人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2015年11月21日土曜日
この世は想いが肉体で表現される世界
1960年代の日本では、子供にピアノを弾かせるのが流行っていたようです。
私も、5,6歳の頃、習わされていました。
椅子に座って、じっと練習するのがいやでいやで仕方がありませんでしたが、世の中にはそれが全く苦にならなかった人もいるようです。
ピアニストの辻井伸行さんも、その一人です。
ご存知の方も多いかもしれませんが、彼は生まれながらにして全盲であり、2歳の時におもちゃのピアノを買ってもらったのがきっかけで、演奏に目覚めました。
その後、卓越した音楽的才能を開花させて、20歳の若さでヴァン・クライバーン・コンクール(米国)で、日本人として初めて優勝しました。
全盲の人が、ミスタッチもなしに最高難度の曲を弾いてること自体が驚異ですが、その音色が純粋かつ透明で、心に響きます。
目が見えれば、人の動作や表情から、何を考えているのか読み取ろうとします。
しかし、一旦、目を閉じてしまうと、顔や姿は見えなくなり、声だけしか聞こえません。
発せられる声から、込められた想いを察するしかなく、否が応でも感性は研ぎ澄まされて行くような気がします。
音楽は音の世界です。
目が見えなければ、日常生活に大きな支障をきたしますが、視覚的な情報に振り回されずに、音だけに集中できるので、音楽家にとって不利にはならないのかもしれません。
音符や鍵盤は見えませんが、心の眼は開かれていて、音から作曲家の想いを、深く読み取っていているのかもしれません。
後世にまで残る名曲は、作曲家の創作力により生み出されていると思っていました。
しかし、シルバーバーチが芸術家は一種の霊媒と言っているように、名曲の源泉は霊界にあり、そこから投げかけられるインスピレーションを作曲家がメロディーとして受け取り、それを音符に変換していると、今は思っています。
送り手である霊界の人と、この世の人の魂が同調すれば、ラジオを受信するように、降ってきたメロディーを受け取ることができると思われます。
音に込められた想いを、正確に読み取って演奏すれば、それは霊界の想いが地上に表現されたことになり、この世のものとは思えない、すばらしい演奏になると思います。
すばらしい演奏を聴くと、一時的であっても、喧騒から逃れられ、安らかで、穏やかな気持ちになれるのは、霊界の愛と平和に満ちたありさまが、音楽によって表現されているからだと思います。
最も大切な「愛」や「生命」、そして「神」の存在が、この世では物質に遮られて見えなくなってしまっているので、音楽を通して魂に伝えようとしていると思います。
音楽を通して伝えたいのは想いであり、音は媒体です。
会話も同じであり、相手に想いを伝えたいのであり、言葉は媒体です。
人間は行動する生き物ですが、想いを表現するために行動していると言えます。
肉体は、想いを表現している媒体に過ぎず、道具でしかありません。
しかし、肉体が自分だと思い、魂の存在に全く気付いていない人が、たくさんいます。
本当の自分を見失ってしまい、魂から生まれている想いに気付かずに生きている人は、とても多いと思われます。
そんな人が死ぬと、困った問題が起こります。
死んだ後も意識があるので、この世でまだ生きていると錯覚してしまいます。
表現媒体である肉体を失っているにもかかわらず、そのことが全く分っていませんので、相変わらず、この世の人に接触して来ます。
しかし、この世の人の目には全く映らず、触られている感覚もないため、無視され続けます。
自分の置かれている状況が、理解できずに、途方にくれます。
そんな人でも、生前、亡くなった親しい人が目の前に現れたり、葬式が執り行われ、棺の中で横たわっているのが自分だと判ると、ようやく死んだことに気付くようです。
それでも、どうしても死んだことが認められない人は、周囲との関係が断絶されて、孤立するようです。
周囲の人も、なす術がないために、気付くまで放って置かれるようです。
偏見に満ちた人や、物理的証拠を示せないことを理由に、魂の存在を頑なに否定する人たちが多くいますが、そんな人たちを信じてしまうと、真実が見えなくなってしまい、遠回りしてしまうことになります。
正しい知識を、できるだけ早く身に付けておくのに、越したことはありません。
