人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2014年1月1日水曜日
不安と恐怖に打ち克つ
悲しくつらい出来事があると、心は痛みます。肉体の痛みは、鎮痛剤である程度少なくすることはできますが、心の痛みはそんな訳にはいけません。
肉体の傷は目に見えますが、心の傷を見ることは出来ず、傷の深さは本人すら計ることはできません。
さまざまな出来事や言葉により、心を傷つけられ、痛みを生み出しますが、肉体の傷もふさがっていくように、心の傷もいつかはふさがり、痛みはなくなってくるはずです。
目の前にある現実を受け入れると、時として耐えられないと思うほどの痛みに襲われることもありますが、神はこの世に時を与えていますので、時間とともに心が癒されていきます。
人は肉体を携えた魂です。神へと続く階段を魂が1段1段登っていく永遠の道です。
心の痛みを感じなくなっていくのは、魂が1段、向上した結果だと思われます。
平地を歩くのとは違い、上に登って行くためには力が必要になります。より高く登っていくにつれ、階段は急になり、出会う苦難は厳しいものとなってきます。
そうでなければ苦難と感じないはずであり、苦難と感じないようであれば魂の向上は得られません。
今度ばかりは乗り越えられそうにないと思われる苦難であっても、乗り越えられるはずです。
なぜならば、今までも乗り越えてきたからこそ、神の法則に従って与えられたはずだからです。
しかし、事実があまりにも深刻で、衝撃的であったりすると、まともに受け入れてしまうと、重圧に耐え切れなくなり、感情のコントロールを失い、耐え難い悲しみや不安や絶望感に襲われるのではないかと思ってしまうことがあります。
心がバラバラにされ、修復不可能な状態に陥ってしまうのではないかと、無意識のうちに心を守る防衛反応が働き、その事実を心の奥に封印してしまう場合があるのかもしれません。
正面から向き合うことなく、事実を受け入れなければ、なかったかのように過ごすことができるのかもしれません。
繰り返しになりますが、人は魂を向上させるために生きています。
経験したこともなく、全く予期しなかった、つらい出来事でも、無我夢中で危機を切り抜けていく過程で、魂は鍛えられ向上していきます。
これは無理だと思われたことでも、乗り越えられるはずです。もしそうでなければ、この世は挫折だらけになり、絶望感と無力感に包まれたものとなってしまいます。
とても耐えられないと思われた出来事も、実は乗り越えていくことが出来たのです。
しかし、封印してしまうと、つらさからは逃れられ、一見賢明な方策に思えますが、苦難を乗り越えて魂を向上させる機会を1つ失ったことを意味します。
事実が心に封印され、忘れてしまったかに見えても、その事実を消すことは出来ません。その時に表すことのできなかった、はりさけそうな想いが、たくさんあるはずです。
事実に対して、悲しみ、恨み、怒り、憎しみなどの様々な想いが、たとえ表現されなくても無意識のうちに、心に湧き上がっています。
そして幾重にも積み重なっていき、心のしこりとなっていきます。
そして魂に影響を与えていき、魂のありさまが変わっていきます。
肉体は魂に従いますので、病気として表在化していくことになると思います。
よって肉体に顕れた病変は、封印された出来事から生み出された、悲しみ、怒り、憎しみなど様々な負の感情の集まりが形を変え、目に見えるものとして顕れたものと考えられます。
もしその出来事を、誰かのせいにしたり、不運を嘆いたり、人を妬んだすることで、正面から向きあうことをしなかったとしても、摂理に背いていることになり、同様の結果を生じることになると思われます。
つらくても正面から受け止め、悲しむ時は悲しんで、痛みを感じながら、乗り越えていくことが、摂理に叶った取るべき道だったはずです。
心の痛みやつらさを経験することより、魂は向上しますが、その事実を封印してしまい、痛みやつらさを感じることがなければ魂の向上は得られません。
この世で与えられた苦難として、痛み苦しむはずだったのであれば、何らかの別の機会で相応の苦難が与えられることになるはずです。
