仲の良い先輩が、ガンで奥様を亡くされました。
仕事で成功し、友人知人もたくさんいたのですが、葬式は行われませんでした。
月に1度は、研修会でお会いしていましたが、しばらくの間、姿を見せていませんでした。
明るく、社交的な人ですが、きっと誰にも会いたくないのだろうと思いました。
久しぶりに、先輩が研修会に出てきました。
いつもと変わりないように見えましたが、心の中はわかりません。
今があるのは奥様のお陰と言っても良く、苦楽を共にして歩まれた日々を思うと、かけがえのない人を失った衝撃や喪失感は、計り知れません。
親しくしていたので、自分が持っている霊的な知識を、どうしても伝えたくなりました。
しかし、霊的なことなど関心がなく、仕事でも人一倍エビデンス(根拠)にこだわっている人なので、どう受け取るのかが心配でした。
それでも、奥様も望んでいると考え、思い切って伝えてみました。
「生きている」「また会える」そんな話が出てびっくりしたでしょうが、一瞬でしたが顔がほころびました。
また会えるのか?もう会えないのか? 先輩も気になっていると感じました。
また会えるのは確実です。
この世界に私たちが生きているのが真実であるように、向こうの世界で故人が生きているのもまた真実です。
何を根拠にと、いぶかしがる人がいるでしょう。
客観的な根拠が示されないのは、それなりの理由があってのことです。
この世を去る時に、親愛の想いがあれば、必ず出迎えてくれます。
向こうに行くと、それまで両者を隔てていた障壁が全てなくなります。
肉体がなくなるのと同時に五感は消滅し、霊的な感覚だけになり、今まで視えなかった姿を、はっきりと認識できるようになります。
向こうにいる人たちは、この世にいる人をずっと見続けていたので、別段、驚くことはないのかもしれません。
けれども、この世にいた人は、久しぶりに視る姿に感激するでしょう。
待ちこがれていた再会の悦びに酔いしれます。
向こうの世界のことは、向こうの人から送られて来る通信によって、一部を知ることが出来ます。
向こうに行った直後は、地上の習慣がまだ残っているようです。
肉体はもうないのに、お腹が空く感覚もあるようです。
この世でお腹が空いたら、食料を買って調理して、食べます。
想い(欲求)は肉体を動かして、実現しなければいけません。
向こうは思念の世界です。
思念が直接具現化されます。
想像するのが難しいのですが、食べたいと想えば、食べたいものが直ぐ目の前に現れます。
車に乗りたいと想えば、思念によって創られた車が現れます。
お金が欲しいと想えば、いくらでもお金が現れます。
ただ向こうの世界では何の価値もないので、欲しがる人はあまりいません。
新しい環境になれたら、言葉を超えた思念のやり取りをする、いわゆる以心伝心の状態となります。
向こうの人から視えるのは、この世の人の肉体(物質)ではなく、魂(霊体)とそこから生じている思念(想い)です。
想いは、様々な色彩の光となって放たれています。
色彩から想いが知れるので、語らずともこの世の人が自分のことをどう想っているのかが判っています。
その想いに応えて、自分の想いを伝えようとするのですが、この世の人は感応しません。
全く気付いてもらえないことに、愕然とするようです。
この世の人は、五感を通して外部から情報を入手しています。
けれども、思念は五感によって感じられるものではありません。
伝えようとした思念は、この世の人を素通りしてしまうことがほとんどです。
携帯電話で、自分がしゃべっている時に、相手の話を聴き取れるでしょうか?
この世の人から思念が出ている時に、向こうから送られている思念を受け取るのは難しくなります。
悲しみの思念が溢れ出ている時は、向こうの人にとっては、きっと「電波の届かない状態になっています」なのでしょう。
死んだらおしまいと思っている人は、「電源を切っている」のと同じかもしれません。
五感から入る情報が溢れ、頭脳を働かせている日常は、騒音の中で携帯電話をしているようなものです。
この世の人は、様々な要因により霊的な感度がきわめて低くなっています。
向こうの人が何も伝えてくれないのではなく、伝えようとしているけれども、この世の人が条件を整えてくれないために、伝わっていないだけと考えられます。
それでは、伝えようとしている思念を、受け取るためにはどうすれば良いのでしょうか?