人間は肉体だけの単純な存在ではなく、目に見えない精神と、その上位にある魂から成り立っています。
肉体を動かしているのが精神であり、精神に働きかけているのが魂であり、その3つが緊密に連携し合った三位一体の存在です。
魂が、本当の自分であり、生命そのものです。
魂の存在を認めてもらえれば、生きる目的が明確になります。
生きる目的は、魂を成長させるためです。
魂を成長させるために、この世では、さまざまな出来事を経験するようになっています。
苦しい経験ほど、悲しい経験ほど、魂は成長すると言われています。
つらい出来事を経験した後に、人の痛みが判るようになるのは、魂が成長した証だと思われます。
苦難に出会っても、前に進んで行かなければならないと思うのは、立ち止まっていると、自分は成長しないままで、生まれてきた目的を失ってしまうことを、魂は知っているからだと思われます。
そうは言っても、魂は目に見えるものではありません。
実感があるのもでもありません。
説明できる言葉は見つかりませんが、五感から受け取ったものに対して、主観的な回答を出しているのが魂だと思います。
茜色に染まる空を見て、綺麗だと感じているのは魂です。
にっこりと微笑む赤ちゃんを見て、かわいいと思うのも魂です。
溺れている人を見て、命がけで助けようとするのも、魂の発露です。
科学では、何故、感情や意志が生まれるのか、説明できません。
大脳を超えた魂から想いが生まれ、精神に投影されて感情や意志となり認識されていると考えられます。
現代医学も、科学に依存しているため、魂の存在を認めていません。
きわめて重大な事実を認めないために、袋小路に入ってしまっているように見えます。
人は肉体、精神、魂(霊)から構成されていて、それぞれの次元に病気の原因があるのですが、現代医学で解明が可能なのは、肉体次元に原因がある病気だけです。
従って、医学により治癒が期待できるのは、肉体次元に原因がある病気だけと言うことになります。
原因不明とされてしまう病気の多くは、霊的次元に原因がある病気であり、肉体次元で治そうとする手術や投薬等の治療は、すべて対症療法となります。
手術や薬で病気が治るのではなく、霊的次元の原因が取り除かれて、生命力が流れ込むことによって治癒が起こると考えられます。
魂の存在を認めなければ、そこから想い(思念)が生まれているのも認めないことになります。
人間は、想いを肉体で表現しながら生きています。
想いとは、肉体を突き動かす素であり、具現化させる力と言えます。
想いが心身に多大な影響を与えているのは、間違いありません。
怒りが生じれば、顔は紅潮し、脈拍は上がり、血圧も高くなります。
怒りを通り越して憎しみになれば、それ以上の影響を心身に与えていても、不思議ではありません。
宇宙の秩序が保たれているのは、自然法則が働いているためです。
石を空に向かって投げると、必ず地面に落ちてくるのは、万有引力という自然法則の働きであることを、多くの人は知っています。
けれども、人の言葉や行いの1つ1つにも、自然法則が働いてることは、あまり知られていません。
暴力を振るうと法律により罰せられるように、自然法則に反した行いには、機械的に償いが生じます。
言葉や行いには、必ず素となる想いがあります。
たとえ行動に移さなかったとしても、想いは霊的次元において実在であり、自然法則が厳格に働いています。
想いには、自然法則に適ったものと、反したものがあります。
自然法則に適った想いとは、やさしさや、思いやりや、労りといった他者が悦ぶ想いであり、また認め合い、許し合って、1つになろうとする想いです。
自然法則に反した想いとは、怒りや憎しみ、恨みや嫉妬、貪欲といった、他者に苦しみや悲しみを与える想いであり、また相手を認めず、許さず、調和を妨げる想いです。
自然法則に反した想いを外に表現すれば、周囲との間に不調和が生まれ、因果律の働きにより、苦痛を伴う結果が生じます。
例えば、相手の意見を聞かずに、自分の意見ばかりを言っている人を見かけますが、その行為は協調性に欠け、利己的であり、自然法則に反しているため、因果律の働きにより、疎外され、孤独と言う苦痛を味わうことになります。
また、今、世界中で起きている争いは、自然法則に反した怒りや憎しみや恨みの想いを表現しているので、因果律の働きにより、双方に大きな苦痛をもたらす結果が生じています。
