人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2015年1月26日月曜日
ガンの自然治癒
昔、大きなホテルに泊まると、ベッドサイドに良く聖書が置いてありました。
手にとって開いてみると、抽象的で、意味の分からないことが、小さな文字で書かれていました。
外国人にとっては、とても馴染み深い本で、読むと心が安らぎ、早く眠りに就けるのかなと思ったりもしましたが、日本人で、しかも宗教に全く関心のない私にとって無縁のものであり、1ページも読めないまま閉じてしまいました。
そんな私でも、イエス・キリストが数々の奇跡を起こしたことは、知っていました。
イエス・キリストの死後の復活は、良く知られています。
その他にも、水をぶどう酒に変えたり、空のかごがパンで満たされたり、弟子たちの前で水の上を歩くといった、奇跡を起こしたと伝えらています。
病の癒しも有名であり、盲目の人の目が見えて、重い皮膚病(ライ病)の人が癒されて、からだの麻痺した人が歩けるようになったと、言われています。
しかし、当時は、そんなことが実際に起こったとは、とても思えませんでした。
人は理性的な動物であり、この様な現象をいくら他人から言われたとしても、信じられるものではありません。
生活していく上で関係なければ、真偽のほどは、どうでも良いのかもしれません。
以前は全く興味のなかった人間が言うのもおかしいのですが、上記の奇跡と呼ばれる現象は、すべて実際に起きた出来事であると、今は信じています。
イエス・キリストは、人々を驚かせようとしたり、憐れみの気持ちだけから、このようなことをしたのではありません。
目に見えない力が存在していることを、公衆の前で奇跡とも思える現象として見せて、証明するためでした。
それを通して、「神の国」について教え伝えることが、最終的な目的でした。
弟子や、当時のイスラエルの人たちが、あれほどまでイエス・キリストを信奉したのは、奇跡と呼ばれるような現象を、実際に目の前で見せられ、経験したからであり、もしそうでなければ、これほどまで強烈に、教えを信じ、命をかけて伝えていくことはしなかったでしょう。
聖書に書かれている奇跡は、イエスの教えを広めていく上で、必要だったと思われます。
そして、イエス自らが、聖書に書かれている教えを体現し、愛に貫かれた人生を送っていたからこそ、世界中に広まっていったのではないかと思います。
イエスの癒しの力は、特別な力ではありません。
傷口を治したり、風邪を治したり、すべての病気を癒す、自然治癒力と同じ力です。
ただし、イエスは並外れた力を、病人に流入させることが出来たと思われます。
今まで、病気で苦しんでいた人が、瞬時に癒されたならば、とても驚くとともに、歓びを感じるでしょう。
少なくても病が癒された人にとって、その力は神からのものであると言われても、違和感はなかったと思われます。
ひどかった苦痛から解放されたならば、神は愛であると言われたとしても、素直に受け入れる人も、多かったのではないでしょうか。
しかし、イエスの力により、誰もが癒されたのではありません。
イエスといえども、因果律の働きに介入することは、出来ません。
病気になって間もない人で、(自然法則に反した)過ちが十分に償われていないなければ、イエスの力をもってしも病気は癒やされなかったはずです。
奇跡と呼ばれる出来事は、あくまでも自然法則に則って、生じています。
イエスの力により、過ちが赦されることはありません。
過ちは、苦痛の経験により、償われます。
長い年月、苦痛を味わい、償いが終わりにさしかかった人が、導かれて来て、イエスにより癒されました。
その癒しにより、多くの人は魂が目覚めて、神を見出したと思われます。
病気は、因果律の働きにより生じます。
