2025年9月7日日曜日

霊的なつながりを意識する


 生きていると、不安になる時があります。

一人で生きている不安、経済的な不安、病気の不安、死の不安等々、挙げれば切りがありません。



肉体を持つと、五感で外部を認識するようになります。

目に見える世界が全てになります。

1人1人は完全に独立しているように見えます。



けれども、人と人の間には目には見えない霊的なつながりが存在しています。

語らなくても、相手の気持ちが分かる時があるのは、霊的につながっているからです。

遠く離れた人に、ヒーリングの力が届くのも、霊的につながっているからです。

困った人がいると、助けてやろうとするのも、霊的なつながりを感じるからです。



人間は独立して存在しているのではありません。

それぞれが自分の役割りを果たすことで、周囲(全体)とつながっています。

霊的につながっていることが分かれば、1人だと錯覚して、孤独や不安に襲われることはないでしょう。




経済的な不安を感じている人も少なくありません。

「魂が正常なら、つまり魂と精神と身体が調和して機能している限り、物的生活に必要なものは必ず手に入ります。」

別のところで「条件が整い、正当な必要性がある時は、背後霊は地上に物的な結果をもたらすことができます。」とシルバーバーチは言っています。

背後霊の導きを感じ取り、素直に行動に移すことができれば、必要なものが手に入るようになっていると考えられます。

そして、摂理に従って生きていれば、贅沢はできないけれども、生きて行くことはできると信じています。



病気は、魂と精神と身体の調和が失われると生じると言われています。

エゴ(精神)の働きが強くなり、本来の自分(魂)の想いを表現できなくなると、不調和が生じ、肉体上に病気として現れると考えています。

病気になり苦痛を味わうことで、本来の自分が目覚めて、想いを表現できるようになると、調和が取り戻されると考えられます。

付き合わなければならない病気もありますが、その経験により学ばなければならないこと、償わなければならいことがあるためです。

いづれにしても魂の成長へとつながっています。



死の不安ですが、肉体は消滅しても生命は存続しています。

記憶も個性も失われることはありません。

待っているのは、地上の苦から解放された世界であり、喜ばしいことです。



霊的な知識があれば、この世を生きる不安はかなり解消されるはずです。

けれども、地上を生きている限り、不安はどうしても生まれます。



不安は、肉体を持つと同時に生まれる、地上的な自我から生じます。

あの世に行き肉体がなくなると、その自我はなくなり、不安から解放されます。

そして、霊的な感覚がよみがえり、生命のつながりをはっきりと認識できるようになります。



地上的な自我(エゴ)の働きが強くなると、不安も強くなります。

解決不可能な現実に直面すると、地上的な自我(エゴ)に代わり本来の自分である霊的な自我が前面に出て来ます。

本来の自分を取り戻すと、生き方や考え方が大きく変わります。

安らかな気持ちでいられるようになるのは、霊的な自我からは不安や心配や怖れは生じないからです。



本来の自分を取り戻すためには、強くなったエゴの働きを抑えなければいけません。

座禅や瞑想をするのは、エゴの働きを抑えて、本来の自分を見い出すためです。



霊的次元に意識を向けるのは、本来の自分を取り戻すために有効と思われます。

意識するのが難しければ、守護霊の存在を思い浮かべてみて下さい。

自分よりも自分を知り尽くしているのが守護霊です。

何を求めているのかも承知しています。

守護霊を思い浮かべるのが難しいのであれば、亡くなった最も愛おしい人を思い浮かべて下さい。



思い浮かべた瞬間、傍に寄り添い、こちらからの想いが届くのを待っているでしょう。

親愛の想いが届いたならば、霊界にいる存在も親愛の想いを返してくれるでしょう。

その想いはエゴから生じる感情を抑え込む力となり、本来の自分を取り戻すことができると思います。



霊界の存在とのつながりが途絶えることはありません。

なぜなら、肉体があるかないかだけの違いで、地上に生きる私たちも同じ霊的な存在だからです。

目に見えなくても、つながっていることを忘れてはいけません。



神ともつながっています。

神を一言で表現するならば「全て」です。

私たちは神の心を表現する極小の一部です。

神の心である愛を表現すればするほど、神とのつながりは強くなります。

「全て」に感謝することによっても、つながりは強くなり、内から力が湧き出して来るのを感じられるかもしれません。



地上の人は、神そして霊界の存在とつながっています。

つながりを意識することで、内から湧き出す霊力、外から伝わる霊力により、不安や心配は和らぐはずです。



今朝、つながりを意識してみました。

しばらくして、自然に笑みがこぼれました。

霊界の存在たちの喜びの想いが伝わって来たようです。

霊界の存在が地上の人の想いを共有しているように、地上の人も霊界の存在の想いを共有することができると思います。



「神」や「魂」の存在の有無を論じる不毛な時代は終わりを告げようとしているように感じられます。

信じない人にも、神から届く生命力は流入し、神の法則は働いています。

守護霊は変わりなく守り導いています。

霊的なつながりが途切れることはありません。

死んでから、そのことに気付くのでは遅すぎます。



つながりを信じられる人は、霊的な恩恵をより享受することが出来ます。

意識することにより、本来の自分でいられます。

神の法則に背くことで生じる苦しみや痛みを味わうことなく、生まれて来た目的を成就する方向へと進んで行けます。



どちらを選択するのかは、個々の人に任されています。




2025年8月31日日曜日

自分を責めてはいけない


マンションから幼児が落ちて亡くなるという、痛ましい事故のニュースが時折報道されます。

それを聞いて真っ先に考えてしまうのは、ご両親のことです。

途轍もない自責の念に襲われているのではないかと思うからです。

人間の苦しみはたくさんあります。

その中でも、自責の念ほど苦しいものはないのかもしれません。



「何をやっているんだ」「だめじゃないか」と上司が部下を叱責することがあります。

自分が自分に向かって叱責しているのが自責の念です。

時には、否定したり、傷つける言葉や想いを、自分に向かって投げかけていることもあります。

自分の腕を自分の指でつねると苦痛を感じるように、自分に投げかけている言葉や想いによって心が苦痛を感じていることがあります。



自責の念は、罪悪感から生まれると考えられます。

人間の心には、神が良心となって顕現しています。

罪悪感は、良心があることによって生まれます。

「良心の呵責」は罪悪感の一種と考えられます。



良心に背いて、霊的な法則に反した行いをした時、罪悪感が生まれます。

それにより心が苦しくなりますが、苦しみを通して法則に従うように促されていると考えられます。



社会で罪を犯せば、法律によって裁かれて、償うことになります。

霊的な罪を犯せば、法則によって裁かれて、償うことになります。

法律は人が作ったので、人が裁きます。

法則は神が創ったので、神が裁いていることになります。



神はどのようにして裁いているのでしょうか?

行いの「動機」に対して、法則が働いています。

動機が法則に反していれば、霊的な罪となります。



法則を貫いていのるは「愛」です。

例えば、人を故意に傷つけようとして、傷つけたのであれば罪になります。

傷つけようとする動機が、愛に反しているからです。



傷つけようとする意図がないのに、結果的に傷つけてしまったら、法律的に罪は問われるかもしれませんが、霊的な罪を問われることはありません。

マンションから落ちてお子さんを亡くされたご両親は、法則に反した行いをしたわけではありません。

従って、霊的な罪はありません。

注意義務を怠ったのではと言う人がいますが、予見するのは極めて難しい事象です。

それを罪と言うのであれば、ほとんどのご両親が問われることになるでしょう。



病気でお子さんを亡くされたお母さんの中にも、自分を責めている方がいます。

自分に責任(原因)があったと思われているようですが、そうではありません。

ご自身の想像も及ばないところに原因(目的)があり、それは向こうの世界に行ってから分かるでしょう。



SNSで誹謗中傷を受けて、命を絶ってしまう人が後を絶ちません。

中には罪を犯していなかったり、軽微な罪なのに、過剰に責め立てられる人がいます。

他人から責め立てられることにより、いわれのない罪悪感が生じます。

多くの人に責め立てられることで罪悪感が増して、それに伴い自責の念が強くなります。

自責の念が極度に強くなると、自分を傷つけようとする衝動が生まれて、それにより死に至ってしまう人がいます。

そんな悲劇が起きたなら、誹謗中傷した人たちは霊的な罪を免れることはできません。



それは、自分に対しても当てはまります。

自分のことをどう思おうと自由というわけではありません。

自分で自分を断罪して、責め立てることは許されないのです。

断罪するのは、神(法則)です。



責め立ててしまうのは、自分のことが許せないからです。

「自分がこうしていなければ、こんなことは起きなかった」あるいは「自分がこうしていれば、こんなことは起きなかった」等々、放っておくと直ぐに自分と結びつけてしまいます。

自分と事象を結びつけるのを、自分の意志によって、断ち切らなければいけません。



罪を犯していないのに、苦しむ必要はどこにもありません。

それでは、神の公正が崩れてしまいます。

そのために苦しみが創られたわけではありません。



神は無限の愛です。

奥深くにいる自分(魂)は神とつながっています。

自分を責めて苦しんでいる自分を、鏡の中に映る自分の中に見い出して下さい。

目を閉じて、心の中に思い浮かべても結構です。

その自分から少し距離を置いて、客観視するようにして下さい。


最も親しい人が、悪いことをしてないのに誰かに責められて苦しんでいたとします。

その人に苦しみを和らげるような言葉を見つけて下さい。

「悪いことはしていないのだから安心して」

「私は信じている」

「いつでも味方だよ」

他にもあるでしょう。



客観視している自分は、奥深くにいる自分です。

見つけた言葉を、苦しんでいる自分に向かって、語りかけてみて下さい。



責めている自分は、自分が悪いと思っています。

そんなことはできないと思ってしまうのであれば、それは奥深くにいる自分の意識ではありません。



怒っている子供を母親が優しくなだめるように、許せないでいる自分を奥深くにいる自分が根気強く諭すことによって、直ぐにというわけには行きませんが、少しずつ許せるようになって行くはずです。