そして事実を受け入れた時に味わったであろう心の苦痛と、同等の苦痛を後に経験し、魂を向上させることになると思われます。
神の摂理は完全であり、形を変えて苦痛が与えられて、魂を向上させることになります。
病気として与えられた苦難を、今度は乗り越えていかなければいけません。
乗り越えられないと思わせるのは、病気に対する誤解であり、恐怖であり不安だと思います。
病気に限らず、不安や恐怖は、ことを成し遂げる時の妨げとなり、力を十分に発揮できなくなります。
病気を魂の次元で理解し、不安や恐怖を払拭できたのなら、必ず乗り越えられるはずです。
前にも書きましたが、不安や恐怖に心が支配されると、十分な治癒力を受け取れなくなります。
不安や恐怖を感じたり、摂理に背く想いを抱いてしまったりして、事実と向き合わなかった過去と同じ過ちを、病気として形を変えた苦難において、繰り返してはいけません。
摂理に背いた想いを抱かないか、不安や恐怖を退け正面から向き合うことが出来るのかを、試されているのです。
もしそれが出来たならば、病気は乗り越えられて、治癒につながっていくはずです。
病気は不安や恐怖に打ち克つことが試されている苦難なのだと思います。
不安や恐怖に打ち克ち、魂が肉体を支配すれば、神からの治癒力を存分に受け取ることができ、病気の進行は抑えられ、痛みを感じることはないと思っています。
反対に不安や恐怖に支配されたら、ガンを抑えこむ力は減弱し、病気は進行し、痛みを感じることになると考えています。
ガンは死という誤った認識があまりにも広まり、多くの人が不安や恐怖を感じています。
ガンは肉体を蝕む得体の知れない病気ではなく、魂を向上させるために与えられた試練です。
神は愛であり、死に至らせるための病としてではなく、過ちを正し、大切なこと(摂理)に気付かせるために与えた病です。
ガンは肉体に対する治療も必要ですが、それ以上に魂のありさまを変えていくために、心を意識し続けなければいけません。
心を穏やかにして、すべてに感謝し、他者を慈しみながら日々を過ごせば、魂の平和、協調、調和が取り戻せるはずです。
そうすれば支配下にある肉体も従い、ガンも癒やされていくはずです。
病巣をなくすのが治療ではなく、不安や恐怖に打ち克ち、心を穏やかに平和に保つことこそ、根本的な癒やしになります。
初めまして私は現在68歳の老人男性です。平成19年2月6日に慢性糸球体腎炎になり腎臓の働きが無くなり病院の医師に腎性検査などを一通り行いましたがクレアチリンが13と高く医師の判断で直ぐ透析し無いと命に関わる問題ですが、どうしますか?と医師に言われ、私は透析はしたくありません何故なら私の二つ下の妹が既に人工透析をしていて、週3日もバスを2回乗り次いで嵐が来ようが正月だろうと、血液透析を始めてしまったら最後、生体腎移植するか、莫大な費用を掛けてたとえ適合する腎臓が見つかり手術し腎移植をしても100%適合することは無いに等しいらしく妹は平成17年11月30日に亡くなり54歳でした。15年もの長い間苦しみ続けました。間近で余りにもの苦しさを観て居りましたから医師から1日でも早く透析治療をし無いと、尿毒症で危険ですね?などと言われ続け約1年程透析から逃げ続けましたが、段々と小便が出なくなってきて更に心臓に水が溜まり横になって寝る態勢になると、息が出来ないまでになって居りました、もはや尿毒症からの心不全で、救急車で病院に行かざるなかつたのでした、未だシャント手術もし無いのに、その日に3時間の血液透析を始められました。平成19年の2月6日でした、私もなんだかんだで10年過ぎました、が平成26年1月20日の朝突然物凄い腹痛に成り、段々と気が遠く成り119番に電話し玄関の鍵を開けたらその場で気絶してしまい、気が付いたら板橋区の帝京大学病院のERセンターの手術室でマスクと緑色の手術着を着た方々が6.7人おり、貴方の腸に穴が開いていましたから、人工肛門をしますが良いですか?と言われ、私はその場で気が付いて、やめて下さい!私は人工透析をしておるんです!辞めて下さい!
