の原因は、肉体、精神、霊のそれぞれの次元に存在しますが、現代医学の対象となっているのは肉体です。
肉体的次元に原因がある病気は、現代医学でも治癒させることが可能です。
しかし、精神的、霊的次元に原因がある病気は、病変を切除しても、薬を飲んでも、それは対処療法に過ぎません。
精神的、霊的次元の原因が解消された時点で、根本的な治癒が望めます。
外科的処置や薬で治らない病気の多くは、霊的次元に原因があると思われます。
霊的次元に原因がある病気にも、いくつかの種類があると考えられます。
1つ目は、前世での過ちが原因で、その償いのために病気になる。
もしそうであれば、過ちに見合った苦痛を味わったのならば、病気は治癒すると考えられます。
2つ目は、魂の成長のため、大切なことを学ぶために、病気になる。
もしそうであれば、魂が成長し、大切なことに気付いた時点で、病気の苦しみから解放されると考えられます。
3つ目は、決められた時期に向こうの世界に行くために、病気になる。
もしそうであれば、いかなる手段をもってしても、この世に留まることは出来ないと考えられます。
以上の3つは、この世に生まれる前に、予め決められていたことであり、医学的処置を試みたとしても、無効と思われます。
それとは別に、この世に生まれてから(霊的な)原因が生じて、病気になることがあると思います。
その原因とは、過去の出来事から生じていた想いと、私は考えています。
生じた想いを上手く表現できなかったために、内に滞り、肉体上に病気を生じさせてしまったと考えられます。
社会に生きる私たちは、法律という決まりを守りながら生きています。
破ると罰せられますが、見つからなければ咎められることはありません。
宇宙全体を自然法則が支配して、秩序が保たれています。
法則は休みなく厳格に働いていて、万物はその支配から逃れることはできません。
万有引力の法則は、物質に働く自然法則の1つです。
同様に、目には見えない霊(魂)に働いている、自然法則が存在すると思います。
神は独立した存在ではなく、全てに宿り、法則として顕現しています。
魂(霊)は、神の一部であり、神とつながっています。
神の心は、無限の愛です。
人や社会のために生きようとする欲求が起きるのは、魂が神の心を表現しようとしているからです。
良心の呵責が起きるのは、神の心に反することを、魂が知っているからです。
人は食物から栄養を摂取して生きているように見えますが、それは肉体に限った話であり、人の本
質は目に見えない魂であり、神から生命力を受け取って活動しています。
その受け取った生命力により、魂は活動し、そこから想い(思念)が生まれています。
人の言動の全ては魂に刻まれていて、死後に全人生を振り返る時が訪れます。
言動の1つ1つに、自然法則が働いて、相応の結果がもたらされます。
言動の元になっているのは、魂から生まれている想い(思念)であり、その1つ1つにも、自然法則は働いて、相応の結果をもたらすことになります。
想いには、自然法則に適った想いと、反した想いがあります。
自然法則に適った想いとは、神の心を表現しようとする想いであり、一言で表現すれば愛です。
愛を表現することで、全体が進歩し、調和が生み出されます。
自然法則に反する想いとは、愛に反する想いです。
愛に反する想いを表現すると、進歩が停滞し、調和が乱されます。
愛に反する想いとは、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬などであり、人生で起こる出来事を認めたり、許したりすることが出来なかったために生じています。
しかし、表に出してしまうと外部との調和が乱されるので、精神(自我)の力で、その場で抑え込んでしまう時が多いと思われます。
抑え込んだ想いが溜まると、身体に良くないのを本能的に知っているので、早く外に出そうとします。
俗に言う、ストレス解消とは、内に溜まった想いを外に出す作業と考えられます。
運動したり、趣味に没頭したりすると、溜った想いが別の肉体的表現と共に、外に排出されると考えられます
何かを夢中になってしている時は、魂から精神そして肉体へと、間断なく(生命)力が流れているために、滞った想いが同時に外に出されると考えられます。
