2016年5月16日月曜日

霊的な意図を感じ取る



少し前の私は、死ぬのが怖かったです。

意識が消えて、無になってしまうと思っていたからです。

今は、死んだ後にも変わらず意識があり、あの世が続いているのが判っていますので、安心して生きられるようになりました。



若い時に 、思い悩んでいたことがありました。

人は何のために生きているのかが、判らなかったからです。

今は、さまざまな経験を通して学びながら、自分(魂)を成長させるために生きていることが、はっきりと判っています。



私は54歳なので、あと30年位は生きるでしょう。

この世での目的を無事に果たせたならば、死の扉を開けて、次の世界に進んで行くことが出来ます。

その時に、微笑みながら、この世に別れを告げられたらいいなと思っています。



多くの人たちは、物的に豊かで、できるだけ長く生きる人生を理想としているような気がします。

裏を返せば、物的に貧しく、短命であれば、不幸な人生と決め付けているのかもしれません。

しかし、それは明らかに間違っています。

お金や物など物的な豊かさは、死んでしまえば失われてしまう一時的なものです。

永続的な価値を持つのは、目に見えない霊的な豊かさです。

他者に愛を表現し、社会に奉仕をして身に付けていくものであり、それは魂の財産となり、死後も失われることはありません。



この世を早く去った人を、多くの人は哀れみますが、その必要はありません。

昔、学校で先生から課題が与えられて、済んだら終わりにして良い言われた時のことを思い出します。

勉強ができる友達は、さっさと済ませて、校庭に出て楽しそうに遊んでいました。

外に出て遊んでいる友達は、教室に残って課題に取り組んでいる私たちの様子を見て、頑張って課題を仕上げて、早く一緒に遊ぼうと思っていたでしょう。

死とは、肉体と言う重い鎧を脱ぎ捨て、自分本来の姿に戻ることであり、この世から次の世界に移行する自然現象です。

早く亡くなった人は、早々と課題を済ませ、校庭に出て行った羨ましい人であり、この世に残って課題に取り組んでいる人たちを見て、傍で応援しながら、あたたかく見守っていると思います。

長い時間をかけて、この世で学ぶ必要がなかった、言わば魂の特待生で、飛び級でこの世を卒業していったのかもしれません。



この世の人たちは皆、同じ課題を与えられ、同じことを学ぼうとしているのではありません。

学ぶべきものは、人それぞれ違っています。

学ぶものが違うのであれば、与えられた課題も違い、当然ながら辿る人生も違ってきます。

従って、他人の人生と、自分の人生を比較するのは、大きな間違いと思われます。

落ち込んだり、羨ましく思ったり、時に妬んでしまうと自分がつらくなってしまうのは、人と比べること自体が、神の摂理に反しているためと思います。



楽しく遊んで暮らせる人生が幸せであり、苦難の多い人は薄幸な人生と思われがちです。

学校で、遊んでばかりいた人と、苦労をして学んできた人では、後で笑うのはどちらでしょうか?

人生も全く同じであり、楽しく遊んでいる時には学ぶものはなく、苦難に立ち向かっている時に大切なことを学んでいます。

苦しんでいる最中には、生きるのに精一杯で判らないかもしれませんが、後に待ち受けている「この世の総括」で、大きく成長していたのがはっきりと判り、微笑むでしょう。

苦難を乗り越えて行くことで自分(魂)は成長し、大切な真実を手にするように、自然法則は出来ています。



私の知っている限り、あの世はこの世より、はるかに自由で快適な世界です。

あの世に行った人たちは、この世に残っている人たちを見て、同情的になっていると思いますので、この世の人が、自分のことを不憫に思っていると知ったならば、きっと当惑していると思います。