何らかの原因があって、その結果として病気が生じています。
多くの病気は、自然法則(神の摂理)に反した、生き方や考え方をしてしまったことが原因となって、生じていると思われます。
自分(魂)のさらなる成長を望み、あえてこの世で病気になる人生を選択して、生まれてきた人もいます。
いずれにしても、病気の目的は、自然法則の存在を知り、自分(魂)を成長させるためにあると思われます。
イエスによる癒やしが行われてから、約2000年経ちたました。
近年、科学技術は著しく発展し、世界は大きな変貌を遂げました。
医学の進歩は目を見張るものがあり、多くの人がその恩恵を受けています。
一昔前では命を落としていた、急性疾患、感染症、外傷などの患者を、救うことができるようになりました。、
診断技術や診断機器は著しく向上し、病気の早期発見、早期治療が可能となりました。
また、遺伝子レベルでの診断や、リスク因子の解明などが急速に進んできており、病気の予防に貢献していると思われます。
それにもかかわらず、日本においてガン罹患者の数は増え続け、毎年30万人以上の人が、ガンで亡くなっています。
平均寿命が延びているという理由だけでは、とても説明がつきません。
根本原因が未だ不明なため、予防策は立たず、根本治療が確立されていないためと考えられます。
有効性に少なからず疑問を持ちながらも、他に頼るすべがないために、現代医学による治療を受けている人も、少なくないと思われます。
未踏の領域に根本原因があり、ルビコン川を渡って踏み込んで行かない限り、根本から治癒させるのは、難しいのかもしれません。
現代医学による治療を、積極的に受けたにもかかわらず、多くの人が亡くなっていく中で、予想に反して自然治癒が起きた人もいます。
医学的に説明がつかないために、多くの医者は、偶然とか、例外として片付けてしまい、見向きもしません。
とても残念なことだと思います。
なぜなら、そんな人たちの中に、ガンという病気の真相を、究明する糸口があると考えられるからです。
医学的な説明がつかない、ガンの自然治癒(退縮)が生じた人たちに共通しているのは、自己変革が起きたと言うことです。
ガンという深刻な病気を経験して、生き方や考え方が、大きく変化しています。
ガンの治癒(退縮)と自己変革には、関係があるのでしょうか?
私は、ガンの主因は、物質的な次元にないと思っています。
目に見えない、霊的次元にあると考えています。
人は、肉体と精神と魂(霊)により構成されています。
肉体は、魂の表現媒体です。
魂で生じた想い(思念)は、言葉、表情や行動となり、肉体により表現されています。
魂のありさまの変化は、肉体の変化として表れる時があります。
ガンは、魂のありさまの変化が、肉体上に表れたものと考えています。
魂のありさまを変化させているのは、自らの想いです。
過去にあった出来事から生じた、(肉体により)表現されなかった想いです。
つまり、ガンは表現されなかった想いが魂に滞り、肉体上に反映されたものと考えています。
その想いは、怒り、憎しみ、恨み、あるいは言葉にならない愛に反する想いであり、幼かったり、想いが強すぎたために、肉体で表現されませんでした。
その想いがあるために、その後に起きるさまざまな出来事で、同様の想いが生まれてしまい、不自然な生き方や考え方に変えてしまうほど、大きくなっていったと考えられます。
従って、表現されなかった想いを解放して、自然な生き方や考え方に変えていけば、ガンは癒やされるはずです。
しかし、それは容易なことではありません。
いくら想いを解放しようと思っても、根が深いものであり、容易に解放できるものではありません。
生き方や考え方を変えようと思ってみても、簡単に変えられるはずはありません。
やはり、ガンの自然治癒(退縮)は偶然なのでしょうか?