川に淀んだところがあっても、上流に雨が降り、水が勢いよく流れれば、一緒に押し流されてしまいますが、それと同じです。
肉体的表現をすることで、想いを外に出そうとする行為は日常的に見られます。
昼下がりのレストランに行くと女性の客が、途切れることなくしゃべり続けている光景を目にしますが、人に伝えたいことが、たくさんあると言うよりも、吐き出したい想いがたくさんあり、しゃべり続けていると思う時があります。
仕事帰りに同僚と酒を飲みに行く男性は多いのですが、職場で溜まった想いを、酒の力を借りて、吐き出し合っていると思います。
吐き出してすっきりするは、想いは内に溜めてはいけないからだと思います。
想いは、肉体的表現の元となる力であり、外に向かって表現され発散されるべきものと考えられます。
溜まった想いが弱いものであれば、自力で外に出すことは可能です。
しかし、強い想いであれば、ストレス解消と言われるようなもので、外に出すことは出来ません。
残念なことに、多くの人は精神(自我)が優位になり生きているので、溜まっている想いに気付くことが出来ません。
生きるための力(生命力)の源泉は神であり、それを魂が受け取っていて、精神で肉体を動かす指令に変換され、肉体が動いて、外に向かって表現されて完結していると考えられます。
(神→魂→精神→肉体の順に力が流れて、肉体により表現されることで外に放散される)
しかし、魂で生まれた想いが、精神(自我)でブロックされてしまうと、内部に想いが溜まってしまうと考えられます。
(神→魂→精神で止まってしまっていまい、想いと言う力が内部に蓄積されてしまう)
滞っている想いがあると、自分本来の想いを表現しようとする力の流れを、妨げてしまうと考えられます。
(神➡魂➡精神→肉体)
想い
内部に溜まった想いにより、本来の自分の想いが外に表現されない状態が続くと、因果律の働きにより、溜まった想いが内部を変化させる力に変わると考えられます。
(神→魂→精神
想い→肉体の変化(病気) )
自然法則に反した強い想いが溜まっていると、自分本来の想いを表現できなくなるために、予定されていた人生のシナリオに沿った、魂の成長が出来なくなると考えられます。
自分(魂)を成長させることが、この世に生まれてきた目的なので、どうにかして溜まった想いを解放させなければいけません。
自分で気付かず、自力で解放できないほどの想いであれば、因果律の働きにより、心身の病変や機能障害となって外部に現れ、五感で認識されるようになると考えられます。
つまり、不治の病とは霊的次元に原因がある病気で、肉体の変化(病態)は表現できなかった想いの反映と考えられます。
病気には苦痛が伴います。
苦痛は異変があることを自覚させるものであり、多くの人は医者の力を借りて、異変を見つけ出して、肉体上からなくそうとします。
しかし、医者は肉体上の異変を診断し、取り除き、身体的症状を緩和する治療に終始するだけであり、霊的な原因を解消しない限り、根本的な治癒は望めません。
霊的な病気は、意味もなく人を苦しめるためにあるのではありません。
内にある想い、魂のありさまの変化に気付くために生じていると考えられます。
病気の苦痛には、魂を目覚めさせるという大きな目的があり、目覚めるとそれまで自分を支配していた自我(エゴ)が自壊すると思われます。
そして、自我(エゴ)によって隠されていた、自分の想いに気付くことになると思います。
よって、霊的な病気は、自我(エゴ)に隠されていた自分の想いに気付くためにあり、自我(エゴ)と言う障壁がなくなり、心が鎮まった時に、外に現れてくると考えられます。
現れてきた想いは、言葉で表現できない、自分の成長を妨げていた想いです。
けれども、肉体のことばかりに目を向けていると、内面に意識が向かず、表に出てきた想いに気付けなくなってしまいます。
また、病気に怯えていると、不安や恐怖が想いを覆い隠してしまいます。
霊的な病気を治すための第一歩は、自分の内にある想いに気付くことだと思います。
ガンの患者さんであれば、怒りや憎しみや恨みなど、他者を攻撃して壊そうとする衝動を生み出す想いかもしれません。
膠原病の患者さんであれば、自分を責める、卑下してしまう想いかもしれません。
