2015年2月5日木曜日

憎むのではなく哀れむ


中東の地で、日本人とヨルダン人の尊い命が奪われました。

残虐な手法で、罪のない人間の命を、躊躇もせずに奪う、とても同じ人間のすることとは思えませんでした。

殺された2人の恐怖と、残された人の悲しみを思うと、怒りのようなものが心に湧き上がってしまい、危うく敵意や憎しみに変わってしまいそうでした。




少し冷静になって、考えてみました。

あれだけの残虐で卑劣な行為ですから、多くの人に怒りを通り越して、憎しみが生じてもおかしくありません。

非道な人たちを壊滅させようとする機運が高まり、国家による武力行使が行われていますが、反対する者はほとんどいません。

一見すると、世界の平和を維持するために、適切な行動のように思えます。




しかし、それは避けるべき行動であるのかもしれません。

彼らは、暴力でしか自分を表現できなくなってしまった人たちだと思われます。

その原動力となっている想いは、怒りであり、憎しみであり、恨みであると思われます。

それぞれに、その想いを生じさせた出来事が、過去にあったと思われます。

親しい人を理不尽な暴力により奪われたかもしれません。

非人道的な行為を、受けたのかもしれません。

社会から抑圧され、無視され、迫害されたと、思い込んでいるかもしれません。

内で燃え盛る想いを、暴力により表現したがっています。




彼らは、同じ神を信じる、理想の国をつくりたい訳ではありません。

心の大部分を、強い憎しみや恨みの想いが占めていて、それを暴力によって表現しようとする人たちの集まりのように思えます。

世界中から、怒りや憎しみ恨みや、強い現状への不満を抱えた人たちが、吸い寄せられるように集まってきているように見えます。

法の行き届かない地域で、同じ想いに駆られた者が集団となり、憎しみや恨みを増幅させ、はけ口として、狂気とも思える行為が日常的に行われています。

そこには大義はなく、怒りや憎しみという負の感情で団結し、暴力により世の中を混乱させて、自己の存在を主張しているように見えます。

残虐な行為により人の命を奪い、その力を外に向かって誇示しています。




神の摂理に反した怒り、憎しみや恨みの想いからは、神の摂理に反した表現(行動)しか生まれません。

神の名の下に行っている行為は、神の心からあまりにもかけ離れていることが、全く分っていません。

神の名を利用した残虐な行為は、神を冒涜する最も罪深い行為の1つであることに、全く気付いていません。




神の心からかけ離れた、残虐な行いをする人であっても、その魂は神の一部であり、繋がりは絶たれたことはありません。

のどもとに刃を突き立て、切り裂こうとする前に、「本当にこんなことをして良いのか」と、内から魂の声を聞いていたはずです。

たとえ、わずかであっても慈悲の心は存在し、神の摂理に反する行為に対して、抵抗していたはずです。

残念ながら、神の声を無視して、行動に移してしまいました。




神を冒涜した行為であっても、神が怒って、天罰を加えるわけではありません。

自然法則である、因果律が厳格に作動するだけです。

後になり、自分の想いや行いを、償うための出来事が必ず生じることになります。

もし償われないうちに、死んでしまっても関係ありません。

肉体がなくなっても魂は存続し、この世の罪のすべてが刻み込まれています。

自然法則に従い、人は死んだ後に、魂に刻み込まれている、この世の想いや行いの全てが映し出されて、それを見ることになります。

自分が犯した残虐な行為が、いかに人に悲しみや苦しみを与えたかを、目の当たりにします。

罪を自覚して、深く後悔して、強い自責の念に苛まれます。

とても苦しく、いたたまれない状態になると考えられます。

まさしく、針のむしろです。

そこから抜け出すためには、犯した罪を償わなければいけません。

罪を償うために、自ら志願して、この世にまた生まれて来ることになります。

大きなカルマ(罪)を背負い、想像もできないほど過酷な人生になるのは間違いありません。




従って、いかに残虐で卑劣な行為であっても、怒ったり、憎んだり、恨んだりする必要はありません。

自然法則により、その報いを、自らが容赦なく受けるからです。

真実はそうですが、もし親しい人が同じ行為を受けたのなら、怒りの感情を抑えるのが難しいのも確かです。




憎しみの連鎖という言葉があります。

憎しみを表現してしまえば、相手から憎しみを表現される。

その表現を受けて、憎しみがさらに増して、強い表現となり、相手に返す。

さらに、強い表現となり、自らに返ってくる。

因果律の働きにより、不毛な憎しみの表現の応酬が、際限なく続いていきます。




襲ってくる相手に、反撃をするのは、自分の身を守るための正当防衛であり許されます。

殴られたら、反射的に殴り返してしまうこともあります。

ただ、憎しみやの想いを込めて殴り返したら、相手にその想いは伝わり、憎しみの想いをさらに増して、殴り返してくるでしょう。