そうではなく、自然法則に則って治癒すると考えています。
自然治癒した人の多くは、医者から見放された人や、苦悩の末に現代医学に見切りを付けた人だと思われます。
他の多くのガン患者よりも、むしろ過酷な立場に置かれていた人のように見えます。
さまざまな事情によって、医者から遠ざかり、自らに全てが背負わされた人であり、その孤独感は計り知れないと思います。
眠れない日々を過ごし、恐怖をいやというほど味わい、涙を流しながら苦痛に耐えてきた人たちだと思います。
苦痛や症状がひどくなるたびに、得体の知れないガンに怯え、心身ともに追い詰められていったのではないかと思われます。
頼るものは何もなく、逃げる場所はどこにもありません。
いくら考えてみても、どう願ってみても、ガンから逃れることはできません。
現実味を帯びてきた死と、真正面から向かい合わなければいけません。
それは、今までの人生を省みて、生きる意味を、自分自身に問い質すことにつながります。
その答えは、いくら頭で考えても得られません。
さらに深い部分へ、無意識に問いかけていくことになります。
答えの希求により、それまで沈黙していた魂が揺り起こされます。
そして、長い眠りから目を覚まします。
魂は本当の自分であり、いつわりのない自分であり、その答えとともに、進むべき道を指し示します。
魂の目は見開かれて、本当に大切なことが、はっきりと見えるようになります。
余命宣告を受けた人の気持は、経験のない私にはわかりません。
大きな衝撃を受け、受け入れるまでに時間が必要ですが、その後に、私ならどうするか、想像力を働かせて考えてみました。
あと10年命があれば、やるべきことの優先順位を付けて、余裕をもって生きていくでしょう。
あと1年命があれば、悔いのない様に、出来る範囲でやりたいことをして、これまでお世話になった人に、あいさつをしていきます。
あと1ヶ月命があれば、じたばたせずに、心穏やかに過ごすでしょう。
あと1日命があれば、自分の一生を静かに振り、家族と手を握り合いながら、感謝の気持ちを伝え、その時を迎えるでしょう。
もし、残された時間が、たった10秒であれば、すべてに感謝し、身を委ねるでしょう。
有り余る時間の中で、大切なものを見失ってしまい、限られた時間の中で、真に大切なものを見出すのかもしれません。
残された時間が短くなるにつれ、余分なものは削ぎ落とされていき、生の意味が姿を現していくようです。
ありったけの愛を表現し、感謝する以外に、何も見当たりません。
最後の言葉は、きっと「ありがとう」でしょう。
生命にかかわる病気になれば、生命について思いを巡らします。
残された時間が少なければ、真剣に、ありのままに生きようとすると思います。
ガンは表面的には、肉体蝕み、死に至らせる怖い病気に見えますが、深層は、生きる意味を自らに真剣に問うことで、魂を目覚めさせ、大切なものに気付くために存在していると思います。
自分(魂)を成長させるためにある、自然法則の1つです。
そして、残された時間が少ないと宣告された人、苦痛が大きい人、苦境に立たされた人ほど、魂が目覚めやすくなると思われます。
その危機的な状況が、魂に響くからです。
多くの人は危機的状況に陥った時に、周りに頼るものがあれば頼り、逃げる場所があれば逃げ込みます。
それは、身の危険を回避するために、当然の行動と思われます。
ガンになれば、ほとんどの人は医者という病気治療の専門家に、全てを託します。
そして、死を回避する治療が始まります。
死から逃れるために、すがるものがあれば、すがります。
そして、人為的な苦しみの中で、少しずつ、心身が疲弊していくように思われます。
正面から生と死と向きあい、大切なものを見出す機会が、失われてしまうような気がします。
禍を転じて福となす。
自然治癒した人は、その逆境が、魂が目覚める好機となったのかもしれません。
苦痛の日々により償いを果たし、逆境を乗り越えていく中で魂が向上し、機が熟してきたと思われます。
そして、魂が目覚め、大切なものに気付き、自己変革が起きて、生き方や考え方が変わっていったと思います。
愛という生命力により、ガンを生じさせた表現されなかった根強い想いが解放され、魂が癒やされて、肉体が癒やされたと考えています。
表面上は奇跡的に見えても、自然法則に則って、治癒したと思われます。
ガンは、複雑怪奇に見えて、実は単純明快な病気かもしれません。
本来の自分を取り戻すためにガンになり、本来の自分を取り戻せたのなら、その役目を終える。
自然治癒は、本来の自分を取り戻した結果である。
実際に、自然治癒した人の中には、自然な生き方になり、自分らしさを取り戻したと感じ、ガンになったことをに感謝している人も、多く見受けられます。
2000年前にイエスにより病が癒やされた人も、現代においてガンが自然治癒した人も、同じ自然法則に則って癒やされたと考えています。
償いが終わる時期に来た人が、イエスの力によって病が癒やされて、魂が目覚めて、そして神を見出す。
苦痛の日々が償いとなり、逆境の日々により魂が目覚め、大切なことに気付き、そして病が癒される。
時代と、過程は違いますが、同様に魂が目覚め、同じ生命力により癒やされていると思われます。
神を見出すことも、大切なことに気付くことも、実は同じであり、愛に目覚めることだと思います。
魂は神の一部であり、自らの中にも神がいるからこそ、最も大切なことは愛であることに気付くのだと思います。
ところで、愛に目覚めるのが、それほどまでに、重要なことなのでしょうか?
