私が中学1年生、確かホームルームの時だったと記憶していますが、女性の担任が元同僚だった男性教師について話をしました。
その教師は、クラブ活動の指導中に首を骨折してしまい、首から下が完全に麻痺して動かなくなってしまったそうです。
担任は、「若いのに、本当に可哀想だった」と、しみじみと話をしていたのを覚えています。
そんな話を聞いても、全く知らない人だったので、別段、何も感じませんでした。
十数年の時を経た、90年代のある日、地元に新しい美術館が出来たと耳にしました。
その美術館に展示してあるのは、草花の水彩画とそれに添えた詩でした。
作者は口に絵筆を咥えて、絵や文字を書いていると聞きました。
そして、元教師で、学校での事故で、手足が麻痺して動かなくなってしまった人だと聞いて、もしかしたら、中学生の時に担任から聞いた、あの先生のことかもしれないと思いました。
予感は、当たっていました。
画家の名は、星野富弘さんと言います。
1946年生まれの星野さんは、子供の頃から、人一倍運動能力が優れていて、地元の大学を卒業した後、体育教師になりました。
赴任した中学校で、体操部の指導中、跳び箱を使った空中回転の着地に失敗をして、頚椎を折ってしまったそうです。
九死に一生を得ましたが、手や足は全く動かなくなってしまい、教師になって2年目の24歳で辞めざるを得なくなりました。
20代前半の若い男性が、いきなり首から下が動かなくなれば、どう思うのでしょうか?
想像するだけでも恐ろしいものがあり、同年代の私であれば、自分の人生は終わったと思うに違いありません。
悪い夢でも見てるような気分になり、現実に起きたことを認められないかもしれません。
星野さんは、学生時代に体操や登山で心身を鍛えていましたが、人に負けないと思っていた「根性」と「忍耐」は、過酷な現実を前にして、1週間で吹き飛んでしまったそうです。
そして、絶望の淵に沈んだまま、何回も死のうと思ったそうです。
星野さんに残されている死ぬ手段は、舌を噛み切ることと、何も食べないで餓死することでした。
舌を噛み切ろうと何回もしたそうですがだめで、食事を摂らずに餓死を試みましたが、やはりだめであり、後にこう語っています。
けがをして、もう一生首からしたを動かすことができないのだと分かった時に、「俺はもう生きている価値はない」と思いました。
夜は、「次の朝には死んでいたらいいのに」と思いながら寝るのですが、いつもどおりの朝が来て、看護婦さんが脈や血圧を測ると正常値なのです。食事を抜けば死ねるかと思って幾日か抜いてみたのですが、腹が減って減って・・・・・次の食事を腹いっぱい食べてしまいました。あの時のご飯、うまかったなあ。
その時、「いのちというものは、俺とは別にあるんだ、俺がいくら生きることをあきらめても、いのちは一生懸命生きようとしているのだ」と思いました。私の努力でいのちがあるのではなく、「いのちが一生懸命俺を生かしてくれている」と気づいたのです。
「自分は今、やさしくて大きなものに生かされているんだ、死にたいなんて、いのちに申し訳ない」、そう思いました。 『いのちより大切なもの』より
お父さんは既に他界していて、病室での介護は、お母さん一人に任されました。
自分の息子が、首から下が全く動かせない重度の障がい者となってしまった時の、母親の気持ちは、他の人にはとても理解できません。
しかし、星野さんは自分の現状に対する怒りの持って行き場がなく、「何で産んだんだ」と、お母さんを怒鳴ってしまったそうです。
それを聞いたお母さんの胸は、きっと張り裂けそうだったと思います。
入院当初の、介護するお母さんの様子を、こう語っています。
24歳でけがをして入院していた時、膀胱に留置カテーテル(管)を入れて尿を排泄していました。
最初の頃ですが、留置カテーテルに点滴と同じ細い管を接続していて、管が詰まってしまうことがよくありました。私は体が麻痺しているので、普段は尿意を感じません。
しかし、管が詰まり膀胱が大きく膨れてくると、体じゅうに汗が噴き出て、気づいた時には心臓の動悸が激しくなり、息が上がり、大変な状況になっています。そんな時は看護師さんを呼んで、管を洗浄してもらうのですが、とにかくよく詰まるので、そのたびに苦しい思いをしました。その時も看護師さんを呼んだのですが、忙しいのかなかなか来てくれません。
苦しがっている私をみかねて、母は、私の尿道につながっていたカテーテルを口にくわえ、息を吹き込んだり吸ったりして管の詰まりを取ってくれたのです。母は時々それをしてくれました。息子の苦しむ姿を見ていられず、思わず体が動いたのかもしれません。
母にしかできないことだと思います。 『いのちより大切なもの』 より
病室での星野さんとお母さん |
つらい闘病生活を続けていましたが、星野さんにとって一番堪えたのは、治る見込みのない怪我であり、この状態が一生続くということだったと思います。
