2025年4月27日日曜日

病気を治す


私は歯科医として地域医療に携わっています。

ご存じのように、虫歯はプラークという細菌の塊が原因で起こります。

甘いものが好きな人や、日頃の歯磨きを怠っている人は、虫歯になる可能性が高くなります。


地上の人間は、肉体、精神、魂(霊)から成り立っています。

たくさんの病気がありますが、肉体(物質)的、精神的、霊的次元のどこかに、その原因が存在しています。



虫歯菌は顕微鏡で確認できるので、物質的次元に原因が存在していると言えます。

胃潰瘍は過度のストレスで起きることが多いので、精神的次元に原因が存在していると言えます。



ストレスを感じると、つい甘いものを食べてしまう人もいます。

従って、虫歯は物質的次元だけではなく、精神的次元にも原因が存在していると言えます。



未だに原因が分からない病気があります。

その多くは、現代医学で認められていない霊的次元に原因が存在していると考えられます。



霊的次元に原因が存在する病気は、「魂の成長」に深く関わっていると思います。

記憶には上ってきませんが、この人生の前に地上を生きた経験があります。

前の人生で過ちを犯し、その償いをするために病気になっている人がいます。

相応の償いをしないと、成長することが許されないからです。



自分を成長させるために、病気になることを決めていた人もいます。

肉体がないと経験できない病気を通して、霊界では得られない資質を手に入れるためです。


甘いものを食べるのも食べないのも、歯を磨くのも磨かないのも決めているのは「自分」です。

ストレスを感じる生き方や考え方をしているのも「自分」です。

自分で決めて、行ったことが、病気という結果として自分に返って来ています。



今まで、どれ位のことを決めて来たのか想像もできません。

どんな身体に宿るか、どんな環境(家庭)で育つのかも決めています。

肉体の弱点や、親から受け継ぐ因子も、生まれる前の自分は承知しています。



それぞれの人に、人生の計画があります。

効率よく成長させるために、無限の叡智(神)の配慮により考案されたと考えられますが、その計画も承知して生まれて来ています。

その身体や環境を通して経験したことが、今の自分を形づくっています。



計画などすっかり忘れてしまっている地上の人のために守護霊が付いて導いています。

けれども、分岐点に差し掛かった時、どちらに進むのかを決めるのはあくまでも自分です。



誰のせいでもありません。

運が悪いのでもありません。

自分で決めて来た結果として、今の自分がいます。



病気になり、運命を呪ったり、神を恨んだりしてはいけないのはそのためです。

理不尽さを感じるのは、原因(決定)と結果の連鎖が地上では分からないからです。



神の公正は完璧です。

宇宙の隅々まで自然法則が働いています。

法則が働いた結果として起きているので、偶然や不運はありません。



法則は神の心の反映です。

神の心は愛です。

悪い方向に向かっているように見えても、法則の働きによって、善い方向に向っています。



肉体だけを見て判断してはいけません。

大切なものに気付いて、生き方や考え方が変わったのであれば、病気になった目的が成就されています。



病気に負けることはありません。

シルバーバーチの霊訓にはこうあります。

「魂の優位を主張し、肉体と言う下等なものによって束縛され抑えられることを拒否することで病気を追い払うのです。身体を従者にするのです。主人にしてはなりません。誰にでも出来ることです。ですが、大部分の人間は頭から出来ないものと思い込んでいます。だから出来ないのです。」

魂の表現媒体に過ぎない肉体上にある病気に、負けるはずなどありません。

たとえ肉体を失ったとしても、それは病気に負けたのではなく、計画がそうであったと考えるべきです。

いづれにしても、善きに計らわれています。



魂から生じた意志は具現化する力となります。

「(病気を)治す」と言う強い意志を持ち続けて下さい。

元気になっている自分を心の中でイメージするのも有効です。

魂が肉体より優位で、意志が具現化する力になるのなら、肉体はそれに従うはずです。

スティグマ(聖痕)などは、意念が肉体に変化を起こす実例と考えられます。

「治りたい」「治したい」は願望であり、「治して下さい」は依頼であり、意志とは違うので気を付けなければいけません。



自分の本質は魂です。

身体が病んでいても、苦痛により魂は浄化され、健やかになっているはずです。

たくさんの苦痛を味わって来た人ほど浄化は進んでいるはずです。

それが表現媒体である肉体に反映される時は、もうすぐかもしれません。



希望と意志を持ち続けましょう。

肉体がいかなる状況にあったとしても、病気になった目的が果たされたのならば、存在する理由はなくなり、癒されるはずです。







2025年4月20日日曜日

神の心を表現するために成長し続ける


2つのうち、1つが真実の時があります。

たとえば、あの世が「ある」のか、それとも「ない」のかです。

どちらも客観的に証明できるものではありませんが、私はある方を信じています。



証明できないものとして「性善説」と「性悪説」があります。

性善説は人間は本来、善い心を持って生まれてくるという考え方です。

一方、性悪説は人間は悪い心(欲望や利己心)を持って生まれてくるので、教育や法律で律する必要があるという考え方です。

どちらもそれなりに正しいように思えますが、ある根拠があって私は性善説を信じています。


じゃれ合っている子猫を見ると愛らしさを感じます。

なぜでしょう?