自分に投げかける言葉や思いによって、自分を苦しめることができます。

同様に、自分に投げかける想い(愛)によって、自分を癒すことができます。



神はあらゆる事象を想定しています。

そこから生じる全ての思いや感情も想定しています。

全ての事象、感情や想いは、自らが創った法則によって生じているからです。



愛は宇宙に存在する最高の力です。

自分を支配している苦しみを生じさせる思いや感情は、愛によって解放させることができます。

全ての事象は、愛によって解決することができます。



愛について深く学ぶために、私たちはさまざまな事象を体験することのできる地上に生まれて来たと考えられます。



2025年8月24日日曜日

背後にいる存在を信じる


30年前、都内を車で走っていた時のことです。 

信号待ちで止まっていて、ふとバックミラーに目をやると、後続車がかなりのスピードで近づいて来るのが見えました。

ぶつかると身構えた瞬間、追突されました。

私の車は飛ばされて、前に止まっていた車にぶつかり、その車も飛ばされて前の車にぶつかりました。

いわゆる、4重衝突です。


車はかなり損傷しましたが、身構えることができたので、怪我をしないで済みました。

その話をある人にしたら、「守護霊に守ってもらったのね」と言われました。

当時は霊的なことに関心がなかったので聞き流しましたが、正しかったようです。

ミラーに目をやったのは偶然ではなく、事故を予見した守護霊に促されていたと、今は考えています。



生涯に渡って守護霊は付いています。

ほとんどの人はその存在を意識することはありません。

けれども、地上の人が学びや成長を得るために、人生のさまざまな局面で働きかけています。



働きかけは、主にインスピレーションの形を取ります。

言葉を超えたインスピレーションが、地上の人の魂に伝わって来ると、行動を起こす衝動が精神で生まれると考えられます。



何となく気が進まない、行きたくない感じがして、その衝動に従って難を逃れたという話を聞きます。

そんな時は、背後にいる存在からインスピレーションが伝わって来たと考えられます。



音楽家がメロディーが降って来た、小説家が言葉が湧いて来たと表現する時があります。

そんな時も、同調する霊界の存在からインスピレーションが伝わって来たと考えられます。



霊的真理に出会ったのも偶然ではありません。

インスピレーションを受け取り、無意識の内に行動したことで、辿り着いたと考えられます。



仕事である学会に所属しています。

年に1度総会が開かれて、全国から同業者が集まりますが、最も重要なセクションの座長をやってみないかと打診されました。

大きな会場で、たくさんの人の前で話すのは得意ではありませんが、「乗り越えられない困難は与えられない」という霊的真理を信じて、思い切って引き受けることにしました。

実際の会場

初めての経験で、かなりの重圧を感じました。

上手く行くだろうかと不安に思っていた時に、背後にいる存在に意識を向けてみました。

すると、一瞬で不安が解消し、心が明るくなるのが感じられました。

当日も、意識して臨んだところ、自分でも驚くほど冷静に対処することができました。

背後にいる存在は、想いという力を伝えることで、地上の人の心のありさまを変えることができると思いました。



話は変わりますが、1970年アポロ13号は月に向かって航行中に酸素タンクが爆発しました。

地球から遠く離れた宇宙空間で想定外の事故が起こり、助かるのは難しいだろうと思った人は少なくありません。

極めて困難な状況の中で、いくつかの画期的なアイデアが生まれて、それを実行することで全員無事に帰還することができました。

「万事休すとあきらめかけた、その最後の一瞬に救いの手が差しのべられることがあります。」とシルバーバーチは言っています。

絶対に助けると言う関係者の強い意志と、世界中の人たちの祈りによって、霊界の人たちが突き動かされ、人類の英知をはるかに超えた英知が結集され、最善のンスピレーションが与えられて、このミッションは成功したと思います。

霊界にいる存在の力が遺憾なく発揮された時、「奇跡」と呼ばれる現象が起きると思います。

帰還したアポロ13号

インスピレーションの恩恵に与かるために大切なのは、背後にいる存在を心から信じることです。

信じることにより、両者のつながりは強くなります。

そして、存在を意識しながら、頭を空っぽの状態(感情にも考えにも捉われない)でいると、必要としているインスピレーションが心に浮かんで来るかもしれません。

それを、気のせいや思い付きにしてはいけません。



背後にいる存在が、もっとはっきりと分かったら良いのにと思う人もいるでしょう。

地上の人を導きやすくなると思います。

それにより、霊的な罪を犯す人も少なくなると思います。

けれども、頼ろうとしたり、利己的なことに利用しようとする人もいるでしょう。

学び成長させるために付いているのに、それでは意味がなくなってしまいます。

地上の人の進化の程度に合わせて、はっきりと分からないようになっていると考えられます。



インスピレーションに従って行動するか、それとも無視するかは自由です。

決めるのは地上の人であり、背後にいる存在は干渉することはできません。

自分で決めたことを、自分で責任を取るようになっています。



信じて進んで行くと、困難や障害が待ち受けているかもしれません。

間違っているのではなく、それが霊的に正しい方向、予定されていた方向かもしれません。

学びや成長は、困難や障害を乗り越えて行く過程で得られるからです。



背後にいる存在は、地上の人を懸命に導き、正しい方向に進んで行くのを固唾を飲んで見守り、進み始めたら惜しみのない援助を与えています。

その恩恵は計り知れません。



地上の人が学び成長している様子に、背後にいる存在は喜びを感じているはずです。

その喜びが守り導くことに対する報酬となっているのでしょうが、感謝の想いを忘れてはいけないと思います。





2025年8月17日日曜日

突然の別れから40年を経て


1985年8月12日の夕刻、群馬県御巣鷹山に日航ジャンボ機が墜落し、520名の方が亡くなられました。

ほどなく身元確認作業が始まりましたが、ご遺体の損傷は激しく、現在のように遺伝子検査がなかったために、困難を極めました。

歯型の照合による確認が行われていて、歯科医院を開業していた父は県警から確認作業の協力の要請を受けました。

当時、歯科大生であった私は父に促されて、アシスタントとして同行することになりました。



御焼香の煙りが立ち込める学校の体育館に入ると、たくさんの棺が並べられていました。

ご遺族たちが、棺の蓋を開けてご遺体の確認をされていました。

少し前まで元気でいた人が変わり果てた姿になっている、この現実を受け止め切れないからでしょうか、少しでも早く家に連れて帰りたいという気持ちが勝っていたからでしょうか、そこにいたご遺族に涙はありませんでした。

大変な現場に居合わせていると思いました。



あの時から40年、8月15日に御巣鷹の尾根に行きました。

9年前に初めてこの地を訪れた時以来です。

登山道は整備されていますが、60代の私が息を切らすほどの急な坂が続いていて、ご高齢の方や身体が不自由な方が登るのはとても大変です。

沢伝いに登って行くと、つづら折りの坂となり、道の脇にはいくつもの墓標が立っていて、この場所でご遺体が見つかったと思われます。

もう少し登って行くと、急に視界が拓けて、平らに整地された場所に着きました。

振り向くと、「昇魂之碑」がありました。



事故直後、この場所は肉体を失った人(霊)たちで溢れていたはずです。

初めて訪れた時、もしかしたら今も留まっている霊がいるのではと思いましたが、その気配は全く感じられませんでした。

それどころか、拍子抜けするほど清々しく、明るい場所でした。



肉体から突然引き離された人(霊)たちは、自分が置かれている状況を全く理解できずに、茫然と立ち尽くしていたと想像されます。

事故を察知した霊界の人たちは、直ちにこの場所に赴いたと思われます。

霊界は、高度に組織化され、適材適所に人があてがわれた世界です。

自分から拒絶しない限り、放置されることは決してありません。

ショック状態に陥っている人たちは、地上の病院に当たるところに連れて行かれ、手厚く看護されたと思われます。

霊界の人たちの愛情と、間断なく注がれている生命(治癒)力により魂は癒され、次第に本来の自分を取り戻して行ったと思われます。



動かなくなった自分の身体に付いて行き、遺体が安置された体育館で家族と再会する人もいたと思います。

しかし、いくら家族に話しかけても応答はなく、身体に触れようとしても手が素通りしてしまいます。

棺に縋り付いて泣き崩れる家族の姿を見て、自分が死んでしまったことに気付いた人もいたと思われます。



しばらくして、ご遺族はこの尾根を訪れるようになります。

悲しみ、悔しさ、怒り、言葉にできない想いが、叫びとなって放たれていたと思われます。



悲しみは、行き場を失った愛です。

悔しさも怒りが生まれるのも、親愛の想いがあってこそです。

祈りは、故人の平穏を願ってのことです。



亡くなった人たちは、その様子を傍で見ています。

言葉にしなくても、想いは分かっています。

涙を流している姿、祈りを捧げている姿を見て、自分はこんなにも愛されていたんだと感じた人もいたでしょう。

同時に、一緒にいられなくなった悔しさや憤り、すまなさを感じていた人もいたでしょう。



そんな人も、徐々に向こうの世界に順応して行きます。

ここが本来の住処であり、ここで経験できないことを経験して、学び成長するために地上に生まれたことを知ります。



学びや成長は、霊界においても引き続き行われ、周りのために自分を活かす生活が始まります。

地上でできなかった経験を、地上に残した人が経験することで、学びを共有することもあると考えられます。

不利益や不公正が生じないようになっているので、地上にいられなかった悔しさは、次第に薄らいで行ったと考えられます。



涙が尽きることのない、地上にいる人を見て、こう想うようになるのかもしれません。

「こんな別れ方をしたのだからいくら泣いても良い。けれどもいなくなったとは思わないで欲しい。前よりも近くにいられるのだから。」

けれども、悲しみに包まれた地上の人に、その想いが届くことはありません。



地上にいる人への愛情表現は、言葉や行動など肉体を介したものから、守り導くという想いを介した霊的なものへと変わります。

そのことにより、霊界においても地上にいた時と同等の成長が得られると考えられます。



この尾根を「聖地」あるいは「歩いて行ける天国」と呼ぶ人たちがいますが、その通りです。

地上と霊界の双方から、長い年月に渡り放たれた想い(愛)と祈りによって、極めて浄化されていると感じられました。

山全体がこの世の雑念から隔絶されているために、霊界にいる人が近くに感じられ、知らずに想い(愛)を受け取っている人も少なくないと思います。

訪れるご遺族が絶えることがなく、笑顔になって山を下りて行く人が多いのは、そのためだと思います。



昇魂之碑の奥には、亡くなった人の名前が刻まれた石碑がありました。

手を併せて、何か伝えたいことはありますかと想いを向けたところ、何も感じられませんでした。

ここに留まっている人(霊)はもういないと、改めて思いました。



40年の歳月が過ぎて、亡くなったご遺族も多くいます。

それは待ちに待った再会を意味します。

その時、想像もしない形で想いを交し合っていたこと、つながりは全く失われていなかったことに気付くでしょう。



自分がいなくなった世界を生き抜いたことを、褒めてもらった人もいるでしょう。

その労をねぎらい、やさしく抱きしめてもらった人もいるでしょう。



今生の突然の別れは、魂の学びや成長として報われていて、完全な公正が保たれていたことを知り、無限の叡智、無限の愛が存在していることがはっきりと感じられて、思わず感謝した人もいると思います。