この世を生きている意味は、自分(魂)を成長させるためです。
自分を成長させるのは、他者に愛を表現することであるため、きわめて重要で、意味のあることです。
愛に目覚めた時から、生まれてきた意味を成就する人生が始まると言って良いのかもしれません。
肉体上の病気の変化よりも、大切なものに気付き、想いが解放され、魂が浄化される方が、大きな意味を持つと考えています。
なぜなら、本当の自分は魂であり、肉体は魂の表現媒体に過ぎないからです。
物質的なことよりも、魂から生まれる想い、そして行いが摂理(愛)に適っているかどうかが大切です。
ガンになり、それまでの生き方や考え方を改めた人は多くいます。
それでも、亡くなっていった人は、残念ながら多くいます。
魂が癒やされれば、自然法則により、肉体も癒やされるのですが、肉体上の病変を消失させるためには、神から与えられた機能が正常に働かなければいけません。
その機能を妨げる人為的な治療により、自然法則が働くのが妨げられます。
償いが終わる時期が来て、魂が目覚め、癒やされたとしても、肉体は生命力により癒されなくなってしまいます。
ガンを知り、恐がらずに、自らの力を信じて、勇気を持ち続けることが、何より大切だと思います。
私にも言い聞かせなければならないことですが、残された時間はあと1日と思って、今日を大切に生きましょう。
大切なことに気付き、今を大切に生きていれば、ガンの存在する理由はどこにもありません。
参考ページ: 「ガン(癌)は怖くない!」
「ガンは愛により癒される」
2015年1月12日月曜日
亡くなった愛する人とつながる
亡くなった人の姿を、この世の人は2度と見ることは出来ません。
声を聞くことも、出来ません。
からだに触れることも、出来ません。
目の前から、跡形もなく消えてなくなりました。
亡くなった人は、記憶の中に生きていると、よく言われます。
思い出の中で、生き続けているとも言われます。
それは、慰めに過ぎないのかもしれません。
記憶や思い出の中に、生きているのではありません。
自己表現のために、肉体を必要としなくなった世界で、生きています。
証拠もないのに、良くそんなことを断言できるなと、お叱りを受けてしまうかもしれません。
ガリレオ・ガリレイではありませんが、「それでも、肉体のない魂として生きている」としか、言いようがありません。
死んで無になってしまうのか?
それとも、生き続けるのか?
科学的な検証実験によって白黒の決着を付けるとすれば、魂の存在を証明する術がないために、死んで無になってしまうと結論付けられそうです。
生命の本質を、科学的に突き止めた人は、未だにいません。
それにもかかわらず、生命の存在を否定する人はいません。
科学的に立証されていない生命は否定せずに、魂の存在を否定するのは、いつもどうしてだろうと思ってしまいます。
あらゆる生命体は、変化したり、活動しているのを、目で確認できるため、存在を実感できます。
しかし、実感があるのは、あくまで生命体であり、生命ではありません。
生命は、生命体から体(肉体)を差し引いた、未知なるものです。
その未知なるものこそ、魂です。
生命は肉体に宿った魂であり、肉体は死んで消滅したとしても、魂は変わることなく生きています。
偏見を持たずに、素直に、できるだけ多くの人に、肉体は消滅しても魂として生き続けているという、厳粛な事実を受け入れて欲しいと願っています。
そして、この世をいかに生きてきたかによって、あの世の自分が変わってくる「因果律」という自然法則が、常に働いていることをも、併せて知ってもらいたいと願っています。
知識はないよりも、あった方が良く、遅いよりも、早く知っておいて損はありません。
死とは、肉体と魂の分離であり、故人は次の世界で生き続けているのは、少なくても私にとって、動かしがたい事実です。
私にとって事実であるのに、多くの人にとっては客観的にはっきりと示されないために、事実とならないのは、どうしてなのか考えてしまいます。
愛する人を亡くして、打ちのめされた経験のない私が事実を受け入れて、最愛の人を亡くされて、悲嘆にくれる毎日を送っている、事実を最も必要としている人が受け入れられないのには、きっと理由があると思います。