あの世について、もっと正しい知識が普及すれば、誤解は少なくなると思います。

しかし、この世の人たちに、あの世のことが明確に知れ過ぎてしまうと、課題を放り投げて、学ぶべきことを学ばずに、向こうに行ってしまう人がいるかもしれません。

そんな過ちを犯さないように、多くが知れないように、配慮されていると考えられます。



霊的な次元は、離れたところにある、遠い世界ではありません。

言葉で表現するのは難しいのですが、現実の1側面と考えて良いと思います。

例えば、美しい絵があったとします。

物として見れば、布地(キャンバス)にさまざまな色の絵具が塗られているだけです。

しかし、絵を観て、その中に美を見出し、心を動かされる時があります。

それは、人の最奥にあるものに、触れるものがあったからです。

物質を超えた何かを、最奥にあるものが、感じ取っているためと思われます。



心に響く音楽があったとします。

音楽は、周波数の異なる音が、さまざまな楽器や声を通して出ている音の集合体ですが、それを超えたものであるのは明らかです。

音を超えた何かが、旋律やハーモニーの中に込められていて、それが最奥にあるものに伝わり、共鳴していると思います。



絵や音楽は物質(物理)的なのものですが、込められているものは霊的なものであり、2つの面を持っていることになります。

本質はどちらかと言えば、もちろん霊的な面です。

正確に言うと、物質的な面は、霊的な本質を伝えるためにある媒体です。

絵や音楽を通して伝えたいのは、物質を超えた概念や想いであり、色も音もこの世で表現するためにある媒体です。

芸術を通して伝えたいのは、物質を超えた霊的なものであり、霊的なものが感じられない芸術に、存在価値はないのかもしれません。



言葉も同じです。

「ありがとう」は、感謝の気持ちを言葉で表したものです。

「ありがとう」という言葉には、音声としての情報と、発する人の想いが込められています。

店先で機械音声で「ありがとうございました」と言われて、何か伝わってくるでしょうか?

機械の声には想いが入っていないので、音声情報を発信しているのに過ぎません。

誰かに「ありがとう」と言われてうれしくなるのは、言葉の中に感謝の想いを感じ取った時だと思います。

やりとりする言葉も、物理的な音や言葉の意味を越えた、霊的な面を持っています。



人は、言葉などを媒体として、情報を交換しています。

同時に、目に見えない想いを、媒体を通して発しながら、受け取っています。

目に見えない想いは、霊的な存在である魂から生まれています。

私たちは物質の世界に生きているため、肉体という媒体を介して、自分の想いを表現しなければいけません。

この世の人は、魂から生まれた想いを、五感で認識できるように肉体で表現している、霊的な存在と言えます。



身の回りで起こる出来事も、目に見えない霊的な意味があります。

目に見える現実の世界と、目に見えない霊的な世界は表裏一体の関係と言えます。

しかし、世の中が唯物的になり過ぎたため、目に見える現実だけを見て、霊的な面を見なくなりました。

戦争は、現実だけを見ると、人を傷つけ、破壊する行為です。

しかし、霊的な面から見ると、怒りや憎しみや恨みの想いが原因で起きていると思われます。

そんな想いが生まれてしまうのは、人の想いを無視し、利己的な考えに捉われているためと思われますが、現実という結果だけに捉われていると、報復を繰り返すだけになってしまいます。