うつ病の患者さんであれば、不安や恐怖、萎縮させ行動を抑制させる想いかもしれません。
注意しなければいけないのは、内に隠されていた想いが表に出てきた時に、病気になって生じた想いと混同することです。
膠原病になれば、人に迷惑をかけてしまうので、自分を責めてしまいがちになりますが、過去に自分を責めてしまうような強い想いが生じていて、それが外に出て来ているだけかもしれないのです。
ヒーリングは、滞った想いを引きはがし、解放させる生命力です。
しかし、魂が成長していなければ、滞っている想いと親和性が強いために、ヒーリングをしても解放することができないと思われます。
病気を心から受け入れ、苦痛により魂が成長し、想いが親和性を失ったならば、内面的な異物となり解放されるはずです。
想いを生じさせた出来事を、許すことが出来るほど魂が成長したならば、解放されるはずです。
魂が成長して、愛で満たされているならば、想いは親和性を失い、解放されるはずです。
神の愛が円滑に流れて表現できるようになったのであれば、病気の存在意義はなくなり、肉体上の病変や機能異常は消失するはずです。
我を忘れて、愛を表現することを続けていたなら、滞っていた想いは解放され、それに伴って肉体上の病気も消失するはずです。
人や社会のために、何かを夢中にしていると、生命力がふんだんに魂に流れ込むと思います。
その時に、魂から生じる想いも、愛を帯びていると思います。
愛を帯びた生命力の大きな流れは、魂に癒着した想いを引きはがして、外に出すと考えられます。
愛の表現は魂を成長させ、想いは親和性を失って、解放されると考えられます。
過去にどうしても許せなかった、受け入れることが出来なかった出来事があり、そこから自分の成長を妨げる想いが生じていて、その想いに気付くために、病気になったのであれば、許せなかった出来事を許し、受け入れられなかった出来事を受け入れたなら、その想いは存在理由を失い、解放されるはずです。
解放するためには、魂の成長が必要であり、病気になり苦痛を経験する必要があったと思われます。
成長とは、より高く、大きい愛を表現できるようになることであり、神の摂理に反する想いが生まれなくなって行く過程のことです。
魂の成長の一過程として、病気が存在します。
霊的次元の想いを解放するための触媒が、(今生に原因がある)不治の病の正体であり、自分本来の想いを表現するためにあると考えられます。
医学では治せませんが、治らない病気ではありません。 《続く》
2016年10月16日日曜日
不治の病について その1
自分とは何でしょう?
鏡に映る肉体が、自分なのでしょうか?
そうではない、目に見えない精神こそが自分だと言う人もいるでしょう。
実際は、精神よりも高次に魂(霊)が存在しています。
人は魂(霊)と精神と肉体から構成されています。
多くの人は死んで肉体を失ってから真実を知りますが、本当の自分とは精神と肉体を支配している魂です。
霊的真理では、すべての事象に偶然はなく、必ず原因があると言っています。
全ての病気にも、当然のことながら原因があるということになります。
もし、病気の原因が判らなければ、最先端の医学をもってしても根本的に治すことはできません。
魂(霊)、精神、肉体、それぞれの次元に、病気の原因があると考えられます。
例えば、感染症は細菌やウィルスなど肉体(物質)的次元に原因がある病気です。
肉体的次元の病気の原因は、医学的検査で確認できるので、それを取り除けさえすれな、治癒する可能性は高いと思われます。
精神的次元に原因がある病気として、うつ病やストレス性胃潰瘍などがあります。
うつ病に対して薬を飲んでも、精神ではなく肉体(脳)に作用するだけであり、症状は軽くなっても、治癒は望めません。
また胃潰瘍で病変を切除しても、原因がそのままであれば再発の可能性があります。
精神的次元に原因がある病気の多くのは、ストレスがなくなれば自然治癒力により快方に向かうと思われます。
現代医学により、肉体的次元の病気を根本的に治癒させることが可能ですが、精神的次元の病気は原因が同定されにくいので、治癒させるのが困難と思われます。
霊的次元に原因がある病気はどうでしょうか?