行動(表現)の裏には必ず想いがあり、その想いが摂理に反しているのであれば、何らかの苦痛を伴う結果が返ってくると思われます。




怒りや憎しみに満ち溢れた戦場は、信じられないことですが、今の彼らにとって、自己表現が許され、心の安定が得られる場所と思われます。

平穏で、愛に満ちた世の中では、自分の想いを表現できないために不満であり、居心地が悪いのかもしれません。

戦場の中では、思う存分、自らの想いを吐き出すことができるため、身を投じる人が世界中から集まってきている様に見えます。

怒りや憎しみや恨みの想いが集団の中で増幅され、理性は失われて、残虐な行為に駆り立てられていくのかもしれません。




テロに屈しないと政治家は口を揃えて言います。

テロに屈するとは、相手の思うがままにさせたり、要求を受け入れてしまうことではなく、平穏な心を失い、怒りや恐怖の感情に捉われてしまうことかもしれません。

もし、怒りや憎しみの感情で心が支配されたならば、相手の想いに同調してしまったことになります。

相手の想いを読み取り、冷静に対応しなければいけません。

それは逃げでも、臆病な行為でもなく、最も勇気と忍耐が必要とされる行為だと思います。

相手は、こちらの想いに敏感に反応して、それに合わせて対応してきます。

世の中が、怒りや憎しみの想いで満たされていけば、不穏な空気が立ち込めていき、戦場は拡大していくでしょう。

結束して消滅させようとしても、共有する想いが神の摂理に反する怒りの想いであれば、その結果として新たな悲劇が生まれ、苦痛を経験しなければならないのかもしれません。

たとえ、武力により組織が消滅したかに見えても、怒りの想いが残っている限り、闘いは続いていくと思います。




あくまでも、神の心である愛を基調とした精神で臨まないと、最善の結果は得られません。

そんな甘い考えでは、相手が増長するだけであり、ますます被害が大きくなると言われるかしれませんが、それでも正しいと信じています。

こちらが拳を振り上げたならば、それは相手の望むところであり、迷うことなく拳を上げて戦ってくると思います。

とても難しいことですが、こちらが怒りや不安を表さずに、毅然とした態度で臨めば、因果律の働きにより、相手は殴りかかることはできません。

そのことは、20世紀半ばのインドの独立運動で証明されました。

非暴力は、受け身のように見えますが、神の摂理に適った最善の方策であり、最終的に目的は達成され、恒久的な平和につながっていくと思います。




神の法則を無視する者は、神の法則などないとこちらに思わせるような行動をしてきます。

神の名を叫びながら、実は「神などはいない。力あるものが、世の中を支配する」と、思っています。

真の姿は、暴力の中に、自らの表現を求めた、哀れな人たちです。

もし暴力で反撃したならば、彼らは活気付いて、暴力による自己表現をして返してくるでしょう。




彼らに、生命を脅かされている人たち、住む家を奪われた人たち、自由を奪われた人たち、また暴力に怯える人たちを、世界の国々は協力して救わなければいけません。

正義を守るための、力の行使は正当であり、必要です。

爆弾を投下して、ミサイルや銃を使用すれば、大きなダメージを与えることになるでしょう。

しかし、彼らにとって一番耐えられないのは、静観され、哀れみの目でみられることだと思います。

同情されたり、哀れみを受けるほど、屈辱的で、期待を裏切る行動はありません。

世界中の人たちが、彼らの行為に静かに異を唱えるとともに、哀れむ。

これほど相手の力を削ぐ行動は、存在しないと思います。

哀れむ相手には、怒りや憎しみの想いが無いため、手が出せません。

怒りや憎しみや恨みの想いの補給路は絶たれて、結束力は弱まり、力を失い、やがて自然消滅していくと信じています。




愛に根ざした想いでしか、真の平和を実現することはできないと、あらためて思います。

長い時間をかけて、苦痛を伴いながら、愛を学び、少しずつ恒久的な平和が実現していくのだと思います。




自分の想いは目に見えなくても、他者の魂に伝わっていて、影響を与えています。

携帯電話の電波ではありませんが、自らの想いは他者に向けて発信されていて、同調する魂に受信されています。

想いは、脳内に限定された実体の無いものではなく、この世において具現化する力となって働いています。

怒りや憎しみや恨みの想いは争いとなり、愛の想いは平和となって、具現化していきます。

世の中に怒りや憎しみの想いが満ち溢れないように、平和になるように、愛に根ざした想いを抱いていたいと思います。

憎むのではなく哀れむように、私は努力していきたいと思います。




「目を閉じて、じっと我慢。

怒ったら、怒鳴ったら、終わり。

それは祈りに近い。

憎むは人の業あらず、裁きは神の領域。

そう教えてくれたのは、アラブの兄弟たちだった。」



これは、亡くなった後藤健二さんの残したメッセージです。

世界の人たちに向けた、遺書のように感じます。




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