御巣鷹山へと続く道


参考ページ:日航機墜落事故の遺族を支えたシルバーバーチの霊訓




2025年8月12日火曜日

日航機墜落事故の遺族を支えた「シルバーバーチの霊訓」


40年前の今日、群馬県御巣鷹の尾根に日航ジャンボ機が落ちて、520名の方が亡くなられました。

ご遺族の中に、河口慶子さんという方がいます。

事故で夫の河口博次(享年52歳)さんを亡くしました。



博次さんは、墜落前の機内で、以下のメッセージをご家族に書き残しました。

「マリコ 津慶 知代子 
どうか仲良くがんばって ママをたすけて下さい
パパは本当に 残念だ きっと助かるまい
原因は 分らない 今5分たった
もう飛行機には 乗りたくない
どうか神様 たすけてください
きのう みんなと 食事したのは 最后とは 
何か機内で 爆発したような形で
煙が出て 降下しだした 
どこえ どうなるのか
津慶 しっかり た(の)んだぞ
ママ こんな事になるとは 残念だ 
さようなら 
子供達の事を よろしくたのむ
今6時半だ 
飛行機は まわりながら 急速に降下中だ 
本当に今迄は 幸せな人生だったと感謝している」

ダッチロールを繰り返す機内で、このようなメッセージを書き残せたのは、ご家族への強い想いがあったからに違いありませんが、奇跡と言えます。

2010/8/10  日本経済新聞 電子版より
ご遺体の服がびしょびしょに濡れている中で、このメッセージが書かれた手帳は濡れていなかったそうです。

「何も言わずに消えることはどうしても避けたい、絶対に伝えなきゃという気持ちが、ちゃんと自分たちの手に届くように守っていた」と、ご家族は感じたそうです。



この魂の叫びのようなメッセージを見て、慶子さんの魂は目覚めたと思います。

事故から5年後、光の彼方へ:死後の世界を垣間見た人々(TBSブリタニカ、レイモンド・A・ムーディ著)を翻訳しました。

当時の世の中は今よりも霊的なことに否定的だったので、悲しみの末に少しおかしくなってしまったのではと思った人がいるかもしれません。

けれども、ご本人にとって、そんなことはどうでも良く、使命として感じていたのでしょう。



「訳者あとがき」にはこう書かれています。

「主人は1985年8月ジャンボ機の事故で、この世の命を終えております。私どもに宛てて遺しました「走り書き」には、「どうか神様助けてください」という一行がございましたが、生前は、「人間は死んだらどうなると思う」という私の再三の問いについても、「何にもなくなるさ」と答えておりました。でもやはり、死んでみてそうではないことを知り、私にこの本の翻訳をさせてみて、みなさまに読んでいただきたいと思ったのではないかという気がいたします。(ムーディ博士の第一作「垣間見た死後の世界は出版当初に読んでおり、亡き主人が私に望んでいる仕事かもしれないと思い、翻訳させていただくことにしました。)」

専業主婦で経験のない自分にできるのかと心配されたかもしれませんが、極限状態の中であのメッセージを書き残したご主人のことを考えると、できないことは何もないと思い、引き受けたのかもしれません。



慶子さんは、ご遺族や事故後に知り合った多くの人たちに「古代霊は語る:シルバーバーチの霊訓より」(潮文社、近藤千雄訳、現在は絶版)を、こんな文章を書き添えて送っています。

「ここにお届けする本は、昨年私が本屋で見つけて読みはじめ何度も何度も読んでいたものでございます。これが今回の事故に際して、何ものにもまして私を支えてくれました。常の時ならば、このような本をお勧めするのも躊躇するのですが、少しでも興味をお持ち下さってお読み頂ければ、これに増した喜びはございません。」



自分がいない中で、立派に子供を育て上げ、霊的な真実を広めている慶子さんの姿を見て、ご主人も誇りに思っているはずです。

近況は分かりませんが、もう再会されているのかもしれません。


御巣鷹山の夕焼け雲






2025年8月10日日曜日

霊界に行って分かること


若い頃は、死ぬのが怖かったです。

意識がなくなり、自分が消えてしまうと思ったからです。



20年前に霊的真理と出会い、怖くなくなりました。

意識は不滅の存在である魂にあり、消えてしまわないことを知ったからです。



何で生まれて来たのだろうと思う時がありました。

その答えは明確であり、自分(魂)を成長させるためです。



苦難ばかりの人を見て、不幸な人だと思いましたが、今はそうではありません。

1つ1つ克服して行くことで人は成長するので、生まれて来た目的を果たしていると思うようになりました。



労せずして富を得て、自由気ままに暮らしている人を見て、何て運が良いのだろうと思う時もありました。

今は、成長する機会を逸した、霊的に運が悪い人かもしれないと思うようになりました。



本来の住処は霊界です。

そこでは、生きて行くために働く必要もありません。

争いが起きたり、人間関係で悩むこともありません。

思ったことが直ぐに具現化します。

天国と呼ぶのに相応しい世界です。



肉体はなくなり、本当の自分(魂)が露わになります。

至上の存在(神)が感じられるようになり、同時に自分の至らなさを自覚するようになります。

至らない自分を、どうにかして変えたい(成長させたい)と思うようになります。


地上は「学校」と良く言われます。

学校には先生がいて、勉強を教えてくれます。

時々、試験があり、きちんと学んでいるのか確かめられます。



家で学ぶのはどうでしょう。

何をどう勉強したら良いのか、分からない人も少なくありません。

ゲームやスマホもあり、誘惑に負けてしまうかもしれません。

途中で挫折してしまう可能性は大いにあります。

自由があり過ぎると、返って学ぶのは難しくなると考えられます。



霊界にいながら自分を変えるのは、家にいながら学習するのと同じで、自由で快適な世界だけに難しいのかもしれません。

そこで、半ば強制的に自分を変えることのできる地上に生まれると考えられます。



学校では、順序立てて学ぶための「カリキュラム」があります。

地上の人生も、自分を変える(成長させる)ための「計画」があります。



試験は、学んだことを自分のものにするために必要です。

経験は、教訓を自分のものにするために必要です。



学期が終わったら、通知表をもらいます。

成績が上がっていたら喜び、下がっていたら落ち込みます。



地上の人生が終わったら、総括する時が訪れます。

どんな想い(動機)で、どんな行動を取ったのかを、全て思い出します。



予定されていた方向に進んで行き、成長することができたのを知ったら、喜びに包まれるでしょう。

違った方向に進んでしまい、成長する機会を逃してしまったのを知ったら、悔むことになるでしょう。



シルバーバーチの霊訓にはこのように書かれています。

「そのうちあなたも、地上人生を明確な視野のもとに見つめ直す時がまいります。その時、苦難こそ最も大切な教訓を教えてくれていること、もしもあの時あれだけ苦しまなかったら、悟りは得られなかったであろうことを、しみじみと実感なさいます。辛い教訓ではあります。が、教訓とはそういうものなのです。もしも教訓がラクに学べるものだとしたら、もしも人生に苦労も誘惑も困難もなく、気楽な漫遊の旅だったら、それは頽廃への道を進んでいることになります。」



そして、こうも書かれています。

「いつの日かあなたは、その時は嫌で仕方なかった体験を振り返り、それらが実際はあなたの霊的進化を促す貴重な機会であることを知って、感謝なさる時が来るでしょう。」

苦難の最中にいるとそう思えないでしょうが、霊界で地上の出来事の真意を知ることになります。



地上では分からなかった様々なことが、霊界に行くと分かるようになります。

完全な叡智(神)によって、地上の人生は立案されています。

その人生を了承して、相応しい環境に生まれて来ています。



出来事が起きて、それをどう捉えて、どう行動するのかは自分で決めています。

運命を呪ったり、神を恨んだりすると、成長する方向へと進んで行く力が奪われてしまうことが分かります。



生まれる前も、生まれた後も、あらゆることを自分で決めています。

自分で決めたことが、相応の結果を生み出しています。

その連鎖を繰り返しながら、現在の自分に至っています。

決めたことに対して責任を負うのは自分なので、現状に不平不満を言うのは間違っていることに気付きます。



私たちは原因と結果の関係から学びを得ています。

何故、このようなことが起きたのか? 

自分に問いかけた時、合点が行くような答えが見つかり、それまでの苦しみが和らいだとしたら、それが出来事を通して学ぶべきことなのかもしれません。



どうしても答えが見つからない時、知ることのできない過去生に原因があるのかもしれません。

この出来事を経験しなければならない出来事(原因)が、過去生にあったのかもしれません。

それも霊界に行けば分かるでしょう。



霊的な学びは、顕在意識に上ってこないことも、言語化できないことも多いと思われます。

知らないうちに生き方や考え方が変わったのなら、何かしらの学びが得られていて、奥深いところ(魂)が変わったのかもしれません。



学校に行くのは、人や社会のために役立つ素養を身に付け、自立して生きて行くためと考えられます。

地上に生まれたのは、さまざまな出来事を経験することで、全体のために奉仕をする資質を身に付けて、霊界で自律的に成長して行くためと考えられます。

そのことを承知して生きて行けば、後悔することはないと思います。



2025年8月3日日曜日

私たちは霊的に一体



人がクマに襲われる事象が多く起きています。

温暖化の影響でしょう、木の実などの食料が山で採れなくなったために、人里に降りて来るようになったと考えられます。

人とクマが出くわした時、人が怖くなるように、クマも怖いのです。

人を襲って来るのは、多くの場合、自分の身を守ろうとしているからと思われます。




今、起きている戦争も同じような気がします。

地上は自分と違う人たちと暮らす世界です。

違う人たちのことが理解できないと、不安に思ったり、警戒したりします。

自分を守ろうとする気持ちが高じると、対象を攻撃してしまうことがあります。

お互いが理解できないことから生じる「怖れ」が争いの原因になっていることが多いと考えられます。




肉体を持つことにより、(地上の)自我が生まれ、そこから怖れが生じます。

外部から自分(肉体)を守るために、怖れを感じることは必要です。

もし感じなければ、高い所から落ちて死んでしまうかもしれません。

ただ、過度な怖れを抱いてしまうと、過度な行動を取ってしまう可能性があります。




過度な怖れを抱かないようにするのには、どうすれば良いのでしょうか?

