2015年11月8日日曜日

神は自分の中にいる



子供の時、悪さをして良く叱られていました。

小学生の時のことです。

私の家の隣に、小さな駐車場がありました。

夜、外へ出てみると、駐車場の方で何か動物が走っているのが見えたので、何を思ったのか、小さな石を拾って、そちらに向けて投げつけました。

次の朝、通学時に駐車場を通ると、1台の車のフロントガラスが蜘蛛の巣状に白くなって、割れていました。

それを見た瞬間、昨夜、投げた石が原因で、ガラスが割れてしまったとすぐに判り、とんでもないことをしてしまったと、怖くなりました。

学校に行っても、割れたフロントガラスのことが頭から離れず、気になって仕方がありませんでした。

学校から帰宅すると、そのことが近所で話題になったのか、母親から「駐車場に置いてあった車のガラスが割られたみたいけど、何か知っている?」と、聞かれました。

まずいという気持ちが表情に出たのでしょうか、母親に問い質されました。

観念して、昨夜のいきさつを話しました。

当然のことながら叱られて、車の持ち主に謝りに行って、親がガラス代を弁償することになりました。



当時の心境を振り返ってみると、悪いことをしても、ばれなっかたので、その時は胸をなでおろしました。

しばらくすると、妙に不安になり、後ろめたさが付きまといました。

結局、ばれてしまい、叱られて落ち込みましたが、不安や後ろめたさはなくなりました。

このように心が揺れ動いたのは、子供であっても良心があったためと思われます。



良心とは、善悪を判断して、行動を規制しているものです、

しかし、教えられて身に付くものではなく、生まれながらにして、人に備わっていると考えられます。

人には、それぞれの良心がありますが、一様なものではありません。

住んでいる国や文化、宗教、そして育った家庭により違い、環境により少なからず影響を受けて、変化していくものと思われます。

動物の肉を食べるのをためらう人もいれば、全く気にしない人がいるように、ある人にとって良心が咎めるものが、ある人にとっては何でもないことがあります。



良心とは、どこから生まれるのでしょうか?

「やってはいけない」と、良心が咎めるのは、頭で考えているのではなく、直観的なものであり、自分の深いところから、湧き上がって来るようです。



人のために何かをして喜んでもらうと、うれしくなります。

何故うれしくなるのかを、説明するのはとても難しいです。

もしも、人が生まれて、死んで行くだけの存在であれば、苦もなく楽しく生きるのが一番かもしれません。

自分のことだけを考えて生きていればいいのであり、人のために何かをする気持ちは、起こらなくていいはずです。

そうは言っても、人や社会のために、何かをしたいと思う気持ちがあるのは確かです。



昔、駅のホームから転落した人を助けようと思い線路に下りたところ、入ってきた電車に巻き込まれて、二人の若い男性が亡くなるという事故がありました。

事故で亡くなった人の勇気を、多くの人が褒め称えました。

自分の身体(生命)を守ろうとする気持ちは、とても強いものですが、それに逆らって、行動しようとした力は、それよりも強かったはずです。

自分の身を省みず、人を救おうとした衝動は、愛という強力な力によって引き起こされたと考えられます。

自己を犠牲にして、他者のために尽くす想いが愛であり、それは誰かに教わって身に付いたものではありません。

教わらなくても備わっているものに本能がありますが、本能は自己を守るためにあり、自己を犠牲にする愛とは、根本的に違っています。



良心と同様に、愛は生まれながらにして人に備わっているものであり、自分の深いところから湧き上がってくる想いと考えられます。



電車の中で座っていて、目の前にお年寄りが立つと、サッと席を譲る人がいます。

別に考えてではなく、ごく自然にしている様に見えます。

やさしさや、思いやりは、愛の1つの表現であり、そんな想いは誰もが持っていると思います。

しかし、自分が身体が疲れている時には、行動になかなか移せません。

想い(愛)を表現しようとしても、自分の肉体が大きな障壁となっている気がします。

また、他の人は席を譲ってないじゃないかとか、誰かが席を譲るだろうと思えば、行動に移そうとする気持ちはそがれてしまいます。

頭でいろいろ考えてしまうと、自分の想いが素直に表現できなくなるようです。



良心も愛も、内から湧き上がる直感的なものです。

しかし、頭でいろいろと考えているうちに、揉み消されてしまうことが多いようです。



直感は、頭脳の働きによるものではないとすると、どこから生まれのでしょうか?