医学は、霊の存在を完全に否定しています。
世界中で人々を苦しめているガンや膠原病などの原因は、以前として不明のままであり、対処療法に終始しています。
その理由は、霊的次元に根本原因があり、現代医学の対象外だからです。
人の本質は不滅の魂であり、この世の前にも生があり、この世の後にも生は続きます。
霊的次元の病気には、この世で原因が生じたものと、生まれる前に原因が生じたものに分けられると考えられます。
生まれる前に原因が生じたものとして、過去世において神の摂理に反した想いを強く抱いたり、過ちとなる行いがあったと考えられます。
その償いとして、この世で病気になることを承知して、生まれてくることがあります。
過去世に原因があった場合は、罪の償いが終わった時点で、病気の役割は終わり、治癒に向かうと思われます。
また、さらなる魂の成長を望んで、あえて病気になる人生を選ぶ場合もあります。
そして、この世からあの世に移るために、決められていた時期に病気になる人もいると思います。
いづれにしても、生まれる前に自分自身で決めていたと思われます。
同じ病気でも、霊的次元の原因は人によって異なりますが、それぞれに明確な目的があるのは確かです。
この世で原因が生じた人には、過去に起きた出来事が深くかかわっていると思われます。
過去に起きた出来事から、さまざまな想いが生まれていて、それが根本原因になっていることが、多いと考えています。
人は悲しくなったら涙が出て、喜びを感じたら笑顔となります。
魂から生じた想いは、精神を経由して、肉体で表現されています。
それが無意識に繰り返され、日々を過ごしています。
しかし、この世ではいつでも自分の想いを表現できる訳ではなく、つらい出来事が起きても、想いを押し留めて、外に表さない時もあります。
子供の頃は、心(魂)が傷つきやすいと言われます。
それは、「自我」と言う自分(魂)を守っている精神の鎧が、まだ脆弱だからと考えられます。
幸いにして、子供は守られる立場にいるので、傷つけようとする人はあまりいません。
大人の場合は、自我が発達し、自分を守ろうとしているため、子供より深く傷つくことは少ないと思われます。
傷つけられ、魂から想いが生じたとしても、怒りや悲しみなどの感情となり、言葉や行動にして、外に表現することで解放していると思います。
しかし、子供は自分を守ろうとする自我が発達していないために、無防備であり、容易に傷ついてしまうと考えられます。
そして、幼なければ想いが生じても、上手く言葉や行動で表現して、外に解放することができません。
想いは表現されずに、心の中に滞ってしまいます。
もし、子供を守るためにいる親が、自我が形成されていない子供に対して、傷つける言動をしていたらどうでしょう?
その傷は、とても深いところまで達し、強い想いが生じていると考えられます。
この世では、想いは五感に触れるものではありません。
しかし、霊的次元では実在そのものです。
一種の力です。
その力が、肉体で表現する力に変換されています。
表現されて、外に出されない限り、想いはなくなりません。
肉体で表現されるべき力が、残っていることになります。
表現されない想いが徐々に溜まって、大きくなってしまうと、その人の生き方や考え方に、影響を与えいると考えられます。
本当はやりたいのに、ためらってしまうことがあれば、心の中に何らかの想いがあるためだと思います。
人に優しくしてやりたいのに、なぜか出来ないのは、それを妨げている想いがあるからだと思います。
この世に生まれて来たのは、魂(自分)を成長させるためです。
そして、人生にはおよそのシナリオがあり、それに沿って生きれば、予定通りの魂の成長が得られると考えられます。
魂の成長は、困難や障害を乗り越えて行くこと、人や社会に奉仕することで得られます。
しかし、魂を成長させる機会がシナリオに従って訪れても、妨げる想いが溜まっていると、自分の気持ちに反して、出来なくなってしまいます。
そうなると、予定されていた魂の成長が得られなくなってしまい、生まれて来た意味が成就されなくなってしまいます。
想いが溜まっているのは、霊的にとても大きな問題と考えられます。
しかし、そんな想いがあるなど、ほとんどの人は気付くことはありません。
肉体は魂を表現する媒体です。
表現できなかった過去の想いは、肉体上で別のかたちとなって表現される時があると思われます。
成長を妨げている想いに気付くために、神の摂理である因果律が働き、肉体上に病変や機能異常となって現れることがあります。
もし、憎しみや恨みの想いの沸き上がったなら、人はどう行動するでしょう?