魂として生き続けているという事実を、一目瞭然の現象として示されないのは、なぜなのか考えてみました。
もし、死んだ人の魂(霊体)が、薄明かりのように肉眼で見えたとしたら、確かに生きて存在していることを、誰もが納得します。
愛する人が亡くなっても、そばにいてくれるのが分かるので、大きな安心をもたらすでしょう。
しかし、肉体はもうありませんので、会話は出来ません。
笑い声も、聞くことは出来ません。
肌のぬくもりも、感じることは出来ません。
近くにいるのは分っているのに、意思の疎通は全く出来ずに、肌と肌で触れ合うこともできないとしたら、どう思うのでしょうか。
私でしたら、愛する人が何を考え、何が言いたいのか、どうしても知りたくなります。
現状に苛立ちを感じ、一刻も早く自分も同じ所に行って、生前と同じように意志の疎通を図りたいという、衝動に駆られてしまうかもしれません。
愛する人を亡くしていない人でも、考えが変わってしまうかもしれません。
「こんな大変で、つらい思いをするのならば、次の世界に行って、新しく生き直した方がいい」と、思ってしまう人がいるかもしれません。
「(肉体は)死んでも、生きているなら、面倒なことは死んだ後にすればいい」と、考える人がいるかもしれません。
「この世よりも、あの世の方が、すばらしい人生かもしれない」と、希望を持つ人がいるかもしれません。
この世の全ての人に、確定的な事実となってしまえば、自然法則の働きを知らずに、この世から逃避をしてしまう人がいるのではないかと考えられます。
生きている意味は、自分(魂)を成長させるためです。
自分を成長させるために、人生で降りかかる出来事を乗り越えていかなければいけません。
苦難や障害は不幸にさせるものではなく、自分に与えられた試練です。
人生最大の試練で、とても耐えられそうにない出来事ほど、必死に、懸命に生きることを迫られ、そんな時ほど自分(魂)は成長しています。
険しい山道が続く人生よりも、できれば平坦な道が続く人生を、多くの人は望みます。
険しい山道が続くほど、到達する頂は高いように、苦難や障害が大きいほど、自分(魂)をより高みに導いているのですが、最中にあっては、ただ苦しく、つらく、悲しく、そこから一刻も早く抜け出したいと思うばかりです。
そんな時に、次の世界があることが、はっきりと分っていたら、この世の苦しみから逃れようとする人は、きっと多くなると思います。
どんなに苦しく、つらく、悲しくても、途中で放棄して、自らの意志により次の世界に逃避するのは、大きな過ちであることを知らないままに。
自然法則は、厳格に働きます。
相等の償いをしなければいけなくなります。
愛する人に逢いたくても、絶対に逢えません。
次の世界で待っているのは、解放された歓びではなく、限りなく深い後悔の想いです。
後悔の想いから解放されるために、今よりもさらに過酷な苦難や障害が待ち受ける人生を選んで、この世に再び生まれて、やり直すことになると思われます。
以上より、全ての人にとって明白な事実とならないのは、この世を真剣に生きるため、逃避する過ちを犯さないためと、私は考えます。
それでも、亡くなった人の魂は存在しているという確証を持ちたい人はいます。
いくら文字の上で、魂として生きていると書かれていても、信じられない人がほとんどです。
しかるべき霊能者から、亡くなった人のメッセージを受け取り、それが自分にしか知り得ないことであれば、生きているという確かな証となるでしょう。
そんな信頼に値する霊能者に巡り合える人は、少ないのかもしれません。
大きなアンテナが付いている受信機は、微弱な電波をキャッチすることができるのと同じで、霊能者は、霊界からのメッセージを受け取る感度が、特に優れている人です。
しかし、それは特別な能力ではなく、すべて人の魂に、想い(思念)の受信機能が備わっていて、亡くなった人の想いは受け取れるはずです。
少しずつ感度を良くして、条件を整えていけば、想いを受け取ることが出来る日がきっと来ると、私は思っています。
しかし、魂の存在など信じられず、そんなことはありえないと思っているのであれば、受信機の電源は切られています。
とりあえず、先入観や疑いの念は脇に置き、亡くなった人は生きていると、心から信じるようにしましょう。