直感が生まれるところは、頭脳の影に隠れて、普段は意識されることのない魂と思われます。

本当の自分の想いが魂から生まれ、直感として認識されています。



もし、良心が魂から生まれるとしても、何のために必要なのか疑問が残ります。



この世を生きている目的は、魂を成長させるためです。

死んであの世に移っても、生きる目的は魂を成長させるためです。

この世とあの世を行き来しながら、自分に足りないところを自覚し、さまざまな経験を通して学びながら成長を続けています。

この世で降りかかる困難は、誰しも避けたいものですが、乗り越えて行く過程で、魂は強く成長していきます。

また、人や周りのために、自分を役立てることで、魂は美しく成長していきます。

肉体は時と共に老いていき、やがて朽ちます。

しかし、魂は老いることなく、成長を続けて行きます。



この世に生きているのは、足りないところがある、未熟な人間だという証です。

学ぶことがないほど、完成された人間であれば、この世に生まれる必要はありません。

いざ生まれてしまうと、霊的な目は閉ざされ、目に見えるものが全てと勘違いしてしまいます。

生まれてきた目的を忘れてしまい、脇道にそれてしまいがちになります。

良心は、人間が生まれてきた目的を果たし、無事に成長していくためにある、警告装置のようなものと考えられます。



こんなことを書いている私も、今から約10年前に、良心の警告を無視して、仕事上で不正な行為をしてしまいました。

その時、自分の心の中で「本当にそれでいいのか」と、良心は確かに問いかけていました。

しかし、身勝手な言い訳を考えてしまい、その問いかけを揉み消して、行動に移してしまいました。

不正な行いが発覚し、それに対して自分が想像していた以上の処分が下されました。

その処分は、さらにさまざまな結果を生んでいき、大きな苦痛をもたらしました。

しかし、この苦痛の経験は霊的真理の受け入れにつながりました。

因果律という自然法則は、過ちの償いのためだけではなく、魂を目覚めさせ、大切なことを学ぶために働いていると言えます。

1つの出来事は、何重にも意味があることを知りました。



良心に従わなければ、いずれ後悔することになります。

自然法則に反した想いや行いは、たとえ、この世では誰にも知られず、逃げ果せたと思っても、魂にしっかりと刻まれています。

あの世に行った時に、この世の全ての想いや行いがスクリーンのようなものに映し出されます。

その時に、はっきりと自覚して、後悔します。

もし、大きな過ちをしてしまったならば、来世で償いとなる出来事を経験しなければならないかもしれません。



そんな過ちを犯して、遠回りをしないために、魂に良心が存在して、働きかけていると思います。

予定されたシナリオに従って生きて行くため、償いが生じるような誤った方向に行かないために、良心はあると思います。



それ以外にも、ありがたい働きかけがあります。

生まれてから死ぬまで、生涯に渡って見守っている存在がいます。

この世で出会い、愛してくれた人の想いは、死によって変わることはありません。

愛でつながっている、見えない存在たちから、インスピレーション(直感)として想いを受け取り、導かれています。

導きとは、あの世からの愛の表現です。

良心と、あの世からの導きは、この世を生きる人にとって、灯台のような役割を果たしていますが、もったいないことに、見過ごしてしまうことが多いと思われます。

気付いたとしても、正直になれず無視してしまったり、私のように言い訳を考えて揉み消したりしています。



良心も導きも、魂を成長させるためにありますが、なぜ魂は成長していかなければならないのか疑問が湧きます。

魂が成長することにより、より次元の高い愛が表現できるようになります。

愛とは、すべての差異を乗り越えて、1つになっていくための力だと思います。

ばらばらになったものを、1つに結び付ける力です。

すべてを結び付けている力は愛です。



すべてのものは、元は1つです。

1つのものから、別々になりました。

別々のものが、愛により、また1つになっていきます。

愛とは1つになろうとする、根源的な力です。