魂の存在を心から信じる、全てはここから始まります。
信じていなければ、向こうにいる人は存在しないのと同じです。
どんなに思念を伝えようとしても、この世の人の魂に届くことはありません。
この世では、心が通い合わなくても、言葉があるのでコミュニケーションは可能です。
向こうの世界は違います。
心が通い合って、初めて同調が成立し、想いが通じ合います。
この世から愛する人がいなくなれば、嘆き悲しみます。
姿は視えず、声も聴けず、触れることもできないのであれば、存在自体が消滅してしまったと錯覚しても無理はないのかもしれません。
しかし、現実は違います。
人間の本質は、肉体ではなく魂です。
魂とは生命です。
意識であり心です。
肉体が失われた以外、何も変わっていません。
巨大な星が寿命を迎えると大爆発を起こして、ブラックホールになると言われています。
星そのものは消えて視えなくなりますが、物質を引き寄せる力(重力)は変わらずに存在しています。
人間も同じような感じがします。
死によって肉体は消えてなくなっても、魂を引き寄せる力は変わらずに存在しています。
魂を引き寄せる霊的な力、それが愛です。
愛が存在しなければ、宇宙は無機的なものとなり、全ての生命は孤立した存在となります。
愛によって、魂と魂は引き寄せられ、つながろうとします。
姿が視えなくなっても、愛があれば再びつながることは可能です。
そのために、どうしても必要なことがあります。
それは、今も愛されていると信じることです。
愛は魂から生じています。
愛は霊的次元の存在なので、物質的次元のこの世で証明するのは不可能です。
証明されないものは、信じるしかありません。
愛されていたのが確かであれば、それが今も継続してると考えるのが自然であり、信じることは、それほど難しくはないはずです。
心から信じることにより、魂と魂の間に「導線」が張られます。
その導線を通して、想いが通い合います。
信じることは、受動的なものではなく、能動的なものです。
証拠が示されないから信じないのではなく、たとえ証拠が示されなくても信じるように努めなければなりません。
信じてもらえない、悲しみ、苦しみ、落胆は、この世の人には想像も付きません。
あれほど想いを通い合わせていた人を、視えなくなったからと言って信じなくなってしまうのは、厳しい表現になりますが、裏切り行為です。
残された人にとって、また会えるのか、それとも2度と会えないかのかは、大きな問題です。
同じく、信じてもらえるのか、もらえないのかは、向こうにいる人にとって大きな問題です。
なぜなら、再びつながり、導くための生命線となるからです。
2度と会えないと思うと、耐え難い苦しみが生じることがあります。
その苦しみは、過った認識や考えを変えるため、自然法則の働きによって生じています。
魂そして愛が死によって、いささかも損なわれないのは真実です。
そのことを信じるよう、苦しみが促しています。
苦しみを通して、私たちを真実へと導いています。
何故、自分を置いて逝ってしまったのか?
はっきりとした理由は向こうに行かなければ判りませんが、魂の学びや成長に関わっているのは確かです。
同次元で生きている時は、余程のことがない限り、信じ合うことの大切さに気付けません。
当たり前のように享受しているからです。
あえて信じ合わなくても、肉体がそこに存在し、一緒にいれば安心感が得られます。
どちらかが先に亡くなると、当たり前のように享受していた信じ合う関係が、一時的に崩壊します。
導線はなくなり、両者の間に断絶が生じます。
そして、想いが通い合わなくなります。
向けるべき対象を失った愛は悲しみに変わり、大きな不安を感じます。
再び想いが通い合うようになるためには、この世の人に信じることが要求されます。
肉体がなくなった人は、今、思念の世界に生きています。
信じることで、この世の人の思念の中で、蘇ることができます。
それは、頭で想像したり、思い出したりする、精神的活動とは全く違います。
信じることは、神の摂理に適った霊的な行いであり、思念の世界において蘇り、つながることが許されます。
向こうの人の想いは、この世の人と同じです。
もう1度愛されたいのです。
蘇った人を、再び愛することが出来たのならば、今の悲しみ、苦しみから解放されるはずです。
この世界で最も大切なものは何でしょうか?
愛し合うこと以上に大切なものは存在しません。
そのことを学ぶために、この世に生まれ、様々な経験をしていると言っても過言ではありません。
別れ以上に、深く学ぶ経験はありません。
魂に刻み込むために、この経験が、どこかの人生で必要と考えられます。
視えなくても、想いを信じて生きる。
長い時をかけて、両者のつながりは揺るぎのないものになって行きます。
再会した瞬間、生前よりもはるかに強く結ばれていて、判り合えていることに気付くでしょう。
最も偉大な力は、愛です。
愛によってのみ、魂と魂は結ばれます。
信じ合うことなしに、愛し合うことは出来ません。
次元を超えて信じ合うのは、より強い愛で結ばれるためです。