しかし、想いを外に出さなければ良いという訳ではありません。
想いを外に表現しなければ、内に溜まって行きます。
イライラや、少し位の怒りが生まれても、おしゃべりをしたり、運動したり、趣味に興じている内に、発散(解放)されます。
しかし、深刻な出来事によって生じた想いは解放され難く、滞ることになります。
滞った想いは、魂の様相を変えて、同様の想いを生じ易くさせています。
強い憎しみの想いが内に滞っていれば、ささいな出来事でも怒り易くなります。
徐々に、そんな想いが溜まっていけば、内部に不調和が生まれてしまい、肉体に変化が生じてきます。
病気となり、結局は苦痛を味わうことになります。
世の中には、言いたいことを言って、やりたいようにやって、生きている人がいます。
そんな人は内に想いを溜めることが少ないので、大きな病気にならないかもしれません。
しかし、そのことで周りの人を苦しませたり、悲しませたりしているのであれば、病気よりも大きな償いが、後に生じてしまうのは明らかです。
想いにはさまざまあり、内に溜まると、相応の変化を心身にもたらすと考えています。
怖れや不安の想いは、心身を萎縮させるとともに、生命力の補給が円滑に行われなくなり、それに伴い精神(心)を活動させている力が不足し、精神により隠されていた、過去の怖れや不安や怒りなどの想いが表在化されます。
内に溜まった怒りや憎しみの想いは、肉体上に暴力的かつ攻撃的な細胞に、変異させる力となります。
自分を責める想いは、外敵から守っている防御機能に変化を生じさせ、自らを攻める病態となって肉体上に表現されます。
肉体は想いを表現する媒体であるため、想いの様相は肉体上に病態として表現されます。
内にある想いが、肉体上で具現化されたものが(霊的な)病気であり、すべては自然法則(因果律)が働いた結果であり、偶発的な病気は何1つとしてありません。
想いという、原因が必ず存在しています。
よって、現代医学で原因不明とされてしまう霊的な病気は、内に溜まった想いに気付くことが、根本的に治すための第一歩となります。
今までの人生の中で、最も衝撃的と思われる出来事を、いくつか思い出して下さい。
未だに信じられず、納得も出来ず、自分の中で消化されていない出来事はなかったでしょうか?
その時に感じたことを、言葉で表現して下さい。
もし言葉に表せないほどのものであれば、その出来事から強い想いが生じていて、内に滞っている可能性があります。
そんな表現できなかった想いが、心の奥にあることを、気にも留めずに生きてきましたが、今になり因果律の働きにより、肉体上に病気として表現されました。
その想いがあるために、人生に大きな影響を与えているからです。
生まれる前に決めていた、シナリオに沿った人生を、歩めなくなってしまうからです。
社会に奉仕したり、人にやさしくするどころか、むやみに怒ったり、憎んだり、妬んだりして、成長ののない人生を送ることに、つながってしまうからです。
人は、いつかは死にます。
死とともに、肉体は消滅し、自分の内にあった想いが露わになります。
そして、この世の人生を振り返る時が訪れます。
想いに引きずられ生きてしまい、予期したほどの魂の成長が得られず、生まれてきた意味を十分に果たせなかったことに気付き、後悔することになります。
(霊的な)病気は、この世に生きている内に、内にある想いに気付かせ、人生を軌道修正させるためにあります。
生まれ変わって、もう1度やり直すのではなく、この世に生きている内に、生まれ変わるためにあります。
それが許された人が病気になるのであり、新しい人生の始まりが、その先に待っているはずです。
肉体はつかの間の存在であり、魂は永続的な存在です。
なのに、この世に生きていると、魂を忘れてしまい、目に見える肉体に執着してしまいます。
肉体は、魂に従います。
魂が先で、肉体が後です。
想いが解放され、魂が癒されて、はじめて肉体上の病気が癒されます。
自分の本質は魂であり、肉体は魂を反映しているだけです。
肉体上の病気が消失するよりも、魂から想いが解放され、本来の自分を取り戻す方が、はるかに大切です。
気付かない内に、想いが膨らんでしまって、自分ではどうすることもできないほどになっていたのです。
病気という、神の摂理の働きが必要だったのです。
内にある想いに気付くためには、眠っている魂が目を覚まさなければいけません。