人と人の間にも、差異があります。

人と動物の間にも、差異があります。

完全な調和とは、別々のもの同士が差異を乗り越えて、認め合い、1つになった時に訪れます。

大きな差異を乗り越え、認め合うためには、より次元の高い愛が必要になります。

魂が成長していく目的は、完全な調和を目指し、すべてが1つになるためと考えられます。



この世界では、さまざまな出来事が起こります。

その結果、心身の調和が乱され、病気になることがあります。

また、人と人、国と国の間で調和が乱され、戦争になることがあります。

原因は複雑そうに見えて、単純なのかもしれません。

人は、愛だけでなく、怒りや憎しみや嫉妬と言った、愛に反する想いも生まれています。

怒りや憎しみなど、愛に反した想いが生まれ、それを内に秘めると、心身に不調和が引き起こされ、(霊的な)病気になると思います。

生まれた怒りや憎しみなどの想いを、外に向かって表現してしまうと、周囲との間に不調和が引き起こされ、争いになると思います。

自然法則(神の摂理)に適った想いは愛であり、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬や貪欲などは自然法則に反した想いです。

そんな想いを溜めてしまうと、因果律が働き(霊的な)病気となり、外に吐き出してしまうと争いになります。

自然法則の働きにより、愛の想いは喜びと成長が、怒りや憎しみの想いには苦痛による償いが生じるようになっていると思われます。



どちらを選ぶか、自由は与えられています。

怒りや憎しみを選べば、どこかで苦痛を伴う出来事を経験します。

しかし、誰もが苦痛を味わいたくありませんので、最終的には、愛を選ぶようになっていくと思われます。

苦痛とは、償いであり、愛を選択させる学びとなっています。

愛の大切さを学び、それを表現するようになれば、周囲との調和は取り戻されます。

病は癒えて、争いは治まってくるはずです。



春の暖かさは、きびしい冬の寒さを経験した人ほど実感します。

平和の尊さを深く知っているのは、戦争を経験した人たちです。

自由の価値を知っているのは、長い間束縛されて自由がなかった人たちです。

大切なことを学ぶために、正反対のものが用意されているのが、この世であり、正反対のものがあるからこそ、大切なものがはっきりと判るのだと思います。



目に見えている世界が全てと思ってしまうと、生きている意味や、この世で起こる出来事の意味は見つけられません。

私たちは、愛を学び、そして表現するために、生きていると思われます。

愛は、好きという感情から始まって、自己犠牲による奉仕に至ります。

仕事も、家庭も、奉仕を学ぶためにある、格好のシステムであり、表向きは、お金のためや生活のためですが、真相は、他者への奉仕に変わりありません。

この世での修練により、魂を成長させて、次に行く実存の世界での生活に備えています。

生きている目的は、魂を成長させるためであり、経験する出来事は魂を成長させる意味があります。

以前は怒りや憎しみの想いを抱いてしまった出来事を、今は許せるようになっているのであれば、それは魂が成長した証拠であり、経験は無駄ではなく、この世に生まれた意味を1つ果たしたと考えられます。



忘れてしまいたい、恥ずかしい過ちでさえも、とても大切な意味がありました。

全く必要のないように見える病気や戦争も、大切なことを学ぶために生じていると思います。

もしそうであれば、人には判らないだけで、この世で起きる出来事に、意味のないものはないのかもしれません。

そして、この世界を創造したのが、無限の叡智であり、無限の愛である神ならば、すべてに渡って自然法則が行き届いていて、完全な公平と公正が保たれているはずです。



神の存在は、証明できません。

しかし、私はこう思います。

自分の中に良心があるのは、神が内在していることの証です。

自分の中に神が内在し、その心を表現したいからこそ、愛する気持ちが生まれます。













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