地上の人間には、外面上さまざまな違いがあります。

けれども、本質は同じ魂です。




魂とは生命そのものです。

神性を帯びた意識です。

困っている人を見ると、何とかしてやりたいと思うのも、私たちに神性があるからです。

嘘を付きたくないと思うのもそうです。

全ての人は神が内在している善なる存在であることを理解すれば、過度な怖れを抱かなくなり、尊ぶようになるはずです。



戦争は、遠い場所で起きている、自分には関係のない出来事のように思えます。

それは違います。

地上で起きていることは、自分にも深く関わっています。




少し話が逸れますが、長い間、盲腸は役割りがない組織と思われていました。

最近になり、腸内の免疫力を高める役割りを果たしていることが分かりました。

全ての細胞(組織)は、全身のために、何らかの役割りを果たしています。

用のない細胞(組織)は存在しません。




それと同じで、全ての人は全体を構成する1部として、何らかの役割りを果たしています。

自分には役割りはないと思っている人がいたとしても、それは分かっていないだけであり、知らずに役割りを果たしているのです。




1つ1つの細胞には、同じ血液が流れていて、全身とつながっています。

1人1人の魂にも、同じ霊(生命)力が流れていて、全体とつながっています。

人と人の間には、目に見えないつながりが存在しています。




戦争により飢えてやせ細ってしまった子供たちを見ると心が痛みます。

それは、霊的なつながりを通して、子供たちの苦しみや痛みを魂で感じているからです。




自分に関係ないと思うのは、自分の身体の一部が傷ついているのに関係ないと思うのと同じです。

霊的な感覚が鈍麻しているせいかもしれません。




肉体はばらばらに存在しています。

けれども、霊的には一体です。

霊界にいる時には、当たり前のように感じられていた霊的な一体感は、地上に生まれてしまうと、自我の働きが強くなるため、分からなくなってしまいます。




それでも、一体感を取り戻す時があります。

危機的な状況に直面すると、意識が一変します。

東日本大震災の時、悲惨な光景を目の当たりにして、霊的な意識が目覚めた人も少なくないはずです。

そんな人は、人とのつながりを意識するようになり、一体感を感じていたと思われます。

もし、お互いの違いを乗り超えて、この一体感を共有できるようになったならば、地上から戦争はなくなるでしょう。




戦争で非道な行いをしている人たちがいます。

そんな人たちを憎むのではなく、哀れみましょう。

神は法則となって顕現しています。

1つ1つの行いに対して、厳格に法則は働いて、苦痛を伴う結果をもたらします。

地上を生きている時に結果が出なくても、霊界に行って内在している神(良心)と向かい合い裁かれることになるからです。




互いの違いを認め合い、許し合うという、神性が発揮されると、争いは回避されます。

遠い先になりますが、神の法則(因果律)の働きによって、いずれ戦争のない世界になります。




今、できることは限られています。

平和な世界になることを祈りましょう。

1人の祈りの力は小さくても、多くの人が祈れば、大きな力となります。

祈る心は、内に平和をもたらし、それが外の平和へとつながって行きます。




「全ての人は霊的に一体」

この事実が少しずつ広まるのに従い、争いのない平和な世界になって行きます。









2025年7月27日日曜日

真実を伝えたいと言う意志を持つ


40年来の友人が今月初めに、突然亡くなりました。

少し前から体調が良くなさそうだったので心配はしていましたが、まさかでした。



このブログにも書いた2年近く前に亡くなった友人とは、同じハーレーに乗っていたこともあり、旧知の仲でした。

「ずいぶん早いじゃないか」と迎えられたのではないかと思います。



機会があれば、周りの人に魂やあの世の存在を教えていましたが、彼はまだでした。

あの世などあるとは思ってもいなかったでしょうから、自分が置かれている状況に少し戸惑っていると想像されます。

きっと自宅のいつもの場所にいて、家族の様子を眺めていると思います。



人はいつ死んでもおかしくありません。

妙なことを言うやつだと思われても、真実を伝えておけば良かったです。



話は変わりますが、私の患者さんにがんを患っている人がいました。

インプラント治療をして、何でも食べられるようになりたいと言っていました。

1年以上に及ぶ治療が終わったところで、急にこの人と話をしたくなりました。

仕事部屋に呼び入れて、ご自身の病気について少し話をした後に、「肉体は死んでなくなっても意識は変わりなく存在し生き続けます。」と伝えました。

そんな言葉が私の口から出たので驚かれたでしょうが、その後に笑みを浮かべられていました。



しばらくして、新聞のお悔み欄でその人の名前を見つけました。

あの笑みは、求めていた真実が聞けたからなのかもしれないと思いました。



10年以上前の話です。

私の医院のスタッフのお母さんが、ステージ4の卵巣がんと診断されました。

何かお役に立てないかと思い、休診日にお母さんを医院に呼んで、何回かヒーリングを行いました。

目を閉じていると光のようなものが見えたと感動されていたので、霊力の存在は実感できたのではないかと思います。



残念ながら、その数か月後にお母さんは亡くなりました。

そのスタッフが涙声で報告をして来たので、「お母さんとは必ずまた会えるよ」と伝えました。

すると「先生と出会えて良かった」と、絞り出すような声で言われました。

彼女は、その真実が聞きたかったのだと思います。



霊的な真実を求めている人がいます。

そんな人に、知っている人が伝えるのは極めて重要です。

けれども、どこにいるのかは分かりません。



霊界にいる人たちには、地上の人の心が見えます。

誰が、どんな真実を求めているのかが分かります。

求めている人が、真実に辿り着けるように、霊界の人たちは腐心していると思います。



残念ながら「シルバーバーチの霊訓」を書店で手にすることはできなくなりました。

著者のエゴが反映されている書籍がたくさんある中で、高い界層から届いた真理が無垢のまま書かれているのがシルバーバーチの霊訓です。

求めている人が、遠回りをせずに、辿り着くことを願うばかりです。



ネットで真実を探している人も多いでしょうが、こちらも玉石混淆です。

何も知らずに、好ましくない団体や人物と接点をもってしまう人もいます。



霊界の人たちは、真実を知っている人たちに、導きやすい環境を整えることを望んでいるような気がします。

それは書籍を出したり、サイトを立ち上げたりするだけではありません。



真理の普及は霊界が主導です。

自分の力で広めるのには限界があります。



何よりも大切なのは、「真実を伝えたい」「真実で救いたい」と言う意志を持ち続けることです。

その意志(想い)が霊界に届くことで、求めている人と知っている人を結び付けることが、初めてできます。



「招かれる者は多し、されど選ばれる者は少なし」とイエスは言っています。

知っている人は多いのですが、伝えたいと思っている人は少ないと、霊界の人たちは嘆いているのかもしれません。



伝えたいという意志さえあれば、霊界が導いて来てくれます。

直ぐにではなくても、引き寄せられるように近づいて来る人がいます。

そんな人は、自分でも何で近づいたのか、分からないことも多いです。

霊界の人たちに導かれているなどとは、思ってもいません。



会ったとたんに、これまでのいきさつを話し始めるかもしれません。

これも、霊界の人たちに促されていると考えられます。



一通り話を聞いた後に、心に思い浮んで来るものがあれば、霊界からのインスピレーションかもしれません。

その人が求めている真実(真理)の可能性が高いので、そのまま伝えれば良いのです。



霊界からのインスピレーションは、霊力(愛)を帯びています。

たった一言で人生が変わる可能性があります。



地上の人には、必ず1度は霊的に目覚める機会が訪れると言われています。

その時に、真実を伝えることができたのなら、とても大きな意味を持ちます。

乾いた大地に降る雨のように、求めている魂に真実は浸み込んで行きます。



力む必要も、焦る必要もありません。

救われた真実(真理)により、救われる人がたくさんいることを忘れず、伝えようとする意志を持ち続けていれば良いのです。



出会いは偶然ではありません。

求める想い、伝えたい想いに対する、霊界の回答です。

その意図を汲み取って対応する、霊的な感性が必要とされます。





2025年7月20日日曜日

あの世で喜びを感じながら生きるために


あの世は思念の世界です。

物質の世界にいる私たちの想像を超えた現象も起きるようです。

シルバーバーチの霊訓の中に、こんな問答があります。

「霊界にも電車はありますか?」という問いに対して

「ありません。但し、電車に乗りたいと思えば電車が目の前に現れます。理解できないでしょうね。でも夢と同じようなものです。電車で行きたいと思えば電車が現れるのです。」と答えています。



あの世では、思ったことが直ちに具現化します。

一方、この世ではいくら思ったとしても、具現化しません。

電車で行きたいと思えば、駅まで行って、切符を買って、乗らなければいけません。

肉体を使って行動に移さなければ具現化しないのがこの世です。

当たり前のようにそうしていますが、実は煩わしい世界に生きているのです。



そんな煩わしい世界に、どうして生まれてきたのでしょうか?