病気は、生物の正常な状態がそこなわれ、生命維持機能が阻害あるいは変化することと、百科事典には書かれています。

しかし、それは五感で認識できる病変、病態を表しているだけです。

多くの病気は、霊的な原因があると考えられます。

霊的な原因が、因果律の働きにより、肉体上に病変、病態として現れていると思います。

シルバーバーチは、霊と精神と肉体の一直線で結ばれ、3者の調和が取れた状態を健康と言っています。

霊は精神と肉体の上位にあり支配していますが、何らかの理由で、精神や肉体が優位になってしまうと、魂から生じている想いが表現されにくくなります。

その想いが摂理に反していて、溜まってしまうと、心身に不調和が生じ、病気として表在化されると考えています。

病気は、霊と精神と肉体の不調和により生じるものですが、苦痛を通して、魂を優位にさせて、調和の取れた関係に復元するために存在していると考えられます。



この世は、ありのままの自分を表現するのが難しい世界です。

快適とは言い難い世界に、私たちは執着して生きています。

臨死体験などで、あの世を垣間見た人たちは、生き生きとした、とても素晴らしい世界であったと言っています。

それは、肉体という媒体が取り払われ、ありのままの自分が表現される世界を、実体験したからだと思います。

そして、生かされている力(霊力)を、魂で感じることができたからだと思います。

想いが直接、相手に伝わるあの世は、言葉あるいは行動に変換して伝える、煩わしいこの世とは大きく違い、素晴らしい世界だと思います。

相手の想いが直接魂に響き、同じ想いで共鳴するため、この世では味わえない一体感が得られると思います。



想いの中でも、愛は強烈であり、魂は激しく共鳴します。

愛は、全宇宙を創造した心そのものであり、ばらばらに存在するものを1つにさせようとさせる力と考えられます。

受け取った者は悦びに満たされ、因果律の働きにより、他の誰かに分け与えようとします。

それを受け取った者は、悦びに満たされ、また誰かに分け与えようとします。

その連鎖が果てしなく拡がっていき、世界は愛という同じ想いで満たされ、1つになっていきます。

愛は人を動かしている神的なエネルギーです。

この世で愛は五感に触れるものではないので存在を疑う人がいますが、あの世は想いの世界であり、はるかに実感があるため、愛の存在を疑う余地はありません。



あの世では、自分がどんなに望んでいても、相手に同じ想いがなければ、逢うことは出来ません。

また、相手が望んでいても、自分に同じ想いがなければ、逢うこともありません。

人と人を結びつけるのは、愛という親和力です。

周りに同じ想いを、共有する人たちが集まって生活しています。

親愛の想いがない人や、想いが共有できない人との間に、接点がないので、嫌いな人、考え方の違う人と、一緒に生きなくても良いのです。



なぜそんな素晴らしいあの世だけでなく、苦しみや悲しみの多いこの世で、人は生活しなければいけないのでしょうか?

この世には、好きになれない人もいれば、考え方が違う人もたくさんいます。

あの世と違って、そんな人たちとも、一緒に生活をしたり、付き合っていかなければいけません。

同じ考えの人であれば、気心が知れるので平穏に過ごせますが、考え方の違う人とは、そんな訳にも行かず、意見が衝突してしまう時もあります。

衝突しないためには、自分の意見を控えて、相手の意見を認め、尊重してやらなければいけません。

日常でも、自分を殺して相手を活かす局面は多くあり、そんな自己犠牲の経験を通して、魂は成長して行くと思われます。



子供の頃は、自分のことだけを考えれていても良かったのですが、社会に出ると、顧客そして組織のことを優先して考えなければいけなくなります。

家庭に入っても、自分のことよりも、家事や子供のことを優先しなければなりません。

現実として、人は働かなければ生活を維持して行くことが出来ませんが、それは家族や会社のために、自己を犠牲にして、奉仕していることになります。

働くことは、奉仕であるため、魂の成長につながるという霊的な面があります。



人はこの世で、さまざまな経験をします。

その経験から、さまざまな想いが生まれていて、何らかの形で表現しようとします。

もし、人に傷つけられたり、裏切られたのなら、強い怒りや憎しみの想いが生まれしまうかもしれません。

その想いを外に向かって表現すれば、攻撃的なものとなり、争いが起きてしまうかもしれません。

かと言って、表現をせずに想いを溜めてしまうと、心身に不調和が生じて、病気になってしまうかもしれません。

どちらにせよ、苦痛を味わうことになってしまうのは、その想いが神の摂理に反しているためと思われます。

苦しみから解放されるには、人や出来事を許して、想いを解放しなければいけませんが、許そうとしても、許せるものではありません。

苦痛には、自分(魂)を成長させるという、霊的な意味があります。

魂の成長に伴って、許せなかったことが許せるようになり、溜まっていた想いが解放されて、苦しみから解放されます。

ひどい仕打ちをされれば、許せずに苦しんでしまう時がありますが、そんな嫌な出来事も、霊的な面から見れば、魂を成長させてくれた貴重な経験と言えます。



人生には悲しみが付き物です。

最愛の人を喪った悲しみを超えるものはありません。

喪ったことで、悲しみは生じますが、そこに愛が存在していなければ、悲しみは生まれません。

愛が喪われたと思うと、悲しみが生まれてしまいます。



肉体は失われても、魂は不滅です。

愛は魂から生じているものなので、肉体で表現する手段はなくなっても失われていません。

こちらの愛する想いは、伝っています。

そして、向こうからも愛されています。

肉体を失い見えなくなってしまった人の愛を信じられないと、悲しみや苦しみが生まれてしまうのかもしれません。

信じてもらえないほど、人を悲しませるものはありません。

悲しんでいる時は、向こうの人を悲しませているのかもしれません。



肉体の喪失は確定された事実ですが、生命は失われていません。

この世とあの世にいる両者の関係は、生前のままです。

目に見えない、声が聴こえない、触れられない寂しさは、耐え忍ばなければなりませんが、魂の存在を信じ、亡くなった人から今も愛されていることを、心から信じられたならば、悲しみや苦しみから解放されるのかもしれません。

亡くなった人を、また愛することができるからです。

愛はすべてを乗り越えて、両者は再びつながります。

かけがえのない人は、死によって信じることの大切さ、愛することの大切さを、教えているのかもしれません。





深刻な出来事ほど、魂を目覚めさせ、想いに気付き、意識しない深いところで、真実に気付いたり、大切なことを学んでいると思います。

この世の出来事には、自分(魂)を成長させ、想いを共有して1つにさせるという、霊的な意図があると思います。













4 件のコメント:

  1. はじめまして、まもなく一人娘の一周忌が参ります。夫婦ともに悲しみに暮れた一年でした。先月ふとしたきっかけからシルバーバーチ普及会のHPを知り、そしてこちらのブログを読ませていただきました。私もイクミ様と同年代55歳です。自身の人生を顧みて反省、後悔することばかりです。そしてこれからの生き方を学びました。やっとスタートラインに立ったところです。今後イクミ様よりアドバイスを頂けたらと思い投稿させていただきました。よろしくお願いいたします。

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  2. はじめまして、イクミです。
    ブログを読んでいただき、ありがとうございます。

    娘さんを亡くされて、まもなく1年ということですが、心中をお察しすると、かける言葉もありません。
    姿が見えなくなってから、言葉では言い表せないほど、つらい1年を過ごされたことと思います。
    ご夫婦で、娘さんの将来について思い描いていたことも、きっとたくさんあったと思います。
    女性として人生が花開いて、これから絶頂を迎える時に逝ってしまえば、到底、受け入れられるものではありません。
    かわいらしく、誇りに思えるような、やさしい娘さんであれば、なおさらです。
    一人娘を喪い、ご両親はこの世で最も深い悲しみを、今、経験しているのに違いありません。

    親より早く亡くなるほど、親を悲しませ、苦しませるものはありません。
    けれども、娘さんは、ご両親を悲しませ、苦しませるために、ご両親の元に生まれ、亡くなったのではありません。
    奥深いところに、何か理由があるはずです。
    その全貌は、この世にいる時には判らないでしょう。
    娘さんと同じ世界に行った時に、はっきりと判りますが、シルバーバーチの霊訓を始めとする霊的真理により、その理由の一端を知ることができると思います。

    霊的真理は奥が深く、私は垣間見た程度ですが書いてみます。
    容認しがたいものであれば、無礼を詫びると共に、見なかったことにして下さい。

    すべての人は、生まれる前にある約束をしています。
    この世で、魂を成長させるという約束です。
    その約束を果たすための、大まかなシナリオがあり、この世の人生で最適な時期に起きるようになっています。

    子供は親を選んで生まれてくると、よく言われますが、その通りだと思います。
    ご両親のシナリオに最適なお子さんが娘さんであり、娘さんのシナリオに最適な両親が、お二人だったと思います。
    完璧な叡智の働きによりシナリオは考案されますが、その目的は1つであり、魂の成長させるためです。
    3人のシナリオは密接に関連し合い、この世の人生が展開されていきます。
    娘さんが早くして亡くなったのは、不運でも偶然でもなく、予め決められていたことであり、自然法則に従って生じたと思われます。
    もし、自分を責めていたり、後悔しているのであれば、すぐに止めて下さい。
    娘さんは、生まれてきた目的を十分に果たして、シナリオに従って早く逝ったと考えられます。
    そうだとしても、これほどまでの悲しみ苦しみを味わうのならば、そんなシナリオなどなくて良いから、もっと長く生きて欲しかったと思われることでしょう。
    信じられないかもしれませんが、このシナリオをご両親も自身で選択したものと考えられます。
    こんな大きな悲しみを抱える人生を、自分で選ぶはずはないと、きっと思われるでしょうが、事実であると思います。

    娘さんは、ご両親とは違う、霊性の高さを持っていたのかもしれません。
    親子とか、年齢とかは関係なく、生まれ持ったものです
    この世は、シナリオによって生じる出来事から、多くの大切なことを学びますが、大きな意味で、愛を学ぶと言って良いのかもしれません。
    やさしさ、思いやり、寛容性が申し分がない人であれば、この世で学ぶものは、それほど多くないと思われます。
    憎まれっ子世にはばかると、よく言われますが、それと正反対であり、やさしく、人に好かれる人ほど、学ぶものがないので、早く世を去ることになると思われます。
    学ぶものを学び、目的が果たされた時が、その人の寿命です。
    従って、短くても、決して不幸ではありません。