多くの優れた芸術は、次の世界からのインスピレーションにより生まれています。
その瞬間を、小説家は言葉が降りてくる、美術家は映像的イメージが浮かんできた、音楽家はメロディーが降ってきたと表現しています。
モーツァルトもダビンチも、インスピレーションを正確に受けとる感度と、それを忠実に表現できる才能に恵まれていた人です。
インスピレーションの送り主は、同じ想いを持つ霊界の人たちです。
偉大な芸術ほど、霊界の実相を忠実に表現しているため、生命と愛の本質を的確に捉えています。
生命と愛の本質を捉えているので、観る人、聴く人の魂に深く響きます。
芸術家に限らず、頭をよぎった、突然ひらめいた、ふと思いついたインスピレーションは、大脳による思考の産物ではなく、魂が受け取った次の世界からの思念(想い)であることが、多いのではないかと思われます。
インスピレーションをただ受け取れるかといえばそうではなく、ラジオと同じように、次の世界にいる魂と同調が成立していなければいけません。
同調とは、想いを合わせる、想いを共有すると言うのが、近い表現だと思います。
気心が知れた人と一緒に何かを夢中にしていると、一体感や、相手が何を感じたり、思ったりしているのかが分かる瞬間があると思います。
一卵性双生児の中には、お互いの考えていることや、想いが分かる人たちがいるようです。
一緒に暮らしている動物の想いを飼い主が、逆に、飼い主の想いを動物は分かっていると感じます。
五感を超えて分かり合えるのは、魂と魂が同調していて、想いが伝わってきているからと考えられます。
想い(思念)は目に見えませんが、魂から生まれて、内から外に向かって放散されています。
魂から生じた想いは、同調している魂に届き、共鳴して、同じ想いを生じさせます。
もらい涙は、涙する人と同調し、悲しみの想いを受け取った結果だと思われます。
となりの人が大笑いをしていると、おかしくもないのにつられて笑ってしまう時がありますが、想いが伝わってきたからだと思います。
一言も言葉をかわさなくても、分かり合えるのは、想いにより同調しているからだと思います。
たとえ、肉体はなくなってしまっても、魂と魂は同次元にあり、同調することができれば、想いは伝わってくるはずです。
もし、残された人が次の世界に行った人を愛していて、次の世界に行った人が残してきた人を愛しているのであれば、「愛」という想いで、同調できるはずです。
しかし、悲しいことに、この世は雑音に満ちています。
物理的な音の雑音だけではなく、心を惑わす情報に溢れ、必要のない想い(思念)まで受け取ってしまい、それに振り回されています。
最も妨げているは、実は(愛以外の)自分の想いかもしれません。
悲しみや後悔の想いは雑音となり、想いを受け取りにくくさせます。
愛する想いにより同調が成立しても、悲しみの想いに変わってしまえば、瞬時に崩れてしまいます。
一番落ち着く、静かな場所に行きましょう。
そして、心静かにして、日常の雑念が沈殿するのを待ちましょう。
何にもとらわれない、何も考えていない、心を上澄みの状態にしましょう。
しばらくその状態が維持できたら、そっと愛する亡くなった人を心に思い浮かべて下さい。
楽しそうな姿、大好きな姿を思い浮かべて下さい。
そこで、悲しみにとらわれてはいけません。
大好きな姿に、あなたの今の想いを投げかけてみて下さい。
言葉にすると、想いがさらにはっきりします。
「逢いたい」と思うのは当然ですが、叶わぬ願いであり、お互いが悲しみの想いに包まれてしまい、同調できなくしてしまうのでやめておきましょう。
「あの時は楽しかったね」
「出会えて、本当に良かったね」
など、お互いが笑顔になる想いを、愛する人に伝えましょう。
今まで1番楽しかった時、うれしかった時のことを思い出し、その時に伝えたかったことを言葉にしても結構です。
難しいのですが、思い出して、悲しくなってはいけません。
今、置かれている自分を切り離し、その時の自分になりきって下さい。
亡くなった人も、その時のことをはっきりと覚えていて、あなたの言葉をとてもうれしく、心地よく感じているはずです。
そして、受け取ったあなたの想いに応えて、想いを返してくれるはずです。
かすかかもしれませんが、浮かんできた言葉や、ひらめいたイメージはなかったでしょうか?