苦痛は、魂にまで響き、目を覚ますための準備を整えていきます。
そして、魂が目覚めれば、想いにも目覚めます。
魂から生まれている想いと、内にある想いに気付いた時、病気の目的は果たされたと言えます。
本来の自分を取り戻し、予定されていたシナリオの通りに生きて行けるようになるからです。
病気を治そうとするのでなく、内にある想いを解放して、本来の自分を取り戻して行けば良いはずです。
想いを解放させる力は、愛という生命力です。
愛でしか、解決は出来ません。
言葉にならない想いが生まれた出来事を、心から許すことにより解放されます。
許すことは、自分に愛がなければ出来ません。
病気のつらい経験は、魂は成長させるという大きな意味があります。
魂が成長した分だけ、高い愛が表現できるようになり、許せなかった出来事を、許せるようになります。
出来事を許し、前に進んで行くことが許されます。
どんなに強い怒りや憎しみの想いであっても、未熟な人間から生まれたものであり、愛という神の力には敵いません。
愛の力の前では、病気を生じさせた想いの力など、無に等しいものです。
無限に広がる宇宙の中で、限りなく小さい存在であっても、魂は神の一部としてつながっていて、愛の力を存分に受け取れます。
神に祈れば、愛という生命力が流れ込んでくる訳ではありません。
神と同調することにより、魂に流れ込みます。
神の心に、自分の心を合わせれば、同調します。
私たちはこの世のさまざまな経験を通して、大切なものに気付きます。
つらく、苦しい病気の経験を通して、愛より大切なものはないことに気付きます。
そのことに気付いた瞬間、神との同調が成立し、愛という生命力が魂に流れ込みます。
周りのものに、感謝しましょう。
そして、慈しみましょう。
とても難しいのですが、全てを許しましょう。
たとえ小さくても、少しずつであっても、愛を表現し続けていれば、内にある想いは魂との親和性を失い、自然法則の働きにより、やがて消えていくと思います。
自然法則の働きにより、愛の想いから悦びが生まれ、愛に反する想いからは苦痛が生まれます。
苦痛を通して、人を遠ざけてしまう想いではなく、愛を選択し、悦びを感じながら生きるために、この世に病気は存在します。
2015年11月8日日曜日
神は自分の中にいる
子供の時、悪さをして良く叱られていました。
小学生の時のことです。
私の家の隣に、小さな駐車場がありました。
夜、外へ出てみると、駐車場の方で何か動物が走っているのが見えたので、何を思ったのか、小さな石を拾って、そちらに向けて投げつけました。
次の朝、通学時に駐車場を通ると、1台の車のフロントガラスが蜘蛛の巣状に白くなって、割れていました。
それを見た瞬間、昨夜、投げた石が原因で、ガラスが割れてしまったとすぐに判り、とんでもないことをしてしまったと、怖くなりました。
学校に行っても、割れたフロントガラスのことが頭から離れず、気になって仕方がありませんでした。
学校から帰宅すると、そのことが近所で話題になったのか、母親から「駐車場に置いてあった車のガラスが割られたみたいけど、何か知っている?」と、聞かれました。
まずいという気持ちが表情に出たのでしょうか、母親に問い質されました。
観念して、昨夜のいきさつを話しました。
当然のことながら叱られて、車の持ち主に謝りに行って、親がガラス代を弁償することになりました。
当時の心境を振り返ってみると、悪いことをしても、ばれなっかたので、その時は胸をなでおろしました。
しばらくすると、妙に不安になり、後ろめたさが付きまといました。
結局、ばれてしまい、叱られて落ち込みましたが、不安や後ろめたさはなくなりました。
このように心が揺れ動いたのは、子供であっても良心があったためと思われます。
良心とは、善悪を判断して、行動を規制しているものです、
しかし、教えられて身に付くものではなく、生まれながらにして、人に備わっていると考えられます。
人には、それぞれの良心がありますが、一様なものではありません。
住んでいる国や文化、宗教、そして育った家庭により違い、環境により少なからず影響を受けて、変化していくものと思われます。
動物の肉を食べるのをためらう人もいれば、全く気にしない人がいるように、ある人にとって良心が咎めるものが、ある人にとっては何でもないことがあります。
良心とは、どこから生まれるのでしょうか?