同じ生きるものとして、霊的なつながりを感じるからです。

そして、私たちにある「神」の部分が、愛らしさを感じているからです。



子供の頃、寂しそうにないている子猫を、家に連れて帰った人もいるでしょう。

大人になると、そんな子猫がいても素通りしてしまいます。

なぜでしょう?



地上の人間は、「魂」「精神」「肉体」から成り立っています。

魂は意識であり、肉体は地上における(魂の)表現媒体です。

精神(自我)は魂と肉体の間に介在し、肉体(五感)を通して得られる情報を魂に伝え、魂から生じる意念を肉体で表現するための指令を出しています。

自我は、その人のパーソナリティと言えます。



幼い時は、自我が発達していません。

そのため、子猫を「かわいそう」と思うと、自我に捉われることなく、行動に移してしまいます。

大人になるのに従い、自我が発達して行き、いろいろなことを考えるようになります。

「連れて帰ると大変だ」と考えると、素通りしてしまいます。

自我の発達により、思うがままに行動しなくなることを、「大人になる」と表現しているのかもしれません。



自我がなければ思うがままに行動できそうですが、それでは地上を安全に生きるのは難しくなります。

火事で家の中に取り残された人を見ると助けようとして、死んでしまうかもしれません。

肉体を守るために恐れを生じさせるのも、自我の重要な働きの1つです。



私たちには自由意志が与えられています。

そのために、過ちを犯してしまうことがあります。

過ちを犯す前に、何者かが押し留めようとします。

魂に宿っている神が「良心」となって顕現して、「やってはいけない」という衝動を起こさせています。



そんな良心の声に、自我が逆らおうとする時があります。

「ばれなければ良いだろう」「みんなもやっていることだから」など、適当な理由を考えて正当化します。

自我の欲求に負けて、良心の声を無視した時、人は過ちを犯します。




悪人と呼ばれる人たちにも、もちろん神は宿っています。

自我が強くなり過ぎて、良心の声を無視するのが常態化して、過ちを繰り返してしまう人たちのことを指していると思います。



生まれながらにして万人に良心が備わっていることが「性善説」が正しいと思う根拠です。

「性悪説」とは、自我が持っている特性を意味していると思います。



眠っている時には、魂(意識)は肉体を離れて霊界に行っています。

霊界では、霊体によって自己表現しています。

魂と霊体との間には、地上とは別の自我が存在しています。

その自我をシルバーバーチが言う「インディビジュアリティ」と考えています。(類魂とはさらに大きなインディビジュアリティ(集合意識)を形成しています。)