絶望的とも言える日々を過ごしていた星野さんは、受傷から2年経って、ある看護学生から口で文字が書けるかやってみましょうと言われました。
言われるままに、口にマジックペンを咥えて、「ア」という一文字を書いてみました。
手足の自由を奪われ無力だと感じていた星野にとって、たとえ汚い文字であっても書けたことは、予想外の大きな喜びであり、前に踏み出すきっかけとなりました。
初めて口で書いた文字 |
単純だけれども、難しい作業を、日々病室で繰り返していました。
そんなある日、見舞いの人にもらった花に目が留まりました。
改めて見ると、その色、その形の美しさに、驚かされ、すべてのものが神様が作ってくれたと思ったそうです。
花には一つとして余分なものも、足らないものもなく、色も形も調和を持っていて、そういうものを素直に写していれば、いい絵が描けるんじゃないかと考え、花を先生だと思って絵を描いてみようと思い立ち、花の絵を描き始めたそうです。
下の絵は初期の作品ですが、無我夢中で描いている様子が、伝わってくるようです。
百日草 (1975年) |
入院は長期に及びました。
その間「あれがなかったら俺の人生は違っていた」と、何度も思ったそうです。
病室の天井を眺めながら、何のために生きているのだろう、何を喜びとしたらよいのだろう、これからどうなるのだろう、と思ったそうです。
ある日、大学時代の先輩が病室に見舞いに来て、三浦綾子さんの「塩狩峠」という本を貸してくれました。
内容は、北海道の鉄道員の話であり、連結器が外れて、暴走し始めようとする列車を、自分の身体を車輪の下に投げ入れて列車を止めて、乗客の命を救ったという実話です。
自分の身を犠牲にして、人を救うというところに、もの凄く惹かれたそうです。
主人公である鉄道員はクリスチャンであり、三浦綾子さんの小説を次から次へと借りて読んで、キリスト教に興味を持ち、それから2年後に、病室で洗礼を受けたそうです。
口で繊細な花を描くのは、並大抵の忍耐力と集中力はで務まらないと思いますが、マジックペンから絵筆に変えて、その後も、病室でたくさんの水彩画を描き続けて行きます。
そして、入院から9年目、描き溜めた絵が60枚になった頃、ある人から意外なことを言われます。
知り合いの身障者センターの所長さんから、展覧会をやってみないかと勧められたそうです。
星野さんは、とても人に見せられる絵ではないと、当初はしりごみます。
しかし、お母さんと二人三脚で描いた絵を通して、福祉で一番大切な心のつながりを紹介したいという所長さんの熱意に打たれ、承諾します。
1979年、初めての展覧会が開催されることになります。
どうせ見てもらうなら、ただ単に口で描いた絵を見てもらうという展覧会ではなく、ひとりの人間の「生きざま」の紹介をしてみてはどうかと言われ、初めて書いた文字、未完成の初期の絵も展示することに決めたそうです。
絵を描きながら思っていたことを二・三行の言葉にして絵に添えましたが、「書きはじめて私は、また自分の弱さやみにくさをさらに知らされるような気がした。本当の気持ちは書くことができず、自分を繕ってしまうのである。どんな冒険に立ち向かうよりも自分をさらけ出すことのほうが、ずっと勇気が必要なのではないかと思った」と、後述しています。
この展覧会は、多くの人々に感動を与え、反響を呼んで、作品は一人歩きをし始め、星野さんとお母さんの二人だけのものではなくなって行きました。
9年という長い入院生活を終えて、生まれ育った村に戻り、豊かな自然に囲まれた環境で、その後も絵を描き続けて行きました。
身の回りの世話や絵の製作の介助は、それまでお母さんがやっていましたが、大きな転機が訪れます。
1982年に、教会を通して知り合った昌子さんと結婚することになり、その役が引き継がれました。
重度の身障者との結婚は、介護の大変さや、経済的な面を含めて、苦労の絶えない人生になるかもしれません。
若い女性には、到底受け入れられないような気がしますが、昌子さんは星野さんからのプロポーズの言葉を聞き、こう思ったそうです。
愛する気持ちが大きくなってきたときに
逆の祈りをしている自分に気づいたんですね。
もうほんとにそれが大きくなって、
愛することをやめさせてくださいというような・・・・・・
~星野さんへ宛てた手紙より~
星野さんと昌子さんは、出会うべくして出会ったとしか思えません。
新たな気持ちで意欲的に絵を描いて行きますが、絵具の調合一つにしても、星野さんが納得できる色を作るまでに、昌子さんの苦労があったことを考えると、二人の共同作品と言ってもいいのかもしれません。
日々の生活で触れる自然の中に、驚きがあったり、発見があったりして、それを見つけた時の悦びを絵と詩で表現していったと思われます。
