人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2014年1月30日木曜日
魂と愛について
私は若い時、自分に問いかけていたことがあります。それは、「何で生きているのだろう?」ということでした。
最も若さに溢れて、自由を満喫している20代前半にも、一人静かにしていると、時折、頭に浮かんできました。
しかし、深刻な悩みというわけでもないので、そのままにしておきました。
同時に、何かしなければいけないという衝動を、いつも感じていました。
突き動かされる何かがあるのに、それが何なのか、何がしたいのかも分からず、何もしていない自分に苛立ちを覚えていた様に思います。
そして2つとも、答えは見つからないまま、時は過ぎていきました。
何かをしなければいけないという衝動は、仕事をすることで、解消された様に思えました。
仕事さえうまくいっていれば、人生すべてがうまくいくと、いつしか思うようになっていきました。
そして7年前、仕事上で絶体絶命と思われる不祥事が起こりました。
ほぼ同時に「シルバーバーチの霊訓」に出会いました。
不祥事をきびしく追求され、追い詰められて行く日々の中で、心の奥で眠っていた魂が、目を覚まし、表に出てきました。
それまで思いもしなかった、大切なこと(摂理)に気付き、私の中で輝き始めました。
若い時に抱いた「何で生きているのだろう?」という問いに対し、「生命は肉体ではなく魂であり、魂を向上させるため」という、永遠不滅の真理を見出すことができました。
苦難に出会う人は不幸な人であるという、世間一般の考えは、「シルバーバーチの霊訓」により根底から覆されました。
苦難の真っ只中にいる時は、早く逃れたい、楽になりたいと思ってしまうこともありますが、「苦難を乗り越えることで魂が向上する」という、神の摂理が厳然と存在し、与えられた試練として立ち向かっていくことを学びました。
子供の頃から、「世のため、人のため(に尽くす)」という言葉を良く聞きました。
立派な心がけを奨励するための、道徳的な言葉と思っていました。
ところがそうではなく、神の心である「愛」を表現することであり、摂理そのものであることが分かりました。
シルバーバーチは「人のために自分を役に立てる」と言っていますが、滅私の奉仕こそが、最も価値あるものであり、魂を向上させることになり、生きている意味を成就していることになります。
広い世界には、貧しい人や、困っている人、病んでいる人のために、人知れず尽力し、生涯を捧げている人たちがいます。
その人たちの姿を見るたびに、本当に幸せな人だと思います。
人を幸せにしようとする想いは、神の心と同調し、深くつながり、神の愛を十分に受け取ることができます。
受け取った神の愛は行動する力となり、想いを成就させていきます。
そして、奉仕の行いにより、人々が幸せになり、その姿を見て自らが喜びを得ます。
摂理に適った想いや行いは、因果律により、自らに喜びと幸せをもたらします。
他者のために、何かをしてやりたいという想いが湧き上がるのは、頭で考えたものではなく、魂の自然な欲求です。
踏切でうずくまっている老人を見て、わが身の危険を顧みずに助けようとして亡くなった女性がいましたが、助けようとする衝動の源は、魂だったと考えられます。
もし、頭で考えたとしたら、助け出そうとする一歩は、とても踏み出せないと思うからです。
魂は神の一部であり、神の心が「愛」であるがゆえに、我を忘れて助け出そうとしたのだと思います。
亡くなった女性は、霊的な摂理など知らなくても、内なる魂の声に、忠実に従って行動したのであり、肉体を失ってしまいましたが、向こうの世界で、魂はより美しく光輝いていることと思います。
そこまで滅私の行いはできなくても、人にやさしくすることはできます。
近所に住む足が不自由な一人暮らしの女性が、道端に座り込んでいました。近所のスーパーで買い物をした荷物が重たいらしく、たまたま自転車で通りかかったので、家まで運びました。
本当に簡単なことでしたが、うれしいことだったみたいで、わざわざお礼にと、お菓子を持ってこられました。
小さなことでも、ためらわずにすることで、とても喜ぶ人がいることを、あらためて実感しました。
やさしい気持ちで笑顔で人と接することも、世の中をほんの少しだけ明るくしていますで、小さな小さな奉仕です。
いやなことをされても、その人を許してやることも、形を変えた奉仕なのかもしれません。
イエス・キリストの有名な言葉に、「愛は摂理の成就なり」というのがあります。
頭で考えてしまうと、意味はさっぱりわかりませんが、もっと深いところでは「愛することは、神の御心」と、理解することができます。
魂は肉体という入れ物に押し込められ、普段は頭による思考により支配されているため、存在を意識することはありません。
しかし、危機的状況になり、頭で解決できなくなると、初めて表に出てきます。
若い時に感じた、何かをしなければならないという衝動は、もしかしたら内なる魂が、しきりに表に出たがっていたのかもしれません。
愛というものを、言葉ですべてを表現することは不可能です。
同じく魂も、言葉で表現することは不可能です。
なぜならば、この世の次元のものではないからです。
言葉で説明できない、証明できないものを、否定するのは、あまりにも愚かです。
愛は、見えるものではなく、感じるものです。
やさしくされると、うれしいのは、「魂」が「愛」を感じ取っているからです。
愛を信じられる人は、同次元の魂も信じられるはずです。
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