    ほぼ目的を果たした娘さんが、人生最後に果たすことは、ご両親よりも早く逝くことです。
    死をもって、この世での役目を終えたのです。
    死に秘められた目的は、ご両親の魂の成長です。
    親にとって子供の死ほど、悲しく、苦しいものはありません。
    そこに、極めて大切な1つの真理が存在します。
    困難な出来事を乗り越えることで、魂が大きく成長していくという真理です。
    人生の出来事で、これほど魂を成長させるものはないと言うことになります。
    この世で、ご両親の魂を飛躍的に成長するため、あるいは過去世の借りを返すために、シナリオに従って娘さんは逝ったと思われます。
    ご両親は、一人娘を喪うという最も過酷とも言える、このシナリオをあえて選択したと思われます。
    魂の深いところでは、そのことを承知していましたが、意識に上ることはありません。
    もし意識に上っていたなら、とても耐えられないからです。

    ご両親は、こう思っていないでしょうか?
    宝のような一人娘を亡くしては、人生は終わったのも同然だと。
    もしも、この世で全てが終わりになるのであれば、そう思われて結構です。
    しかし、この世で終わりではありません。
    断言しますが、次の世界があります。
    そこに、娘さんはいます。
    先に行っているだけです。
    親子の関係は、失われていません。
    生きています。
    見ています。
    そして、待っています。
    ご両親の想いのすべてが判っています。
    ご両親を愛しています。
    感謝しています。
    前と同じ様に、微笑んでいます。
    仲間と楽しく過ごしています。
    最愛の娘さんは、何1つ変わっていないのです。
    肉体はありませんが、不可視の媒体を得て、自分を表現しています。
    夢物語のように思われるかもしれませんが、事実です。
    元気に生きていることに、気付いて欲しいと、娘さんは願っています。

    姿が見えないのは、どうしようもありませんが、正しい知識を得て、今の娘さんの姿を思い描くことは出来ます。
    もう、お読みになっているかもしれませんが、シルバーバーチの霊訓には永遠不滅の真理が書かれています。
    今は判らない文章であっても、真理となって、光り輝く時が訪れます。
    その真理が、生きていく絶対的な支えになります。
    娘さんの死がなければ真理に出会うことはなく、ご両親が真理に出会い、受け入れるために、娘さんの死の意味があったとも言えます。

    命は肉体と共になくなるものではありません。
    生命とは魂であり、魂とは自分そのものです。
    あの世で生きていることは確実なのですが、この世に残された人がどうしても遭いたいと思っているうちは、受け入れられないのかもしれません。
    過ちを犯してまでも、逢いに行ってしまう可能性があるからです。
    その思いが治まってきた時に、真実が受け入れられ、娘さんとつながっていることを、実感できるのかもしれません。

    娘さんは、ご両親の格段の成長を願って、早く逝ったと思います。
    今生での、悲しみや苦しみは、無駄にはなっていません。
    逃れたいような、つらい時を過ごすのも、ご両親の成長につながっています。
    この世に生まれて来た目的を、涙を流しながら、果たしているのです。
    お二人で支え合って生きる姿、悲しみを乗り越えて成長していく姿は、娘さんの大きな悦びとなります。
    早く逝った目的が、そこにあるからです。

    娘さんの悦びは、きっとご両親に伝わってくると思います。
    姿は見えなくても、魂と魂はつながっているからです。
    決して失われることのない深い愛で、つながっているからです。

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  3. イクミ様

    ご返信ありがとうございます。繰り返し読ませていただきながら涙が止まりませんでした。
    シルバーバーチの霊訓に触れてまだ一か月足らずですが、私にとって、きっと今が定められた時期だっと感じました。

    イクミ様のおっしゃるとおり、娘は私たち夫婦以上に高い霊性を持っていたと思います。
    他人に対する思いやりが、人一倍強い子でした。霊訓に書かれている利他愛です。
    目的を果たした娘の私たちへのメッセージ、両親の魂の成長を胸に日々努力してまいります。

    ありがとうございました。

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  4. 最愛の人を亡くされた人すべてが、シルバーバーチの霊訓と言う最高の真理に辿り着ける訳ではありません。
    辿り着いたのは、言われるように受け入れる時期が来ているからと思われます。
    まだ出会って1ヶ月ということですが、時間がかかっても全12巻読まれて下さい。
    その中に、最愛の人を亡くされた人たちが交霊会に招かれ、シルバーバーチとの会話の様子が書かれている章がいくつかあります。
    愛する者同士は離れることはないことが、良く判ると思います。

    少し先になりますが、本当に大変な思いをしたけれど、お蔭さまで成長できましたと、笑顔で言える時が必ず来ます。

    何かありましたら、遠慮なく連絡して下さい。

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