動くことの出来ない星野さんは、その場所から動くことのない花に対して、特別な感情を抱いていたのかもしれません。
動きはなくても、そのありさまは刻々と変化し、しっかりと生きている花の様子に、共感したのかもしれません。
花の想いの様なものを、五感を超えて感じ取っていたのかもしれません。
花を通して、自然の摂理を教えられ、魂が慰められていたのかもしれません。
星野さんは、今でこそ穏やかそうな表情をされていますが、そこに辿り着くまでには、長い時が必要だったと思われます。
動こうとしても、動けないのは、想像をはるかに超えた苦難です。
自由に動ける人を見て、羨ましく思わないでいられるはずもなく、強い不満や劣等感は、根強く居座っていたと推察されます。
不満や劣等感が募っていくと、怒りや憎しみ、嫉妬の想いが生まれ易くなります。
そんな想いが内にあると、絵の中に正直に現れてしまい、人の心に触れる絵にはならないと思います。
醜い想いを抱いてしまうと、自然の摂理が働いて、苦しくなってしまいます。
自分の想いにより、自分が苦しんでしまう様子を、こう表しています。
「私は悲しい心をもって生まれてしまったものだと思った。
周囲の人が不幸になったとき自分が幸福だと思い、
他人が幸福になれば自分が不幸になってしまう。
自分は少しも変わらないのに、幸福になったり
不幸になったりしてしまう。
周囲に左右されない本当の幸福とはないのだろうか。
自分が正しくもないのに、人を許せない苦しみは、
手足を動かせない苦しみをはるかに上回っていた。」
『星野富弘 ことばの雫』 より
苦しまずに済むためには、自然の摂理に適った物事の捉え方をしなければいけません。
星野さんの心が変化していく様子です。
「長い間、私は道のでこぼこや小石を、なるべく避けて通ってきた。
そしていつの間にか、道にそういったものがあると思っただけで、暗い気持ちを持つようになっていた。
しかし、(車椅子に付けた)小さな鈴が「チリーン」と鳴る、たったそれだけのことが、私の気持ちを、とても和やかにしてくれるようになったのである。
こんな小さなことにも喜べるんだったら、私は、体は動かないけれども何か自分で楽しく生活できることも出てくるんじゃないかと、そんなふうに思いました。
人も皆、この鈴のようなものを、心の中に授かっているのではないだろうか。
その鈴は、整えられた平らな道を歩いていたのでは鳴ることはなく、人生のでこぼこ道にさしかかった時、揺れて鳴る鈴である。
いやだと思っていたものが、美しく見えるようになった。
・・・・・それは、心の中に、宝物をもったようなよろこびでもありました。
苦しい時に踏み出す1歩は心細いものだけれど、
その1歩の所に、くよくよしていた時には想像もつかなかった世界が広がっていることがある。」
『星野富弘 ことばの雫』 より
苦しい思いをしたくないので、そんな想いが湧かない様な物事の捉え方をするようになり、自然に苦しさから解放されていったのかもしれません。
最初の一歩を踏み出すのは、口で言うほど簡単なものではなかったと思います。
でも、踏み出さない限り、同じ場所に留まったままです。
勇気を出して、踏み出した先にあったのは、気付きそうで気付かない大切なことであり、そんな宝物を、いくつも手にして行きます。
そして、それまで気にも留めなかったありふれた日常の中に、ささやかな悦びを見つけていくことで、心が次第に穏やかになっていったのかもしれません。
さまざまな人生経験を通して、自分を成長させるためです。
楽しい経験では、成長にはつながらず、出来れば避けて通りたいような困難や障害を、もがきながらも乗り越えていく過程で、強く成長していきます。
苦しみや悲しみの経験は、決して無駄なものではなく、大切な宝物を手に入れ、自分を成長させるためにあります。
そんなものを手に入れるより、楽しい人生の方が良いと思うかもしれません。
もし、この世だけで終わってしまうのであれば、そう考えても仕方ありません。
しかし、死んで消えてなくなってしまう訳ではなく、次の世界で新しい生活が待っています。
新しい生活をするのに、知っていなければならない、守らなければならない、きまりのようなものがあり、それをこの世で学んでいます。
楽しいだけの人生は、学校を遊んで過ごしたことになり、卒業してから苦労することになります。
苦しみの多い人生は、苦労して多くのことを学んだことになり、成長した大きな喜びに包まれ、活かす機会が与えられます。
この世では、肉体しか見えないために、それぞれが独立した存在のように見えますが、次の世界に行くと肉体はなくなり、真の自分(魂)だけになり、途方もなく大きな存在とつながり、共に生きていることに気付きます。
途方もなく大きな存在から、生命力をもらって生きていることを実感します。
ところで、人は植物に親しむ気持ちがありますが、どうしてでしょう?