あの世では肉体がありません。

生きるために働く必要もありません。

何もしなくても生きて行けます。

生きる目的は成長することにあります。

何もしなくても生きて行けるのですが、何もしなければ成長することもありません。



周りのために何かをすることで、人は成長します。

何かをする「意志」を培うのが、この世に生まれて来た大きな目的の1つと考えられます。



この世に生まれると、魂と肉体との間に地上の自我が生まれます。

地上の自我の働きにより、意識は自分に向かいます。

自分が1番大切に思えるのも、不安や怖れが生じるのも、この自我の働きによるものです。

意識が自分に向いている時、周りのことは目に入らなくなります。



普段、私たちは地上の自我を前面に出して生きています。

ところが、徹底的に追い詰められる出来事が起きると、それまで眠っていた霊的な自我(魂)が目を覚まします。



霊的な自我が目覚めると、相対的に地上の自我の働きは弱まります。

それに伴って、意識は自分から周りに向くようになります。

お金や地位など地上的なものに向いていた意識は、愛や生命など霊的なものに向くようになります。



本当に大切なものは、五感に触れません。

誰かに教えてもらうのではなく、自らの経験を通して、そのことに気付きます。



ありふれたものほど大切です。

例えば空気です。

あまりにもありふれた存在なので、大切さを意識することはほとんどありません。

けれども、溺れたりして息ができない状態になると、強烈に意識することになります。



死んであの世に行くと、五感は取り払われ、霊的な感覚だけになります。

それに伴い、生命や愛などが身近な存在として感じられるようになります。

ただ、そんな世界にずっといると、空気と同じ様にありふれた存在となってしまい、意識するのが難しくなるのかもしれません。



霊的に大切なものを意識しながら生きるために、この世に生まれて来る人もいると思います。

いざ生まれると、五感に依存するようになるので、霊的なものが感じられなくなります。

中には、生命(魂)や愛など存在しないと言う人もいます。



そんな人でも、命が脅かされるような病気を経験すれば、生命について思いを巡らすようになるでしょう。

霊的に結ばれた人を失う経験をすれば、愛し合う以上に大切なものはこの世界に存在しないことに気付くでしょう。

霊的なものが感じられなくなる世界だからこそ、強烈に意識することができるのです。



あの世ではできない経験を通して、五感に触れない大切なものに気付いて、それを深く学ぶために、この世に生まれて来たと考えられます。

肉体を使って具現化しなければいけない、労苦を伴うこの世を生きることで、あの世で成長して行くための意志を培っていると考えられます。



この世で無駄な経験はありません。

1つ1つの経験が自分を形作っています。



経験から学んだことは霊的な財産となり、あの世に持ち帰ることができます。

霊的な財産が多い人ほど、喜びを感じながら生きることができるはずです。





2025年7月13日日曜日

意志によって力を引き出す


私も風邪を引くことがあります。

そして、そのパターンは決まっています。

仕事が一段落し、まとまった休みに入った直後に熱が出るのです。

おかげで外出できなかったり、行った先で(発病して)大変な思いをしたりします。



お子さんが風邪を引いて熱を出している最中に、お母さんが熱を出してしまうことは少ないように思います。

熱が引いて安心した頃に、熱が出ることも多いのではないでしょうか。



気が張っているせいと思いましたが、もう少し深い理由がありそうです。

仕事をしている時は、何かをしよとうする意志表示の連続です。

意志表示することで、肉体は動いて、仕事をこなして行きます。



人間は魂(霊)、精神、肉体の3者から成り立っています。

それぞれが存在する次元は違い、活動するためのエネルギーも違います。

魂は、神的エネルギーが供給されて活動しています。

精神は、魂に供給されたエネルギーが次元変換されたエネルギーで活動しています。

肉体は食物から取り入れたエネルギーと、次元変換されたエネルギーの両方によって活動しています。



何かをしようとする意志が生まれている時、人間(魂)は神的エネルギーが供給されています。

神的エネルギーとは生命エネルギーです。

生命エネルギーが不足すると、精神的活動は抑制されて、うつ症状として表れることもあります。



生命エネルギーは肉体次元において、病気を治癒させる力や免疫力として働いてます。

つまり仕事をしている時には、何かをしようとする意志が連続して生まれているので、生命エネルギーが絶え間なく供給され、それに伴い免疫力が高まり、風邪を引きにくいと考えられます。

病気の子供の看病をしているお母さんは、何とかしようとする意志が「愛」を帯びているので、さらに多くの生命エネルギーが供給されていると考えられます。

元気でいられるのはそのためと考えられます。



人間は想像をはるかに超えた大きな力を発揮することがあります。

2023年、アメリカのテネシー州で、老農夫がトラクターの下敷きになりました。

それを見た孫娘のシャーロット・ヒューストンさんは1トン以上のトラクターを一人で持ち上げ祖父を救出したそうです。

彼女は後に「なぜできたのか分からないと」言っていたそうです。



2011年、アメリカのユタ州に住むアンジェロ・カヴァロさんという女性が、ジャッキで持ち上げた車の下で作業中に、ジャッキが外れて下敷きになり意識を失った息子を見つけて、近所の人が引き出すまでの間、1.5トンを超える車を持ち上げていたそうです。

彼女もまた「どうやって持ち上げたか覚えていない」と言っていたそうです。



これらの現象は「ヒステリック・ストレンス」(日本で言う火事場の馬鹿力)と呼ばれ、大量のアドレナリンが放出されて、脳のリミッターが外れた時に起きると言われています。

いくつかの霊的な条件を満たした時に、このような現象が起きると考えられます。

危機的な状況に直面して、自我が吹き飛び、魂が目覚めていたと考えられます。

人を助けようとする愛を帯びた強い意志により、多くの霊的なエネルギーが引き出されて、それが肉体次元にまで及んで、想像を超えた物理的な力が発揮されたと思われます。


2009年5月、マンハッタンの小児病院を、ニューヨーク・ヤンキースのある選手が慰問に訪れていました。

長い下積みを経験してメジャーに昇格したばかりのブレッド・ガードナーという選手でした。

残念ながら子供たちは誰も知らなかったので、彼はチームメートであるスター選手の話をして、その場を盛り上げたそうです。



そんな彼の誠実さに惹かれた一人の少女がいました。

彼女の名はアリッサ・エスポジートで、生まれつき重い心臓病を患っていました。

様々な治療を試しても上手く行かず、心臓移植を受けるしか方法はありませんでした

一刻を争う状況の中、ドナーが見つからないまま、長い時間が経過していました。



アリッサはガードナー選手にブレスレッドをプレゼントをしました。

その時「このブレスレッドは幸運のお守りよ。今夜きっとあなたにホームランを打たせてくれるわ。もしホームランを打ったら私にも良いことが起こるような気がするの」と言ったそうです。

少女からの思いがけないプレゼントでしたが、彼は受け取るのをためらいました。

何故なら、彼はホームランバッターではなく俊足を活かす機動力タイプの選手で、しかもレギュラー争いにも敗れて試合にもほとんど出場できず、いつマイナーに落とされてもおかしくない状況だったからです。

”打てるはずもないホームランを約束して期待を持たせるわけにはいけない”と思いましたが、心優しい彼は、精一杯の笑顔で受け取りました。

しかし、現実は甘くはありません。

当日の試合も、スタメンには入っていませんでした。

試合が始まり、アリッサは病室で観戦していましたが、その時、待ち続けたドナーが現れたという知らせが飛び込んできました。

彼女に起こった幸運に呼応したかのように、スタジアムでも小さな異変が起きていました。

スタメンの選手が審判の判定に抗議して退場処分となり、代わりにガードナー選手が急遽出場することになったのです。



アリッサの緊急手術が始まり、全身麻酔の薬が打たれているその時、ロビーでは歓声が上がりました。

ガードナー選手に打順が回って来たのです。

二人の約束を知っている人たちは、固唾を飲んでバッターボックスに立つ彼を見守りました。

その時の実際の映像が残っています。(下の動画)


           

神が奇跡を起こしたのではありません。

約束を果たそうとするガードナー選手の愛を帯びた強い意志(想い)により、神的なエネルギーが引き出されて、奇跡のようなパフォーマンスが発揮されたと思います。

彼の純粋な想いに対して、霊界からの働きかけもあったと考えられます。



アリッサの手術は無事に終わりました。

病室に帰り、試合のビデオを観た彼女は、「私のために走ってくれている」と叫び、回復するよう前に進むように後押しされていると感じたそうです。

彼の意志は、しっかりと彼女に伝わっていたのです。



出会うべくして出会い、それを機に人生が大きく変わる時があります。

その後の彼女ですが、順調に回復して大学に入学したそうです。

一方のガードナー選手ですが、ヤンキースのスター選手の1人となりました。



生きる力は、生命の根源である魂から湧き出しています。

その力によって、私たちは生かされています。

何かをしようとする意志が生まれた時、生きる力は引き出されます。

その意志が愛を帯びている時、神の意志(心)と一致しているために、力はさらに引き出されます。

結果として、想像を超える大きな力が肉体次元で発揮され、具現化する時があります。

奇跡のように見える現象は、法則の働きに則って起きています。



実現させるという強い意志を持てば、実現できます。

乗り越えようとする強い意志を持てば、乗り越えられます。



魂は、無尽蔵の神的なエネルギー源とつながっているからです。

自分の意志によって、その力をいくらでも引き出すことができるからです。

     


2025年7月6日日曜日

地球温暖化と霊的真理


7月5日に大災害が起きるかもしれないと噂が流れましたが、結局何も起こりませんでした。

けれども、人間が作り出した大災害が、すでに地球規模で起きています。



私の住む町では、連日のように気温が35度を超えています。

以前は異常気象と言っていましたが、今ではそれが当たり前になっています。

「ゆでガエル現象」と呼ばれるものがあります。

温度が少しずつ上がる鍋の中でカエルが逃げずにゆであがってしまうという寓話に由来していますが、徐々に悪化する状況に気づかずに対応を怠り、手遅れになるのを意味しています。

私たちは、「ゆでガエル」になりつつあるのではないでしょうか。



異常気象の原因ははっきりしています。

温室効果ガスである二酸化炭素の大気中の濃度が高くなったからです。



何故、大気中の二酸化炭素の濃度が高くなったのでしょうか?

人がたくさんの物を欲しがり、たくさん移動するようになり、快適な暮らしをするようになったことが原因と考えられます。

それにより、工場が稼働し、乗り物が動いて、電力が消費されて、たくさんの二酸化炭素が排出されることになります。



たくさんの物を欲しがるようになったのは、何故でしょうか?

物を手に入れることに、人は喜びを感じるからだと思います。



気に入ったものを手に入れると、私も喜びを感じます。

けれども、その喜びは束の間です。

しばらくすると別のものが欲しくなります。

物的なものは、いくら手に入れても切りがありません。



何故、物的なものを追い求めてしまうのでしょうか?

私たちは、地上の自我(エゴ)を前面に出して生活しています。

エゴの働きによって、目に見えるもの、触れるものに関心が行くようになります。

目に見える何かを所有することで、エゴの欲求が満たされます。



私たちには、霊的な自我も存在しています。

物をいくら手に入れたとしても、霊的な自我からは喜びは生まれません。



霊的な自我から生まれる喜びとはどんなものでしょう?