返信削除と声を張り上げて叫びました、が突然麻酔を掛けられ再び気が付いた時には病室のベツトに、手足を縛り上げられて、身動きが出来ない状態でした。腹の左側に穴を開けられあれ程拒否したのにもかかわらずに人工肛門を造設されてしまい、永久肛門を造られ今透析して居る先生に、話しをし、私は元に戻して頂きたいと、紹介状を書いて頂き2度帝京のERに行きましたが貴方は透析をして居るから危ないのです。と医師が閉塞手術をして頂けません、此の年になって2たつの障害を抱えて生き続けるのは正に生き地獄に等しいです。此れも貴方方が言う、因果律の摂理の現れなんでしようか!?手術をしてから私の姉の方に説明したらしく姉がサインを書いてしまったのです。此れは完全に医師法違反ではないのでしようか?私は完全に手術は辞めて下さいと医師達に聞こえる声で叫んだのに、完全に無視されて透析だけでも苦しいのに、人前では裸になれないし銭湯なども行け無い身体になりました。何の夢や希望なども失ってただ細々と生きて居るだけで、一生腹に袋を付けてパウチを便を不潔にし無い様にしておるんです。何を目標に何を希望に生きてる事が、苦しみです、ちなみに透析をする前は、塗装業をしておりましたが、工務店から下請けをして頂いておりましたが、障害者となつたらその場で他の塗装業者が入り私は生活保護者となり、姉も、誰も相手にされず10年も国民の税金を使っていて心が痛いです。どうしたら良いのか、解りません。
S.hiroshi 様
返信削除初めまして、イクミです。
ブログを読んでいただき、ありがとうございます。
この10年、本当に大変な思いをされて来ましたね。
人工透析をしたくなかった、あなたのお気持ちが伝わってきました。
週3回休まず透析をしなければならいのは、考える以上に大きな負担であり、間近に妹さんの苦しむ姿を見ていたので、同じようになりたくないと思うのは無理もないのかもしれません。
ただ、透析をしなければ、生命を維持できませんので、ぎりぎりの状態での苦渋の決断だったとお察しします。
今から3年前に、激しい腹痛で病院に搬送されて、腸が穿孔していたので、人工肛門が設置されたのですね。
あなたが、辞めて下さいと意志表示をしたにもかかわらず、人工肛門が設置されたのに、今も納得がいかないのですね。
あなたの意志を無視したのではなく、医学的根拠があって行ったと考えられます。
ご存知でしょうが、消化管の穿孔(腸に穴が開く)は、おなかの中に腸内の細菌が撒き散らされて、敗血症を起こして死亡する可能性が高い疾患と思われます。
人工透析をしている患者さんの腸に穴が開いてしまった場合の死亡率は40%であり、人工肛門を設置しない、腸を吻合する手術を選択すると、死亡する可能性がさらに高くなるので、避けるべきであると警鐘を鳴らしている報告もあります。
一刻を争う状況の中で、命の危険性が少ない、治療方法を選択したと考えられます。
通常であれば、患者さんに治療方法の説明をして、患者さんに選んでもらうのですが、それが許されない状況だったと考えられます。
死亡率が40%であれば、ほとんどの医者はより安全な治療方法を選択すると考えられ、ほとんどの患者さんも、命が助かる確率の高い方法を選択すると思います。
もし、あなたが死亡率40%の状況であると聞いていたとしたら、死亡するリスクがさらに高くなる手術を選択するのでしょうか。
元に戻すのも、同じ様に何らかの根拠、おそらく合併症の危険があるので、できないと推察されます。
あなたは2つの病気により、2つの大切な機能を失いました。
生きているのが、とてもつらくなる状況にいると思います。
障がい者となったとたんに、仕事を失い、生活保護を受けざるを得なくなったのも、納得できないでしょう。
あなたでなくても、理不尽さを感じて、憤ってしまうかもしれません。
今の状況は、因果律の働きによるものなのかと言う、ご質問ですが、その通りと考えられます。
あなたに限らず、全ての事象は因果律という神の法則に従って起きています。
何らかの原因があって、その結果として事象(出来事)が起きるということです。
過去の積み重ねで、今の自分がいます。
あなたの、これまでの生き方や考え方に問題がないのであれば、その原因は今生にないかもしれません。
生まれる前にあったと言うことになります。
病気には、過去生で作った原因の償いをするためになる場合もありますが、魂を成長させるためになる場合もあります。
どちらにせよ、意識には上りませんが、魂は了承しています。
自分が、予め決めていたと言うことになります。
もし、そんなことは信じられないと言うのであれば、運が悪かったと諦めるしかありません。
目的があって、今の苦しみがあると、私は考えています。
その目的は、魂(自分)を成長させるためと考えています。
人生の終盤でこんな状況になり、自分は不幸だと思っているかもしれませんが、私はそう思っていません。
人生は死んで終わりにはならないからです。
肉体を失っても、生命の本質である魂は、生き続けます。
死によって、次の世界に生活の場が移ります。
次の世界に行くと、今生の苦しみの理由を知り、全員が納得するようです。
不公平だとか、不平等だとか言う人は、一人もいなくなるようです。
1つ1つの出来事に、ちゃんとした意味や目的があったことを知るからです。
完全な公正が隅々まで行き渡っていたことを知るからです。
おつらいでしょが、もうしばらく不自由な身体であなたは今生を生きなければいけません。
知らないだけで、周りの人も何かしらの苦難や障害を抱えて生きています。
この世は、魂を成長させるために生きているのであり、苦難や障害を乗り越えていくことで成就するからです。
長く感じるかもしれませんが、その不自由な身体から解放される時が来ます。
その時に、不自由な身体になった目的や意味を知り、きっとあなたも納得すると思います。
若輩者が生意気なことを言ってしまったことを、どうぞお許し下さい。