「やってはいけない」と、良心が咎めるのは、頭で考えているのではなく、直観的なものであり、自分の深いところから、湧き上がって来るようです。
人のために何かをして喜んでもらうと、うれしくなります。
何故うれしくなるのかを、説明するのはとても難しいです。
もしも、人が生まれて、死んで行くだけの存在であれば、苦もなく楽しく生きるのが一番かもしれません。
自分のことだけを考えて生きていればいいのであり、人のために何かをする気持ちは、起こらなくていいはずです。
そうは言っても、人や社会のために、何かをしたいと思う気持ちがあるのは確かです。
昔、駅のホームから転落した人を助けようと思い線路に下りたところ、入ってきた電車に巻き込まれて、二人の若い男性が亡くなるという事故がありました。
事故で亡くなった人の勇気を、多くの人が褒め称えました。
自分の身体(生命)を守ろうとする気持ちは、とても強いものですが、それに逆らって、行動しようとした力は、それよりも強かったはずです。
自分の身を省みず、人を救おうとした衝動は、愛という強力な力によって引き起こされたと考えられます。
自己を犠牲にして、他者のために尽くす想いが愛であり、それは誰かに教わって身に付いたものではありません。
教わらなくても備わっているものに本能がありますが、本能は自己を守るためにあり、自己を犠牲にする愛とは、根本的に違っています。
良心と同様に、愛は生まれながらにして人に備わっているものであり、自分の深いところから湧き上がってくる想いと考えられます。
電車の中で座っていて、目の前にお年寄りが立つと、サッと席を譲る人がいます。
別に考えてではなく、ごく自然にしている様に見えます。
やさしさや、思いやりは、愛の1つの表現であり、そんな想いは誰もが持っていると思います。
しかし、自分が身体が疲れている時には、行動になかなか移せません。
想い(愛)を表現しようとしても、自分の肉体が大きな障壁となっている気がします。
また、他の人は席を譲ってないじゃないかとか、誰かが席を譲るだろうと思えば、行動に移そうとする気持ちはそがれてしまいます。
頭でいろいろ考えてしまうと、自分の想いが素直に表現できなくなるようです。
良心も愛も、内から湧き上がる直感的なものです。
しかし、頭でいろいろと考えているうちに、揉み消されてしまうことが多いようです。
直感は、頭脳の働きによるものではないとすると、どこから生まれのでしょうか?
直感が生まれるところは、頭脳の影に隠れて、普段は意識されることのない魂と思われます。
本当の自分の想いが魂から生まれ、直感として認識されています。
もし、良心が魂から生まれるとしても、何のために必要なのか疑問が残ります。
この世を生きている目的は、魂を成長させるためです。
死んであの世に移っても、生きる目的は魂を成長させるためです。
この世とあの世を行き来しながら、自分に足りないところを自覚し、さまざまな経験を通して学びながら成長を続けています。
この世で降りかかる困難は、誰しも避けたいものですが、乗り越えて行く過程で、魂は強く成長していきます。
また、人や周りのために、自分を役立てることで、魂は美しく成長していきます。
肉体は時と共に老いていき、やがて朽ちます。
しかし、魂は老いることなく、成長を続けて行きます。
この世に生きているのは、足りないところがある、未熟な人間だという証です。
学ぶことがないほど、完成された人間であれば、この世に生まれる必要はありません。
いざ生まれてしまうと、霊的な目は閉ざされ、目に見えるものが全てと勘違いしてしまいます。
生まれてきた目的を忘れてしまい、脇道にそれてしまいがちになります。
良心は、人間が生まれてきた目的を果たし、無事に成長していくためにある、警告装置のようなものと考えられます。
こんなことを書いている私も、今から約10年前に、良心の警告を無視して、仕事上で不正な行為をしてしまいました。
その時、自分の心の中で「本当にそれでいいのか」と、良心は確かに問いかけていました。
しかし、身勝手な言い訳を考えてしまい、その問いかけを揉み消して、行動に移してしまいました。
不正な行いが発覚し、それに対して自分が想像していた以上の処分が下されました。
その処分は、さらにさまざまな結果を生んでいき、大きな苦痛をもたらしました。
しかし、この苦痛の経験は霊的真理の受け入れにつながりました。
因果律という自然法則は、過ちの償いのためだけではなく、魂を目覚めさせ、大切なことを学ぶために働いていると言えます。
1つの出来事は、何重にも意味があることを知りました。
良心に従わなければ、いずれ後悔することになります。
自然法則に反した想いや行いは、たとえ、この世では誰にも知られず、逃げ果せたと思っても、魂にしっかりと刻まれています。
あの世に行った時に、この世の全ての想いや行いがスクリーンのようなものに映し出されます。
その時に、はっきりと自覚して、後悔します。
もし、大きな過ちをしてしまったならば、来世で償いとなる出来事を経験しなければならないかもしれません。
そんな過ちを犯して、遠回りをしないために、魂に良心が存在して、働きかけていると思います。
予定されたシナリオに従って生きて行くため、償いが生じるような誤った方向に行かないために、良心はあると思います。