まず挙げられるのは、愛する喜び、愛される喜びです。

役に立った時もそうです。

親切にして喜ばれた時に、自分もうれしくなりますが、それもそうです。

自分の欲求が満たされた時にエゴが喜びを感じるのに対して、霊的な自我は他者の喜びの中に喜びを見出します。

霊的な喜びを感じたい人は、物的なものに対してそれほど興味を示さなくなります。



エゴの働きが強くなっている人は、霊的な自我はその奥で眠っています。

けれども、心の奥深くにまで響く出来事を経験すると、それまで眠っていた霊的な自我が目覚めることがあります。

目覚めると、今までとは違うものに喜びを見出すようになります。

そんな人たちが多くなると、世の中は変わります。



2020年初頭からコロナウィルスの流行が始まりました。

この未知のウィルスの流行により、世界中の人は外出を控え、人との接触を避けました。

生命を脅かし、生活を一変させたこの出来事が、心の奥底にまで響いた人は、決して少なくなかったと思います。


非常事態宣言下の東京

非常事態宣言下の東京の街は、走る車は激減しました。

工場や会社も休業して、経済活動が抑えられました。

その結果、何十年ぶりかに澄み切った空気と空の青さを取り戻しました。

世界の二酸化炭素の排出量は、統計を取って以来、最大の減少幅だったそうです。

これ位のレベルで行動変容が起きないと、温暖化は食い止められないのかもしれません。



温暖化が進んだことで生態系が変わり、そして自然を破壊して開発したことにより、未知のウィルスを保有した動物たちと接触した可能性があります。

もしそうであれば、人間が物的な豊かさを追い求めたことが原因で、ウィルスの流行が起きたことになります。

警告が発せられても、聞く耳を持たない身勝手な人間を、強制的に行動変容を起こさせるような大自然のプログラムが仕組まれていたのかもしれません。



残念ながら、地球温暖化は今も進行しています。

コロナウィルスは、変異を繰り返しながら未だに流行しています。

このまま温暖化が進むと、さらに行動変容を強いるようなウィルスが登場するプログラムが仕組まれているのかもしれません。

それによって多くの人の霊的な自我が目覚めて、内から行動変容が起こるでしょう。



エゴの働きが強くなると意識は自分に向き、霊的な自我が目覚めると意識は全体を向くようになります。

より多くの人が全体に意識を向けるようになって、初めて温暖化に歯止めがかかるような気がします。



危機的な状況に目を瞑り、自分の欲求を満足させることを優先させているのは一種の利己主義です。

因果律の働きによって、利己主義はいずれ正されて行きます。

けれども、それまでの間に多大な犠牲が払われることになります。

何よりも心が痛むのは、動物たちが人間以上に、苦痛を強いられていることです。

人間の欲望やわがままで、何の罪もない動物たちの生存が、どうして脅かされなければいけないのでしょうか。

出典:SeppFriedhuber/Getty Images


Materialism(物質万能主義)に打ち込む楔が、Spiritualismです。

霊的真理を知っている者、霊的能力がある者の責任は、想像以上に大きいのかもしれません。

時間は限られています。

直ぐに受け入れてもらえなかったとしても、一人でも多くの人に伝えて行こうと思います。



2025年6月29日日曜日

戦争は人類の進化成長を遅らす


世界の各地で戦争が起きています。

以前は、遠い国で起きている、自分には関係のない出来事のように感じられました.。

霊的真理を知った今、他人ごとのように思えません。



住んでいる国は違っていても、魂の成長という同じ目的を持って、この地上に生まれて来ています。

それぞれの人に、目的を果たすために計画された人生があります。



戦争は身体や建物を破壊します。

それだけではなく、計画された人生も破壊してしまいます。



戦争で亡くなった人たちは、地上の人生が中断されます。

次の世界に移っていることに気付かなかったり、ショックを受けて順応できない人たちが多くいます。

中には、戦闘を続けている人もいるようです。



そんな人たちのために、霊界の人たちが寄り添って介抱します。

注がれる愛によって、魂は癒されて行きます。

神の公正は完璧です。

地上で得られる予定だった学びや成長が、「埋め合わせの原理」により、霊界においても得られるようです。

不利益を被らないように配慮されていますが、計画された人生を全うするのに越したことはありません。



大切な人を失った人は嘆き悲しみます。

あまりに理不尽な現実に、憎しみや恨みを抱く人も少なくありません。

中には、復讐するために、テロ組織に入る人もいるでしょう。

テロ組織を壊滅するために行っていることが、テロ組織を生み出しているのが現状です。



銃の引き金を引いた人も、苦しんでいます。

たとえ命令であったとしても、罪もない人たちに向けて引き金を引いてしまったとしたら、真ともな人間なら良心の呵責に苛まれてしまうでしょう。


たった1発の銃弾が、撃たれた人、その家族、そして撃った人の人生を狂わせます。

これまでに、どれくらいの数のミサイルが落とされ、銃弾が撃たれたのでしょうか。

膨大な数の人生を大きく狂わせてしまうのが戦争です。



生きるか死ぬかの状況下で興奮状態となり、理性が失われ獣性がむき出しになる人がいます。

欲望を満たすために、武器を片手に非道な行いをして、無用なカルマを作ってしまう人も少なくありません。

カルマを作ったら、その償いが済むまで、成長は許されません。

成長するために生まれて来たのに、償いをするためにまた地上に生まれなければならないほど、大きなカルマを作ってしまうのも戦争です。



戦争の本質は怒りと恐怖と悲しみです。

そんな感情に捉われてしまったら、自分本来の表現ができなくなります。

他者を愛することもできなくなります。

戦争は、人が進化成長して行く機会をことごとく奪って行きます。



シルバーバーチの霊訓には、こう書いてあります。

「これより先もまだまだ地上から戦火が消えることはないでしょう。人類全体が巨大な霊的家族であるという、この単純な真理が未だに理解されてないからです。」



個々の人間は、身体の細胞のようなものです。

小さな存在であっても、全体のために何らかの役割りを果たしています。



全ての細胞には同じ血液が流れ、つながっています。

従って、どこかの細胞に異変が起きたら、他の細胞にも影響を与えます。



個々の人間も、つながっています。

出典:Anadolu via Getty Images

戦争で悲惨な状況に置かれている人たちを見て、感じているであろう苦しみや痛みや怒りや怖れや悲しみに同情するのは、神性でつながっているからです。

世界のどこかで起きている戦争は、少なからず全体に影響を与えています。

多くの人の進化成長する機会を奪ってしまう戦争は、人類全体の進化成長を遅らせていることになります。

私たちは霊的に一体だということを忘れてはいけません。



自我(エゴ)と神性とのせめぎ合いの中で生きています。

エゴが勝れば不調和が起こり、神性が勝れば調和が訪れます。

エゴから生じる欲求や感情に打ち克って、神性を発揮させることは、この世に生まれて来た大きな目的の1つです。



エゴの働きが強くなり、本来の自分を見失った人たちは、因果律の働きにより、苦しみや痛みを伴う出来事を経験することになります。

それにより、魂が目覚めて、本来の自分を取り戻します。

その時から、内在している神性を発揮できるようになります。



戦争をなくす特効薬はありません。

さまざまな出来事を経験することによって、魂は学び成長し、より神性を発揮できるようになります。

全ての争いは、神性が発揮されることで回避されます。



人は何度も地上に生まれて来ます。

これから生まれて来る人たちは、過去生でさまざまな出来事を経験して、より神性が発揮できる人たちと思われます。

そんな人たちが多くなるのに従い、戦争は姿を消して行き、調和のとれた平和な世界へと変わって行きます。





2025年6月22日日曜日

全宇宙は霊的に一体


子供の頃、星空を見上げるのが好きでした。

暗い中に一人ぼっちでも、満天の星の下にいると、何か大きなもの、あたたかいものに包まれているような気がして、怖くも寂しくもありませんでした。

宇宙との間に、一体感のようなものが感じられました。



大人になると星空を見上げることもなくなり、目の前にある現実の世界しか見なくなりました。

その世界に存在している人や物は、それぞれが完全に独立しているように見え、一体感は感じられませんでした。



あの一体感はどこから生まれたのでしょう?

人間は肉体以上の存在です。

目に見えない精神があり、その上位に魂(霊)が存在しています。



肉眼(肉体)によって、星空を見ています。

精神によって、星空を認識しています。

星空との間に一体感を感じていたのは、私の魂です。


私たちの本来の住処は霊界です。

そこでは五感はなくなり、霊的な感覚だけになります。

周りにいるのは霊的に似通った人たちばかりで、お互いの想いを共有しています。

自分と他者を隔てていたものが取り払われ、地上とは比較にならないほどの一体感が感じられます。



地上にいる私たちにも霊的な感覚はあります.

けれども、五感に圧倒されて、その感度は極めて鈍くなっています。

霊的な感度が鈍くなり、霊界にいた時のような一体感は感じられなくなっています。



そんな地上に、どうして生まれて来たのでしょうか?

肉体を持つと、(地上の)自我が芽生えます。

自我の働きにより、自分が1番大切に思えるようになります。

しかも、周りにいるのは自分と違う人たちばかりです。



そんな状況から、地上では他者とぶつかり合ってしまう時があります。

怒りなどの感情が生まれると、争いなど苦痛を伴う出来事が起きてしまいます。



誰しも苦痛を味わいたくありません。

そうならないためにどうすれば良いのかを考えるようになります。

自分を大切にするように、他者を大切にしなければならないことに気付く人もいるでしょう。



他者を大切にすることは、他者を慈しむことに他なりません。

慈しむことによって、言葉や人種や文化の違いから生まれる障壁を乗り越えられます。

人間だけでなく動物たちとも、心を通わせることができるようになります。

許すことができて、苦しみを伴う感情から解放されます。

争いを終わりにすることができます。

差別や飢餓や貧困もなくなります。

霊界ではあり得ない出来事を経験することで、他者を慈しむことの大切さ、その意味について学ぶために、私たちは地上に生まれて来たと考えられます。



全宇宙は霊的に一体です。

けれども、地上ではその実感はありません。

それゆえに、その真理を信じることが必要です。



信じることができたならば、全体の意識に触れることができるかもしれません。

子供の頃、星空の下で味わった、あのあたたかいものに包まれている感覚は、全体の意識に触れて、そこから流れ込んだ愛を帯びた霊力によって生まれたと思います。



全体の意識とは、全宇宙を慈しむ無限の心と考えられます。

さまざまな出来事が起きるこの世界に対して、慈しみの想いを持つことができたならば、地上にいながらにして霊界にいる時のような一体感を感じながら生きることができるはずです。





一体であるものを分断しようとする、愚かで残酷な行為が平然と行われているこの世界を変えて行
のは霊的真理です。





2025年6月15日日曜日

自分の中にいる神


昔は、神など信じていませんでした。

神は宗教の産物であり、弱い人間が頼るものと思っていたからです。



40代半ばに霊的真理(シルバーバーチの霊訓)に出会い、神の存在を信じるようになりました。

ただ、そこにあった神は宗教が説いていたものとは違っていました。



神は自分と離れたところに存在しているのではありません。

全てのものに存在しています。

私自身も神です。



けれども、自分が神であるという実感は全くありません。

他の人を見ても神とは思えません。

そのため、その真理を受け入れるまでに、少し時間がかかりました。


自分の中に自分とは違う「何か」がいるのは、子供の時から感じていました。

その「何か」は、やってはいけないことをしようとする時に、声なき声で引き留めていました。



それこそが、自分の中にいる神です。

神が良心となって顕現しています。



人の行いの中にも、神を見る時があります。

第2次世界大戦中、リトアニアの日本領事であった杉浦千畝は、ナチスドイツの手から逃れて来たユダヤ人にビザを発給して、国外に脱出させました。

この行為は国の方針に背いたものでしたが(後に失職)、リトアニアの地を去る最後の一瞬まで続けられたと言われています。

国外に脱出できた六千人以上にのぼるユダヤ人たちは、彼の行いの中に「神」を見たと思います。



大きな行いだけではありません。

転んだ人の手を取って起こそうとする人の中にも、神を見ることができます。

出来事を許そうとしている人の中にも見ることができます。

神は遍く存在しているのです。



神を見るのは、人の行いの中だけではありません。

ファシリティドッグというのをご存じでしょうか?