相手を攻撃したりすることもあると思いますが、多くの人は、神の摂理に反するので、良心により思いとどまります。
もし実行してしまったら、因果律の働きにより、苦痛を伴う出来事になって自分に戻ってきてしまいます。
良心により思いとどまり、表現できなかった想いは、肉体を変化させる力になり得ると考えられます。
ガンは、周りの組織を破壊しながら増大していく病気です。
自己との協調や調和がなく、破壊的で、攻撃的な組織です。
表現できなかった想いは、肉体上の病態となり表現されていると思われます。
きっかけとなる出来事があって破壊的で攻撃的な言葉にならない想いが生じ、その後、それを想起させる出来事を経験しながら、その想いが次第に増大していったと思われます。
膠原病は、自己を守るためにある免疫機能が、自己を外敵と誤った認識して攻撃してしまう病気です。
自分(魂)を守るためにある自我が、自分を攻撃している、魂の様相を表現していると思われます。
自分で自分を責める想いが生じ続けているために、肉体上で自己を自己が責める病態となって表現されていると思われます。
霊的次元に原因がある病気の人の中には、子供の時に、魂にまで及ぶ深刻な出来事があった可能性があります。
そんな出来事が思い当たらないとしたら、日常的に想いを生じさせるような生活を送っていた可能性があります。
日々の関係の中で、抵抗する想い、自分を責める想い、生きるのを否定する想いが生じていたのに、幼いために表現できずに、押し殺して生きてきたのかもしれません。
伝えたいことが有り余るほどあったのに、伝えられなかったのかもしれません。
どうしても自分の想いを知ってもらいたかったのに、知ってもらえなかったのかもしれません。
絶対にやめて欲しいことがあったのに、それに気付いてもらえなかったのかもしれません。
大小の想いが、少しずつ溜まって行き、徐々に大きくなって行ったと思います。
気付かずに大きくなり、その後の人生に影響を与えていて、魂の成長を妨げていたと考えられます。
自分では想いに気付けないので、因果律の働きで、気付くかたちとなって現れたものが、霊的な病気と考えられます。
霊的な病気になったのであれば、想いに気付き、解放する時期が来ている可能性があります。
不治の病とは治らない病ではなく、医学で原因が掴めていない病であり、そのほとんどに霊的な原因が存在すると思います。
今生での原因とは、過去に生じていた、表現されなかった想いと考えられます。 《続く》
2016年10月2日日曜日
天国に1番近い場所 ~御巣鷹の尾根に立って~
9月25日は天気が良かったので、一人でドライブに出かけました。
ドライブをしている時は、日常の雑事を忘れて無心になれるので好きです。
自宅から1時間も走れば、とても静かな山深い場所まで行けます。
その日は、ねぎとこんにゃくで有名な下仁田という小さな町を抜けて、日本一高齢化率が高い南牧村を通り過ぎ、さらに峠を1つ越えて上野村に向かいました。
群馬県上野村は、稜線から日が出るのが10時頃で、4時頃には日が沈むような、ぐるっと周囲を山に囲まれた、人口が千数百人の緑豊かな山村です。
ご存じの人も多いと思いますが、上野村は31年前に日航ジャンボ機が墜落した場所です。
この事故で、520名の人が亡くなりました。
31年前、私は歯科学生であり、歯科医の父親に同伴して、ご遺体の身元確認作業を手伝いました。
その時の記憶は、今も鮮明に残っています。
そんないきさつがあり、いつかは御巣鷹の尾根に登ってみたいと思っていました。
御巣鷹の尾根は、上野村の集落がある場所から、十数Km山に入ったところにありますが、思い切って行くことにしました。
事故当時の尾根の様子は凄惨を極め、墜落の衝撃で木々はなぎ倒されて、山肌がむき出しになり、機体が山の斜面に、ばらばらに散乱していました。
そこで、一瞬にして520名の魂(霊)が肉体を失いました。
あまりに突然の出来事で、何が起きたのか判らずに、事故現場に留まっていた魂(霊)も、多かったと思います。
もしかしたら今でも、そんな魂がいるのではないかと、ふと考えてしまいました。
一本道をしばらく走っていると、道は行き止まりになっていて、駐車場がありました。
そこに車を留めて降りると、奥の方に登山道の入り口があるのを見つけました。
入り口には、貸し出し用の杖が何十本も置いてあり、温かな心遣いを感じました。
登山道は階段状に整備されていて、ゴミひとつ落ちていません。
渓流沿いに道が作られていましたが、流れている水は透き通っていて、本当に綺麗でした。
河のせせらぎを聴きながら山道を登って行くと、道端に石碑が目に留まりました。