それ以外にも、ありがたい働きかけがあります。
生まれてから死ぬまで、生涯に渡って見守っている存在がいます。
この世で出会い、愛してくれた人の想いは、死によって変わることはありません。
愛でつながっている、見えない存在たちから、インスピレーション(直感)として想いを受け取り、導かれています。
導きとは、あの世からの愛の表現です。
良心と、あの世からの導きは、この世を生きる人にとって、灯台のような役割を果たしていますが、もったいないことに、見過ごしてしまうことが多いと思われます。
気付いたとしても、正直になれず無視してしまったり、私のように言い訳を考えて揉み消したりしています。
良心も導きも、魂を成長させるためにありますが、なぜ魂は成長していかなければならないのか疑問が湧きます。
魂が成長することにより、より次元の高い愛が表現できるようになります。
愛とは、すべての差異を乗り越えて、1つになっていくための力だと思います。
ばらばらになったものを、1つに結び付ける力です。
すべてを結び付けている力は愛です。
すべてのものは、元は1つです。
1つのものから、別々になりました。
別々のものが、愛により、また1つになっていきます。
愛とは1つになろうとする、根源的な力です。
人と人の間にも、差異があります。
人と動物の間にも、差異があります。
完全な調和とは、別々のもの同士が差異を乗り越えて、認め合い、1つになった時に訪れます。
大きな差異を乗り越え、認め合うためには、より次元の高い愛が必要になります。
魂が成長していく目的は、完全な調和を目指し、すべてが1つになるためと考えられます。
この世界では、さまざまな出来事が起こります。
その結果、心身の調和が乱され、病気になることがあります。
また、人と人、国と国の間で調和が乱され、戦争になることがあります。
原因は複雑そうに見えて、単純なのかもしれません。
人は、愛だけでなく、怒りや憎しみや嫉妬と言った、愛に反する想いも生まれています。
怒りや憎しみなど、愛に反した想いが生まれ、それを内に秘めると、心身に不調和が引き起こされ、(霊的な)病気になると思います。
生まれた怒りや憎しみなどの想いを、外に向かって表現してしまうと、周囲との間に不調和が引き起こされ、争いになると思います。
自然法則(神の摂理)に適った想いは愛であり、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬や貪欲などは自然法則に反した想いです。
そんな想いを溜めてしまうと、因果律が働き(霊的な)病気となり、外に吐き出してしまうと争いになります。
自然法則の働きにより、愛の想いは喜びと成長が、怒りや憎しみの想いには苦痛による償いが生じるようになっていると思われます。
どちらを選ぶか、自由は与えられています。
怒りや憎しみを選べば、どこかで苦痛を伴う出来事を経験します。
しかし、誰もが苦痛を味わいたくありませんので、最終的には、愛を選ぶようになっていくと思われます。
苦痛とは、償いであり、愛を選択させる学びとなっています。
愛の大切さを学び、それを表現するようになれば、周囲との調和は取り戻されます。
病は癒えて、争いは治まってくるはずです。
春の暖かさは、きびしい冬の寒さを経験した人ほど実感します。
平和の尊さを深く知っているのは、戦争を経験した人たちです。
自由の価値を知っているのは、長い間束縛されて自由がなかった人たちです。
大切なことを学ぶために、正反対のものが用意されているのが、この世であり、正反対のものがあるからこそ、大切なものがはっきりと判るのだと思います。
目に見えている世界が全てと思ってしまうと、生きている意味や、この世で起こる出来事の意味は見つけられません。
私たちは、愛を学び、そして表現するために、生きていると思われます。
愛は、好きという感情から始まって、自己犠牲による奉仕に至ります。
仕事も、家庭も、奉仕を学ぶためにある、格好のシステムであり、表向きは、お金のためや生活のためですが、真相は、他者への奉仕に変わりありません。
この世での修練により、魂を成長させて、次に行く実存の世界での生活に備えています。
生きている目的は、魂を成長させるためであり、経験する出来事は魂を成長させる意味があります。
以前は怒りや憎しみの想いを抱いてしまった出来事を、今は許せるようになっているのであれば、それは魂が成長した証拠であり、経験は無駄ではなく、この世に生まれた意味を1つ果たしたと考えられます。
忘れてしまいたい、恥ずかしい過ちでさえも、とても大切な意味がありました。
全く必要のないように見える病気や戦争も、大切なことを学ぶために生じていると思います。
もしそうであれば、人には判らないだけで、この世で起きる出来事に、意味のないものはないのかもしれません。
そして、この世界を創造したのが、無限の叡智であり、無限の愛である神ならば、すべてに渡って自然法則が行き届いていて、完全な公平と公正が保たれているはずです。
神の存在は、証明できません。
しかし、私はこう思います。
自分の中に良心があるのは、神が内在していることの証です。
自分の中に神が内在し、その心を表現したいからこそ、愛する気持ちが生まれます。