入院している病気の子供たちのためにいる病院専属の犬です。

彼らは、子供たちが嫌いな注射をする時や手術室に向かう時に寄り添って、立ち向かう勇気を与えています。

つらい思いをしている子供たちを癒そうとしている犬の姿にも、神を見ることができます。

人間が訓練したので、そのような振る舞いができるようになっただけと考える人もいるでしょう。

それ以上のものが存在していなければ、子供たちに勇気や元気や笑顔は生まれません。



訓練したわけでもないのに、溺れかけている猫を救っている犬の姿を見ても、それ以上のものが存在していることが分かります。

種に関係なく、生命(魂)に神が存在しているからこそ、このような行いができるのだと思います。

それ以外に合理的な説明はできません。



神が存在しているのですが、地上では自我によって、その発現が妨げられています。

「自分の身が危ない」「自分が不利益を被る」と自我(エゴ)が出てしまえば、神が発現することはありません。

何かをきっかけにして、自我の束縛から解放された時、初めて発現します。



無限大の宇宙の中で、地球という限られた空間の中で生きている全ての生命は運命共同体です。

全体のために、何らかの役割りを果たすため、能力を発揮するために、地上に生まれて来ています。

前述のファシリティドッグも、医者や看護師にできない、自分に与えられた能力を発揮しています。

しかしながら、多くの人はその役割りや能力に気付いていません。


生命とは神そのものです。

そのことが分かったのなら、傷つけたり苦しめたりすることはできないはずです。

他者の中に神の存在を認めたのならば、戦争や差別はなくなるはずです。

最も尊いもの、聖なるものを、蔑んだり、憎んだり、壊そうとすることは、誰にもできないからです。



神の意図を実現させるために、この世界は存在しています。

私たちの中に神がいること、神性でつながっていることに、多くの人が気付くことによって、神が意図した愛と喜びに満ちた世界へと変わって行きます。






2025年6月8日日曜日

霊界に持って行けるもの


人間は喜びを感じていたい生き物です。

服を買ったり、おいしいものを食べたりすると、ちょっとした喜びを感じます。


けれども、その喜びは時間の経過と共に薄れて行きます。

しばらくすると、また新しい服が欲しくなり、おいしいものを食べたくなります。


人に喜ばれた時や、物事をやり遂げた時にも喜びを感じます。

その喜びは、もっと深いところから生まれていて、時を経ても思い出すことができます。



地上の人は2つの自我が存在しています。

肉体を使って表現するための自我(以下地上的自我)と、霊体を使って表現するための自我(霊的自我)です。

起きている時は地上的自我、眠っている時は霊的自我を前面に出して自己表現しています。

真の自分とは、もちろん霊的自我です。



物的な欲求が満たされた時の喜びは、地上的自我から生まれています。

人に喜ばれた時の喜びは、霊的自我から生まれています。

同じ喜びであっても、次元が違う自我から生まれています。 



あの世に行くと、地上的自我はなくなり、霊的自我だけになります。

お金や地位など物(地上)的なものに喜びを感じていた人は、喜びが感じられなくなります。

喜ばれることに喜びを感じていた人は、より深い喜びが感じられるようになります。



喜ばれた時、物事をやり遂げた時に喜びを感じるのは、どうしてでしょうか?

他者に奉仕すること、困難や障害を乗り越えようとすると、法則の働きによって人は成長します。

反対に、人を貶めたり傷つけたりすると、同じ法則の働きによって成長は妨げられ、苦痛による償いが生じます。

喜びと苦痛を通して、私たちは成長する方向へと導かれていると考えられます。



「地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生をたどるのかあらかじめ承知しております。あなた方は自分がどんな人生を生きるのか覚悟の上で生まれてきているのです。その人生を生き抜き、困難を克服することが、内在する資質を開発してより大きな自分に新たな神性を付加していくことになるのです。」

シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。

人生には計画があります。

計画に沿って人生は展開して行き、予定されていた出来事が因果律の働きによって、絶妙のタイミングで起こります。



出来事が起きた時、どう想い、どう行動するのかは、その人の自由意志に任されています。

そのため、予定されていた方向に進んで行くとは限りません。



死んだ後に、地上の人生を振り返る時が訪れます。

出来事が起きた時、どう想い、どう行動したのかを、思い出します。

追い詰められて、どうにもならなくなった時、奥深くにいる自分が目覚めて、そこから予定されていた人生を歩み始める人がいます。

生まれて来た目的を果たすために、その出来事がどうしても必要だったことが分かります。



感情に捉われないで、奥深くにいる自分(霊的自我)の想いに従って進んで行かなければいけません。

想いが分からないのであれば、より自分を成長させると思われる方向に進んで行きましょう。

その方向は往々にして困難が伴いますが、予定されていた人生から大きく外れることはありません。



その時、地上的自我はこのように考えるかもしれません。

「無理だからやめておこう」

「このままでもいいじゃないか」

そんな考えは無視して、自分の想いに正直になりましょう。

決して後悔することはありません。



出来事は法則の働きによって起きています。

法則は無限の愛によって創られているので、克服できない出来事は起きないようになっています。

挫折させたり、絶望させるためではありません。

学び成長させるために起きています。



いつまでも受け入れなかったり、運命を呪ったり、人生を嘆いたり、誰かのせいにしてしまうと、予定されていたのとは違う方向に進んでいることになります。

そんな自分の姿を見たとしたら、後悔は避けられません。

自分の意志で、自分の責任で、自分の未来を決めていたことが、死んだ後にはっきりと分かるからです。



苦しくても前に進んで行こうとするのは、試練は完全に報われることを、奥深くにいる自分(霊的自我)は知っているからです。

この人生の後にも、人生は続いています。

無駄な経験はなく、後の人生で活かされることを知っているからです。



霊界に持って行けるのは、さまざまな経験を通して得た学びです。

成長することができた喜びです。





2025年6月1日日曜日

自分の想いを問い質す

私たちは、肉体を使って自己表現しています。

生まれた時からそうしているので、当たり前のように感じられますが、そうではありません。



死ぬと肉体はなくなります。

別の媒体で自己表現を始めます。

そこでは想ったことが、直ぐに具現化します。

想いが周りに知れる、嘘や偽りが存在しない、ありのままの世界です。



地上での行いの全ては、魂(オーラ)に刻み込まれています。

死後に人生を振り返る時が来ますが、自分の行いがどんな結果をもたらしたのかを知ることになります。



同じ行いであっても、動機は様々です。

例えば、大きな災害が起きると、被災地を支援する人たちが現れます。

支援する動機が、被災者のために役に立ちたいという人がほとんどでしょうが、中には見栄や称賛を得るための人もいます。

外からは知ることはできませんが、その動機が問われます。



地上を生きる人間は、肉体、精神、魂(霊)の3者から成り立っています。

3者の存在する次元は異なります。

私たちは物(肉体)的次元の存在ですが、同時に精神的次元、霊的次元にも存在していると言えます。



肉体、精神、魂(霊)は、それぞれの次元の法則の働きによって支配されています。

私たちが認知しているのは物的次元に働いている法則です。

物理的、化学的、生物学的法則などがそうです。



精神的法則は、精神次元に形成されている自我に働いています。

別れの時に悲しくなり、裏切られた時に怒るのもそうです。

特定の出来事に対して、特定の感情が生じるのは、精神的法則の働きによるものと考えられます。



霊的次元の法則は、魂に働いていて、進化成長に関わっています。

他者に奉仕をすること、困難や障害を乗り越えようとすること、内なる神の声に耳を傾けることで、霊的次元の法則に則って、魂は成長します。

人を傷つけたり、苦しませたりすると成長は妨げられ、償いが生じるのも同じ法則の働きによります。



霊的次元の法則は、目に見えない想い(動機)に対しても働いています。

想い(動機)が、役に立ちたいなど利他的なものであれば、法則に叶っているので成長を促します。

見栄や称賛を得るためなど利己的なものであれば、法則に叶っていないので成長することはありません。

同じ行いをしても、想い(動機)によって魂に与える結果は大きく違って来ます。



自分の心は自分のものです。

何を想っても自分の自由だろうと考えている人もいるでしょう。

行動に移さなければ、何を想っても構わないと考えている人もいるでしょう。


壁を手で押すとどうでしょう?