もし、あったのであれば、気のせいではなく、愛する人からのメッセージかもしれません。
想いが言葉では言い表せず、イメージにもできないのであれば、あなたの魂に直接、想いを投げかけて来るかもしれません。
心臓でも、頭でもなく、自分の中心が響いているような、振動するような、今までになかった感覚を感じないでしょうか?
内からこみ上げて来る、あたたかさ、やさしさ、言葉に出来ない懐かしい想いを、感じないでしょうか?
感情はないはずなのに、涙が出てきてしまい、抑えることができなくなるかもしれません。
それは、愛する人の想いが、あなたの魂に伝わって、同じ想いで共鳴しているからだと思われます。
その涙は、悲しみの涙ではないはずです。
歓びの涙です。
その歓びを生み出しているのは、あなたへの想いです。
前と同じように、歓びを共有し合えた、証の涙です。
愛し合えた、歓びの涙です。
愛する人の想いが、あなたの肉体によって表現されています。
悲しい顔ではないはずです。
涙を流していても、笑っているはずです。
うれしくて、うれしくて仕方がないはずです。
いつまでも、この喜悦の感覚、呼応する一体感に浸っていたくなるかもしれません。
信じる心と、愛する心があれば、自然法則の働きにより、きっとつながることが許されると思います。
愛する人は見えなくなりましたが、魂は存在し、お互いの想いを伝え合うことが出来ます。
お互いの魂が、愛する想いで、つながっています。
一人ではありません。
そばにいて、見守っていてくれています。
もし、幸運にも、愛する人と想いで共鳴することが出来たのなら、今までのように悲しむのはやめましょう。
いつでも一緒にいるのが分かったのですから。
生きている時よりも、近くにいることが分かったのですから。
深いところでつながっていることが分かったのですから。
いつでも想いを伝え合うことができるのですから。
そばにいてくれている幸せを、噛みしめて生きていけます。
悲しみの想いを振り払い、さらに魂と魂のつがりを深めていきましょう。
新たなページをめくる時が、来たのだと思います。
あなたの悲しみは、愛する人の悲しみです。
愛する人の悲しみは、あなたの悲しみです。
あなたの歓びは、愛する人の歓びです。
愛する人の歓びは、あなたの歓びです。
この世にいた時と、何も変わってはいません。
目には見えないけれども、今も、想いを共有して生きています。
目に見えることよりも、想いを共有し合える方が、心は安らぐはずです。
なぜなら、愛する人の実在は、目に見える肉体ではなく魂であり、そこから生まれる想いだからです。
この世にいた時と同じ様に、歓びを共有して、生きていきましょう。
それは、愛する人のあなたへの、伝えにくかった願いかもしれません。
こちらの想いは、愛する人に、自然に伝わります。
しかし、愛する人の想いを受け取るためには、双方の努力が必要と思われます。
そして、受け取る側の感度には、大きな個人差があると思われます。
すぐに受け取れなくても、焦らずに、愛する人に、想いを投げかけ続けていて下さい。
つらい日々は、決して無駄なものではなく、少しずつ霊的感性は研ぎ澄まされていき、愛する人の想いが、魂に伝わってくるのを実感できる日が、きっと来ると信じています。
参考ページ: 「先に逝った理由」
「信じることで愛することができる」
「向こうにいる人の想い」
「向こうにいる人を愛する」
参考HP:「最愛の我が子やご家族や、また愛する人を亡くされた方へ~死の真実を求めて~」一人息子さんを亡くされたお母さんのHPです