人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2014年1月22日水曜日
魂に老いはない
私は、今52才です。時が経つのは早いものだと感じています。
同年代の人達は、10年もすると定年を迎えるため、その先の人生設計を真剣に考え始める頃だと思います。経済的な豊かさが、幸福な老後につながると考えている人も多く、それまでに少しでもお金を貯めたり、増やしたりして、老後の生活に備えようとしています。
ところで老後とは何なのでしょう?退職し、年金を受給し始める60代頃から、死ぬまでの間の時間と定義する人もいるでしょう。確かに肉体の老化は誰にでも訪れ、避けることはできません。私も、鏡に映る自分の顔を良く見ると、しわも増えて、年を取ったと感じます。あと30年もすれば、トイレに1人で行くこともできないかもしれませんし、もしかしたら肉体はすでにないかもしれません。
しかし、本当の自分は、鏡に映る姿そのものではなく、その姿を見て何かを感じている魂です。朽ちたり、老いたりするということは、物質特有の摂理であり、形態や性状、そして機能が劣化するということです。魂は物資次元のものではありませんので、その摂理は当てはまりません。
これまでに、楽しいこと、うれしいことを経験してきました。そして、つらいこと、悲しいことにも出会い、何とか乗り越えてきました。風に揺さぶられ、雪の重みに耐えてきた木のように、さまざまな出来事を経験して、魂は少しずつですが、強く、たくましくなっていると考えられます。
肉体は成長し、ある時点を境に老化に転じ、最後には朽ち果てます。しかし、魂は成長(向上)し続けるのみで、朽ち果てるのではなく、完成されていくものと思われます。肉体と魂では、たどる道が全く違うのです。老化するのは肉体だけであり、自分そのものである魂に老化はありません。年を取ったと嘆いたり、若さをうらやましく思う必要はないのです。
春になると桜の木は、一斉に花を咲かせます。幹から遠く離れた枝の先端にあるつぼみでも、他のつぼみと同じ時に花が咲きます。それは1つ1つのつぼみは木の一部であり、同じ生命が宿っていて、同調しているからです。1つの魂は、神という無限に大きい木に咲く1輪の花みたいなものです。全体から見れば1輪の花は、あまりにも小さい存在ですが、木を構成している一部には変わりありません。
そして、すべての花は木とつながっているため、同じ生命が宿っています。春に咲く桜の花は、1週間もすればはかなく散ってしまいますが、魂という花は、神の一部としてつながっているため、永遠に咲き続けます。それは、うれしいことでもあり、つらいことでもあるような気がします。
画家にとって色彩が、音楽家には音が、自己表現をするため必要なように、魂を表現するために媒体が必要となります。この世では、媒体として肉体が与えられています。しかし、魂にとって表現媒体となる肉体は、あまりに鈍重であり、思いのままを表現できるわけではありません。手袋をして縫い物をするようなもどかしさや、服を着て水の中を泳ぐようなぎこちなさが、あると思われます。
なぜ、神が地上を生きる魂に、鈍重な肉体を与えたのかわりませんが、きわめて進化の低い未熟な魂が、ありのままを表現してしまったら、秩序や平和を保つことが難しいため、鈍重な肉体を纏わせ、表現が制約を受けることにより、地上の秩序や平和が、どうにか保たれているのかもしれないと、考えてしまうことがあります。
肉体を動かす力は、同じ物質次元の食物から補給するのに対し、霊的次元にある魂は、霊的次元の力、つまり霊力が原動力となります。神とのつながりが深まれば、深まるほど、神の力である霊力が魂に流れ込むと思われます。霊力は、森羅万象を起こす力であり、人にとっては生命力であり、病を癒す力であり、ことを成し遂げさせる力でもあります。
しかし、シルバーバーチが繰り返し注意を喚起していますが、取り越し苦労や、不安感、恐怖心を抱くと、せっかくの霊力を受け取る妨げとなってしまいます。経験的にも、不安でいっぱいな状態で、持てる力のすべてを発揮できたことはありません。一方、ここぞという時に、驚異的な力を発揮して成功や栄冠をつかむ人がいます。そんな人は、障害となる不安や怖れがすべて取り除かれて、揺るぎない自信が生まれ、魂がいつも以上の霊力を受け取り、実力以上の力を発揮したのかもしれません。
神とのつながりを深くして、生きる力である霊力を十分に受け取るためには、自らの心が生みだす迷いや不安を一掃し、心を穏やかにして、神とのつながりを求めなければいけません。神とのつながりを求めなくても、困っている人や傷ついている動物を見て何とかしてやりたいと思った瞬間、つらく悲しい思いをしている人を見て励ましたい勇気付けたい慰めたいと思った瞬間、世の中を明るく平和にしたいと、心から思った瞬間に、神の心と「愛」で同調します。同調をすれば、神とのつながりが深まりますので、霊力が自らの魂に流れ込んできます。そして流れ込んだ霊力は、行動するための原動力となり、肉体により表現(実行)されることになります。
そのことを、心身を病んでいる人にヒーリングをしている時に、実感します。ヒーリングする前は、良き霊力の通路となり、患者の病が癒されることを祈念しつつ、無心になることが必要なのですが、私はまだ未熟なため、心配ごとが心をよぎることもあります。そんな時には、霊界との同調はうまくいかず、治癒力の大きな流れを感じることはできません。しかし、心が穏やかで、愛を誰かに分けてあげたいと思うような時は、すんなりと同調ができて、治癒力がふんだんに流れていくのを感じます。つまり、十分な霊(生命)力を受け取るためには、心を穏やかにすること、他者を思いやる気持ち、愛の想いが、最も大切だと思います。私は霊力が流れていくのを、感覚的に感じることができますが、たとえ感じられなくても、すべての人に同じことが起きていると確信しています。
肉体はどのようなことをしても、時とともに老いていくことは摂理であるため、避けられません。目に見えるものがすべてだと思ってしまうと、魂は存在せず、死ねば終わりという、深刻な事実誤認をしてしまいます。老後は人生の黄昏ではなく、次の世界へ移行する準備期間であり、地上人生の集大成とも言える、大切な時間です。出来るだけ長生きをして、死ぬまでにたくさん楽しいことして過ごすよりも、それまでの経験を活かし、たとえ小さなことでも、こつこつと世の中のため、人のために役立つことをする方が、はるかに賢明です。なぜなら、この世での楽しい思い出は、単なる1つの記憶に過ぎませんが、他者への奉仕は魂を向上させ、永遠の価値を持つからです。誰しも肉体の死の後に、いやでもそのことを知ることになりますが、なるべく早く知っておくのに、越したことはありません。
これから年を取って体が思うように動かなくなったとしても、1人でも多くの人が正しい知識(霊的真理)に出会い、受け入れる手助けをしていかなければならないと思っています。
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