その一文に「なにか流れが私達にかたりかけ、登山を励ましてくれているような気がしました」と、書かれていましたが、私も同じように感じました。
思っていたよりも急な箇所もあり、年配の人や身体が不自由な人には厳しいと感じました。
年を取られて慰霊登山が難しくなり、代わりに子供や孫に行ってもらう人が多くなってきているようです。
道は途中から急になり、富士登山道のようなつづら折りになりましたが、脇に目をやると木の札が置いてあり、そこに名前が書かれています。
良く見るとそれは墓標で、この場所でご遺体が見つかったのであり、今、墜落現場の上にいることを実感しました。
周囲には背の高い木々が生い茂っていて、事故からの年月の長さを感じました。
そこから少し登って行くと急に視界が開け、周囲の山々が見えました。
広さ20畳ほどが平らに整地され、いくつかのベンチも置いてあります。
右手上を見ると「昇魂の碑」が見えましたので、ようやく目的地に到着です。
あの凄惨な現場を思い出すようなものは、一切見当たりません。
その場所に立ち、恐怖や悲しみを感じさせるものは、全くありませんでした。
ご遺族には、大変失礼な言い方かもしれませんが、ただ清々しさを感じました。
天気も良かったのですが、とても明るい場所だったのです。
山の奥深くにあり、俗世間とは切り離されていますが、入り口からこの尾根まで、何かに清められている感じがしました。
ここは、多く命が絶たれた事故現場と言うよりも、この世の想いとあの世の想いが交わる、聖地のように、私には思えました。
何十年も、この場所で強い想いが交わることにより浄化されて、現世利益を願う人が集う神社仏閣よりも、はるかに神聖な場所のように思いました。
ご遺族の方は、この場所に立ち何を想っているのでしょうか。
「逢いに来たよ」と、声をかけている人が多いようです。
その想いに、亡くなった人の魂は引き付けられないわけがありません。
この場所で亡くなった人の魂と、ご遺族の魂が、触れ合っていると思いました。
聖別された空間なので、亡くなった人の想いを、どこよりも感じることができるのかもしれません。
当然のことながら、事故から数年の間は、この場所には涙が絶えなかったと思います。
あまりの理不尽さに、怒りや悔しさや嘆きをぶつけてしまう人も、たくさんいたと思います。
その日まで元気に生活していた人が、突然いなくなってしまうのですから、当然です。
内に溜まっていた、言葉では言い表せない想いを、涙にして、ここに出しに来る人も多かったでしょう。
想いが清められ、そして鎮められて、心が楽になった人もいたでしょう。
そんな見えない愛の力が、この場所には降り注いでいるような気がしました。
言い尽くせぬ想いを伝えて、そのお返しにあの世からの見えない力(愛)をもらって、元気になって山を下りて行った人もたくさんいるのではないでしょうか。
愛する人は見えないかたちとなり、生きているのですが、この世の人は五感を頼りに生きているので、いなくなってしまったと錯覚してしまいます。
見えなくなったのは事実ですが、いなくなったわけではありません。
事実誤認をしている限り、悲しみや苦しみが変わることはないのかもしれません。
愛情で結ばれていない人が亡くなったとしても、深い悲しみが生じることはありません。
そう考えると、悲しみとは、行き場を失い、かたちを変えた愛なのかもしれません。
悲しみがかたちを変えた愛ならば、見えない人の存在を信じ、愛せるようになったのなら、その分、悲しみが少なくなるのかもしれません。
愛が悲しみに変わるのであれば、悲しみが愛に変わってもおかしくありません。
今は、ご遺族の方々に、かつてのような深い悲しみはないようです。
31年の時が流れが、あの時の記憶や想いを薄れさせただけではないはずです。
引き裂かれた悲しみ、身悶えるような苦しみの日々は、魂を大きく成長させていたのは、間違いありません。
魂の成長と共に、深い悲しみが、高い次元の愛に昇華していったのかもしれないと思いました。
昇魂の碑のすぐそばに、写真や手紙など、ご遺族が持ってこられた品々が収められている小屋がありました。
中に入ると、中学生のバレーボール地区大会で優勝した賞状が置いてありました。
ここに来て、いろいろな嬉しい、楽しい報告をしているようです。
報告を聞いて、亡くなった人はとても喜んでいるでしょう。
そんなうれしい報告をする人が今は多いので、この場所を明るく感じたのかもしれません。
待ちに待った再会を果たした人も、年月と共に増えているようです。
ご遺族にとってここは、愛する人がいる天国に、一番近い場所だと思いました。
参考ページ: 「その一瞬の時のために強く生き抜く」