インディビジュアリティから生じた意念を霊体によって表現するようになります。



正確には、地上の人間は、「魂(神)」「インディビジュアリティ(霊的な自我)」「霊体」「パーソナリティ(地上的な自我)」「肉体」から成り立っていると言えます。

パーソナリティはインディビジュアリティの一部であり、インディビジュアリティから生じた意念を地上で表現するためにあります。

けれども、パーソナリティは肉体や環境からの影響を強く受けるので、インディビジュアリティから生じた意念を表現するとは限りません。

寂しそうにないている子猫の前を素通りする時もそうです。

本当はこうしたいのだけれども、いろいろなことを考えてしまい、違う行動を取ってしまうのはそのためです。

「魂が目覚める」と、自我の束縛から解き放たれ、インディビジュアリティから生じている意念に、より気付けるようになります。



シルバーバーチの霊訓にはこうあります。

「魂は無限なる霊である神から発せられる神性の一部です。霊はその魂の媒体、魂の伝達手段です。」


難しく感じられますが、私たちは神の一部であり、その表現媒体でもあると言うことです。


霊的成長とは、魂の媒体であるインディビジュアリティがより神性を発揮できるようになり、それに伴い霊体が精妙化して行く過程を指していると考えています。


インディビジュアリティが成長して霊体の精妙化が進むと、形態を取らなくなり思念のみになりますが、その思念に個性的な光輝が伴っているので、誰なのかが分かるようです。





私たちは、神の心を表現するために、永遠に成長し続ける存在であり、その一環として、今地上を生きています。




2025年4月13日日曜日

生きることは愛すること


約20年前のある朝、左手に痺れを感じました。

歯科医という職業柄、頭を傾けて口の中を覗いているため、頸椎を痛めてしまったと思いました。

けれども、その痺れは肩から指先へと一定の速度で移動して行くので、神経的なものとは違っていました。

ネットでいろいろと調べてみて、もしかしたらヒーリングの力かもしれないと思いました。



ある日、妻が胃痙攣を起こしたので、試しにお腹に手を置いてみました。

すると手のひらからビリビリと力のようなものが勢いよく流れて行くのが感じられました。

しばらくすると、痛みが和らいだようです。

不思議なことが起きているのに、少し興奮したのを覚えてまいます。



人は、この力を自然治癒力として持っています。

医者ではなく、自然治癒力が病気を治しています。

もし、この力が存在しなければ、医者は患者の体にメスを入れることはできません。



ヒーリングの力も自然治癒力も「生命力」の一種です。

生命力はどこから来るのでしょうか?

 


私たちは生きるためのエネルギーを、食物から摂っています。

けれども、それは肉体だけの話です。

地上の人間は魂、精神、肉体の複合体です。

非物質である魂は、非物質である「生命力」によって活動しています。

魂に供給された生命力は、次元変換されて精神を活動させる力となります。

何も食べないでいると肉体の活力は低下しますが、精神の活力は保たれるのはそのためです。



魂と精神と肉体は密接に関係しています。

精神の調子が悪くなると、肉体に病変となって現れることがあります。

胃潰瘍はその典型です。



精神と魂の間にも、相互作用があります。

極度の怖れが精神で生じると、魂が生命力を受け取り難くなります。

それが精神の活動を低下させ、ひどくなると思考が停止し、いわゆる頭が真っ白の状態となります。

取り越し苦労はしてはいけないと、シルバーバーチは繰り返し言っていますが、生きる力が奪われてしまうからです。


宇宙全体が神です。

神とは無限の意識であり、無限のエネルギーです。

私たちは宇宙の一部として、全体(神)と繋がっています。

たとえて言うのならば、身体を構成している1つの細胞です。

1つ1つの細胞に同じ血液が流れて生かされているように、個々の生命には同じ力が流れて生かされています。



全体(神)と霊的に繋がっている魂に供給された生命力は、精神そして肉体へと流れて行きます。

高い次元から低い次元へと(垂直的に)流れているので分かり難いのですが、ヒーリングする時は肉体を(水平的に)流れて行くので、その力を体感することができます。



私たちは、全体(神)から届いている力によって生かされています。

そのことを、より多くの人に分かってもらうためにヒーリングの力が存在すると考えています。



神との繋がりは永遠です。

肉体を失っても、同じ力によって魂は生かされ続けます。

ヒーリングの力は、神を源泉として霊界の人たちを介して、地上にいる私たちに届けられます。

神の愛を帯びた力なので、魂が癒されて、病気が治ると考えられます。



同じく、生きる力である生命力も、神を源泉としているので愛を帯びているはずです。

けれども、媒体である精神(自我)が不完全なために、歪められて表現されてしまいます。

大きく歪められてしまうと、時に憎しみになります。

憎しみの中にも、神が宿っていることになります。

自我が完全に近づくのに従い、神の心を忠実に表現できるようになります。

それが霊的成長であり、生きている目的と考えられます。



本来、生命力は神の愛を表現するためにあるものです。

生きることは、愛することです。

けれども、地上にいる私たちは肉体があるため、霊的な感覚が鈍くなり、そのことに気付けません。

意識が自分に向くため、生命力は自分を守ったり、養うために費やされます。



死んで肉体がなくなると、意識は外部に向くようになります。

生命力の働きによって、ごく自然に外部に愛を表現したくなります。



地上においても魂にまで響く出来事を経験して、霊的に目覚めて、愛を表現したくなる衝動に駆られる人もいます。

少し前になりますが、踏切内にいた老人を助けようとして、電車にひかれて亡くなった女性がいました。

危機的な状況を目の前にして、女性の魂が目覚めて、止むに止まれずに愛を表現した結果と考えられます。



私たちの本来の住処は霊界です。

生まれて来たのは、霊的なものが見えなくなる地上で、最も大切なものが愛であることを、実体験を通して、魂に刻み込むためと考えられます。

その目的を果たした人が霊界に戻ると、生まれる前よりも強く高い愛を表現できるようになっています。

愛する悦びをより感じながら、生きるようになっています。






2025年4月6日日曜日

出来事を経験することで成長して行く


「地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生をたどるかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につける上でそのコースが一番効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択します。その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを覚悟の上で生まれてきているのです。その人生を生き抜き、困難を克服することが、内在する資質を開発して真の自我、より大きな自分に新たな神性を付加していくことになるのです。」