壁から押し返されます。

これは「作用・反作用の法則」(ニュートンの第3法則)の働きによるものです。

霊的次元においても、同じような法則が働いていると考えられます。

憎しみや恨みなどで他者を貶めようとする想いが生まれると、魂を貶める結果となって自らに返って来ます。

想いは具現化する力です。

行動に移さなくても、自分から生じた想いは、形を変えて具現化するので、気を付けなければいけません。



あらゆる次元の法則の根幹を成しているのは「因果律」です。

人に喜んでもらうと、自分もうれしい気持ちになります。

愛情を知らない動物たちが、飛び切り愛情深い家族に迎え入れてもらい、幸せそうに暮らしている姿を見ると、自分もとても幸せな気持ちになります。

幸せになって欲しいという想いは、自分自身を幸せにしてくれます。           

良くも悪くも行動を起こした想い(動機)は、霊的次元の法則の働きにより、自分に返って来ます。



人のためにと思っていても、実は自分のためにしている時があります。

法則は誤魔化せません。

どんな想いで行動しようとしているのかを、自分に問い質す必要があります。



シルバーバーチの霊訓にはこう書かれています。

「自我を発達させる唯一の方法は自我を忘れることです。他人のことを思えば思うほど、それだけ自分が立派になります。」

地上において培われた、誰かのために何かをしようとする想いは、霊界で遺憾なく発揮されて、自らを成長させることになります。

全体のために、もっと自分を役に立てたいと言う想い(動機)があったからこそ、居心地の良い霊界を離れて、さまざまな体験ができる地上に生まれて来たのです。




2025年5月25日日曜日

意識が変わる時


地上にいる私たちは、肉体(物質)しか見えません。

そのため、自分と他の人を全く別なものとして認識しています。

当たり前のことを言うなと叱られそうですが、そうではない世界にいづれ赴くことになるのです。



死ぬと地上を離れて霊界に行きます。

そこでは、肉体(物質)は見えなくなり、代わって霊(魂)が見えるようになります。

そして、人と人(魂と魂)の間にあるつながりを意識するようになります。


死ななくても、意識するようになった人もいます。

エドガーミッチェルは、アポロ14号に搭乗して、6番目に月面を歩いた宇宙飛行士です。

彼はこう語っています。「宇宙から地球を見下ろした時、私の中で何かが変わった。私は自分が宇宙の一部であり、宇宙が私の一部であることを感じた。」

そして「地球へ帰還するあの3日の旅程で私が経験したことは、宇宙の一体性(ユニティ)という圧倒的な感覚に他ならない。」と言っています。



宇宙に行くという特別な体験をしたので、考え方が変わったと言う人もいるでしょう。

全ての人は、死の際に宇宙飛行士よりもはるかに強烈な体験をします。

そして意識は激的に変わります。

個は全体を構成する一部であり、全体はつながっていて1つであることを、自然に意識するようになります。



2020年初頭、新型コロナウィルスが流行し始めました。

ロックダウンなど、人との接触を断つ対応が取られましたが、そんなことなどお構いなしに世界の隅々にまで、ウィルスは拡がって行きました。

人とのつながりを断つことは不可能であることを物語っていました。



2011年3月に東日本大震災が起こりました。

悲惨な現実を前にしながらも、被災者同士が食料や水、毛布などを分け合い、支え合いました。

知らない人同士でも「大丈夫?」と声をかけ合いました。

「自分だけが助かれば良い」ではなく「みんなで乗り越えよう」という意識が生まれました。

こんな様子が各地で見られました。



神秘的な体験をしたり、危機的な状況に直面すると、普段とは別の意識が現れる時があります。

別の意識が、命あるもの同士の間に存在する、目に見えないつながりを感識することがあります。



大切な人を亡くすと、もう姿を見ることも、声を聞くことも、体に触れることもできなくなったと嘆き悲しみます。

悲しみの末に、導かれるようにして、亡くなった人の存在を見出す人がいます。

肉体はなくなっても、霊的なつながりは失われていなかったことを知ります。



地上では、五感で感じられるものに意識が向きます。

眠っていた魂が目覚めるような体験をすることによって、物的なものから霊的なものへと意識が向くようになります。

お金や地位を追い求めるのをやめて、人間関係を大切にするようになった人を見かけますが、そんな人は意識に変化が起きていたのかもしれません。



見かけは違っていても、人間(生命)の本質は同じ魂です。

魂に内在する神性によって、私たちは1つに結ばれています。

広大な宇宙の中で、地球という同じ空間に住んでいる同胞です。

それぞれが全体のために何らかの役割りを果たすために存在しています。

死んでからではなく、生きているうちにそのことに気付くべきです。


1つに結ばれているものを、分断しようとする考えや行いは、明らかに間違っています。

本質は同じなのに、優劣を付けたり、不平等に扱うのは、明らかに間違っています。

間違っていると思うけど、根拠がないので確信を持てない人が少なくありません。



多くの人が漠然と感じていることを、明文化したものが霊的真理です。

真理に出会ってから20年経ちます。

さまざまな実体験に基づいて、私なりに検証して来ましたが、その内容に矛盾や疑問を感じたことは1度もありません。

少なくても私にとって確固たる根拠となっています。

真理に照合すれば、対象となるものが正しいのか、間違っているのか、直ぐに答えが出ます。



シルバーバーチの霊訓にはこうあります。

「魂が開発され進歩するにつれて、自動的に他人に対して寛大になり、憐れみを覚えるようになります。これは悪や不正に対して寛大であれという意味ではありません。相手は自分より知らないのだという認識から生まれる、一種の我慢です。人間はたいていの場合、自分のしていることの意味が分らず、全くの無知から行動しているものです。それがあなたの我慢のしどころです。しかし、その我慢は悪を放任し黙認することではありません。それは我慢ではなく、目の前の現実に目を瞑ることです。」

最近になり、この言葉の存在が大きく感じられます。



間違った行い(悪)は、因果律の働きによっていずれ正されて行きますが、それまでに多大な犠牲が払われることになります。

間違っていることを確信しているのに、何もしなければ目を瞑っているのと同じような気がしてなりません。

真理を知った者同士が一致団結して、声を上げれば1つの力になるのかもしれません。



シルバーバーチの霊訓にはこうも書かれています。

「大自然の働きの基調は革命(レボリューション)ではなく、進化(エボリューション)です。進化の過程はゆっくりと着実に進行します。」

  「神の摂理は完璧ですから、地上の人間が一人の例外もなく、生涯に一度は真の自分を見出すチャンスに巡り合えるように配慮されております。」

さまざまな体験を通して、真の自分を見出し、意識が変わろうとしている時に、真理を伝えるのは極めて重要なことです。

一人ひとりの意識が変わり、真理を知ることで、望ましい世界へと変わって行きます。      



けれども、変わろうとしている人が、容易に真理に辿り着ける環境にあるとは言えません。

もっと身近で、手に届く範囲に置かれていなければいけません。

今は、書籍よりもSNSを利用して知識を得る時代です。

より多くの人が参画した方が、必要としている人が辿り着ける可能性は高まります。

可能性が高まることを、一人ひとりが追求して、導き先が構築されることを霊界は望んでいると思います。





2025年5月18日日曜日

許すという意志を持つ


今生きている世界と、死んでから赴く霊界では、大きく違うところがあります。

霊界では、周りにいるのは自分と同類の人ばかりです。

一方、地上では、周りにいるのは自分と違う人ばかりです。

そのために、相性が良くない人や、苦手な人がいたりして、人間関係で苦労します。



自分と違う人、例えば肌の色が違う人、言葉の違う人と会うと、どこか隔たりを感じます。

隔たりを感じて避けてしまうと、お互いを理解できなくなります。

理解できていないために、誤解が生まれて、いさかいに発展してしまう時があります。

争いの多くが、お互いの違いを認めなかったり、理解し合えないために起きていると思われます。



争いにより被害を被ると、怒りや憎しみが生まれます。

相手のことが許せなくなると、やり返すことになります。

それが繰り返され、争いは発展して行きます。



怒りや憎しみは、地上的自我から生まれます。

地上的自我は、肉体で自己表現するための(精神の)媒体です。

死んで霊界に行くと、肉体はなくなり霊体で自己表現するようになります・

それに伴って、霊的自我が媒体となります。

地上的自我はなくなるので、怒りや憎しみの感情は生まれなくなります。

普段、私たちはこの地上的自我を前面に出して生活しています。



許せなくなるのは、地上的自我の働きによるものです。

許せなくなると、怒りや憎しみの感情が生じて、心が苦しくなります。

苦しさから解放されるためには、許せば良いのですが、いくら許そうと思って許せるものではありません。



許すのは、地上的自我ではなく、霊的自我の働きによるものです。

霊的自我には神性があります。

神性は、寛容心、親切心、共感力、忍耐力、誠実さ、利他性、公平さ、責任感、思慮深さ、柔軟性、勇気などによって表現されています。



許すためには、神性が発揮されなければいけません。

頭でいくら許そうと思っても許せないのはそのためです。

許そうとする霊的自我と、許すまいとする地上的自我の間で葛藤が生じることがあります。



2つの自我の間で葛藤が起きることは日常的にあります。

道で倒れている人を助けようとするのは、霊的自我の神性が発揮されたからです。

的自我は、自分には関係ない、関わりたくないと考え、その場を去ろうとします

助けるのか、助けないのか、迷う時があります。



神性は、魂が進化するほど発揮されます。

さまざまな経験をしながら、年月をかけて、魂は少しずつ進化して行きます。

従って、一朝一夕に許せるようにはなりません。



それでは、どうやっても許すことはできないのでしょうか?

人間には意志があります。

意志は具現化する力を秘めています。



許さないと言う意志がある限り、当然のことながら許すことは決してありません。

その逆に、許すという意志を持てば、たとえ直ぐにではなくても、許す方向へと向かって行くはずです。



怒りや憎しみの感情は、地上的自我から生じています。

許そうとする意志は、霊的自我から生じています。

地上的自我(精神)の上位に霊的自我があります。

怒りや憎しみはの感情は、霊的自我から生じている許そうとする意志には勝てないので、消えて行くはずです。


自分にある神性を信じましょう。

神性が発揮されて、許せないことは何もありません。



許そうとする意志の本質は、自己犠牲を伴う愛です。

愛によって、内に溜まっている怒りや憎しみの感情は手放されます。

手放された時、対象は許されます。



負の感情に支配されそうになった時、認める、許す、哀れむという意志を持ちましょう。

その意志は、神性を帯びたものなので、感情は鎮まって来るはずです。



シルバーバーチの霊訓から引用します。

「あなたが地上に生まれたのは、その内部の神性を少しでも多く発現させるためです。それは永遠に終わりません。なぜなら神性は無限だからです。神性は自発的に表現を求めます。
それが、あらゆる種類の美徳と善行、つまり、親切、同情、寛容、慈悲、哀れみ、友情、無私の愛となって表現されます。その量が多ければ多いほど、それを発現している魂は偉大です。」



自我に打ち克って、神性を発現させることが、地上に生まれた大きな目的のようです。

小さなことから、大きなことまで、その機会はいくらでも巡って来ます。

その1つ1つが、魂を進化成長させることにつながっています。