人も植物も共に自然の一部であり、「生命」と言うつながりを感じているからだと思います。
野に咲く花と、似せて造られた花を観て、どちらが綺麗でしょうか?
野に咲く花は、生命の輝きがあり、調和という美がありますが、人が造ったものに輝きはなく、美しさは足元にも及びません。
植物も動物も、途方もなく大きな存在から、生命力を受け取って生きています。
受け取っている生命力は、愛を帯びています。
花を美しく感じるのは、生命力が愛を帯びているからです。
同じ力が人間にも流れて、愛を表現しようとしますが、肉体があり、この世を生きるもう一人の自分がいて、思うようにできません。
途方もなく大きな存在は、この世でさまざまな出来事を経験させて、障壁となるものを取り除き、愛を表現させようとしています。
生きることは、愛することに限りなく近いと思います。
私の住んでいるところは、利根川という大きな河が流れています。
上流の方なので、河原には大きな石がごろごろしています。
穏やかな流れの時は、その場所に留まっていられますが、大雨が降り濁流になると、押し流されて、川底をゴロゴロと転がっていきます。
流れが緩やかになると石は留まり、再び流れが急になると、川底をまた転がっていきます。
転がりながら、少しずつ角が取れて、小さくなりながら流されていきます。
下流に行くほど川幅が広くなり、流れは緩やかになりますが、角が取れて丸くなった石は、逆らうことなく流れていくようになります。
すっかり角が取れて、小さくなった石は、やがて海に流れ込んで行きます。
人もさまざまな出来事を経験して、余分なところやひずんだところは削られていき、自然の流れに逆らわないように、丸く、小さくなって行くのかもしれません。
途方もなく大きな存在の力の前では、どんなに抵抗しても無駄であり、素直に流れに従うしかないと思います。
その力は、愛の力だと信じて。
ふと、そんなことを思いました。
利根川と合流する渡良瀬川を見ながら、星野さんはこんなことを感じたそうです。
怪我をして全く動けないままに、将来のこと、過ぎた日のことを思い、悩んでいた時、ふと激流に流されながら、元いた岸に泳ぎつこうともがいている自分の姿を見たような気がした。そして思った。「何もあそこに戻らなくてもいいんじゃないか・・・・流されている私に、今できるいちばんよいことをすればいいんだ」 『星野富弘 ことばの雫』 より
身近な草花や、自然の営みの中に、やさしさや、きまりのようなものに気付いていったのだと思います。
気付いたことを、他の人たちに伝えて、励ましたり、癒したりするのが、今できるいちばんよいことだと、星野さんは思ったのに違いありません。
感銘を受けました。
返信削除ありがとうございます。
��anami
阿南勝広様
返信削除いつも読んでいただき、ありがとうございます。
星野富弘さんの詩画を展示した美術館ですが、群馬県みどり市にありますが、もう1つは熊本県葦北郡芦北町にあるそうです。大分からは少し遠いかもしれませんが、そちら方面に行く機会があれば立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
また、ご意見や感想などありましたら、聞かせて下さい。
イクミ
色んな苦難があり、今はお互い乗り越えて、平和に暮らしてますが。また有り難きき事を思い出し、親を大事しようと思いました。ありがとうございました。
返信削除はじめまして、イクミです。
返信削除ブログを読んでいただき、ありがとうございます。
大変な苦難を乗り越えられて来て、今の平穏な日々があるのですね。
親孝行は子育てと同じくらい大切なのかもしれません。私の親も年を取り、いつ向こうに行ってしまうか判りませんので、後悔のないように、出来るだけ喜ぶことをしてあげたいと思っています。
高瀬様とご家族が、あたたかな笑顔に包まれた、穏やかな日々を過ごされること祈っています。