シルバーバーチの霊訓にはこう書いてあります。



今、こうしてブログを書いているのも、予定されていたことだと思います。

宗教に関心のない両親の元に生まれたのも、抵抗なく霊的真理を受け入れるためだと思います。

振り返ってみると、目的を果たすために、さまざまな出来事が絶妙のタイミングで起きていました。



死んで全てが終わりになるのなら、人生に意味などありません。

無になるのに、意味など見つけるのは、それこそ無意味です。

出来事は偶然起きるのであり、運が良い人と悪い人がいるだけです。



この人生で終わりではありません。

死んだ後に、次の世界が待っています。

残念ながら、そのことを客観的に証明する手段はありません。



困難な出来事に遭遇したとします。

人生が終わりになるのであれば、逃げてしまっても構わないはずです。

それなのに、人は何とかして乗り越えようとします。

どうしてでしょう?

真の自分である「魂」が、そうすることを望んでいるからです。



悪いことをしたくありません。

人には良心があるからです。

良心とは「魂」に内在する神です。

過ちを犯さないように、神によって監視されているのです。



「魂」は肉体を超えたものです。

死によって肉体がなくなっても、次の世界で変わりなく魂は存在しています。



死んで無になるのか、魂となって生き続けているのか、どちらを選ぶのかは個人の自由です。

無になる方を選ぶのは、一定のリスクを伴います。



それぞれの人に、予定されている人生があります。

自分に足りない資質を身に付けたり、過去生の過ちを償うために、神の叡智によって計画されています。

およその人生は決まっていますが、起きた出来事をどう捉えるのかは、個人の自由です。

捉え方によって、進んで行く方向が大きく違って来ます。



小学校の時に漢字を習いました。

当時は何でこんなものを覚えなければいけないのかと思いましたが、今は生活して行く上で活かされていることを知っています。

出来事が起きた時、何で自分がこんな目に遭わなければならないんだと思う時があります。

死んだ後、地上の人生を振り返ります。

その時に、出来事から大切なことを学んで、意図していた自分に変わるために起きていたことが分かります。



けれども、霊的な目が閉ざされている私たちは、偶然や運として片付けてしまいがちです。

偶然や運として片付けてしまうと、出来事から何も学べなくなります。

人生を呪ったり、神を恨んだりするのも同じです。

変わるための力が削がれてしまいます。

それでは、地上に生まれた来た目的を果たせなくなります。



出来事を正面から受け止めると、感情に押しつぶされそうになる時があります。

それは自然なことです。

その後、どう捉えるのかが重要です。



偶然ではありません。

誰のせいでもありません。

自分に必要なことが、自然法則の働きによって起きています。

出来事から何かを学ぶことで、それまで捉われていた感情から解放されて、今までと違う自分に変わることができます。



私は、自分の障害を神に感謝しています。私が自分を見出し、生涯の仕事、そして神を見つけることができたのも、この障害を通してだったからです。」

この言葉はヘレン・ケラーのものです。

自分の身を嘆いたり、運命を呪っていたのなら、暗闇に閉じ込められたままです。

苦しみの中で、光(真理)を見つけて、変わることができて、暗闇から抜け出せたと思います。



人間の本質(魂)は、変えようと思っても、変わるものではありません。

そこで地上に生まれることを志願します。

苦しみや痛みを伴う出来事を経験することで魂が目覚めて、霊的に大切なことを見つけ出して、変わることができます。



出来事は自然法則の働きによって起きています。

つらい状況に追い込まれたとしても、良い方向に変わるために起きています。

なぜなら、神の心(愛)が、自然法則の働きの中に顕現しているからです。

最後は良くなると、強く信じて下さい。



生まれて来た目的を果たすために、地上の人が辿る人生を知っている守護霊が付いて導いています。

けれども、自我の働きで我欲や怖れなどが強くなってしまうと、導きに気付きにくくなってしまいます。

出来事の捉え方を誤り、予定されていたのとは違う方向に進んでしまい、変われずに終わることもあります。

地上に生まれた目的の果たせなかったことに気付き、ひどく後悔するでしょう。



後悔を晴らすために、今度は予定された方向に進んで行くと固く誓って、もう1度地上に生まれることがあります。

相応しい環境に生まれて、同じような出来事が起こるでしょう。

困難で、できれば行きたくないなのに、どうしても進んで行かなければならない衝動に駆られたとしたら、過去にそのようないきさつがあったのかもしれません。

もしそうだとしたら、迷わずに進んで行くしかありません。




出来事に偶然はありません。

自然法則の働きによって起きています。

私たちは、自然法則の働きによって起きた出来事を経験することで、成長して行きます。

成長することで、全体の成長が促されて、神の意図した世界となって行きます。