人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2017年9月17日日曜日
自然法則(神の摂理)の働きを知るために生きている
少し前ですが、私の先輩の奥様が、悪性の病気になっていることが判りました。
その先輩は仕事で成功し、都内の一等地に住み、家庭においてもご夫婦の仲は睦まじく、二人のお子さんがいて、どちらも良縁に恵まれ、孫ももうすぐ生まれようかと言うところでした。
全てが順風満帆で、こんな絵に描いたような幸せな人もいるのかと思っていました。
早速ですが、病気が癒やされることを祈念して、奥様に向けて遠隔ヒーリングを行いました。
ヒーリングにより、悩まされていた症状は軽快したとの報告を受けましたが、病気の進行は予断を許さない状況です。
それからしばらくして、奥様の重病に大きなストレスを受けためでしょうか、先輩も脳内出血を起こしてしまいました。
幸いにして、命には別条はなく、頭から血を抜く手術を受けることになりました。
奥様には、ヒーリングの効果を実感していただいたので、もう1度行うことを申し出ました。
返ってきた答えは、「私ではなく、主人をお願いします」でした。
ご自身が深刻な状況にもかかわらず、ご主人のことをとても心配していました。
昔から、奥様は人を助けるのが好きな人で、実は私も助けられた人間の1人です。
このメールを見た瞬間、不謹慎かもしれませんが、治らないかもしれない、向こうに行く時期が来ているかもしれないと思ってしまいました。
どんなに自分がつらく、苦しくても、他の人を思いやるような人は、この世にいる意味が薄れてきているように思えます。
心が優しく、思いやりが深く、誰からも慕われる人は、若くして逝ってしまう時があると感じています。
私たちの実体は、目に見える肉体ではなく魂です。
肉体は、魂から生じる想いを表現をするための、この世だけの媒体に過ぎません。
ピアニストがいなければ、ピアノはただの音が出る木の箱であるように、魂のいない肉体は、ただの有機体の塊であり、活力を失い土に還ってしまいます。
魂にとって肉体は重い鎧のようなもので、実に煩わしいものです。
食べなければ養えませんし、肉体的な本能を併せ持ってしまい、様々な欲に苛まれてしまいます。
人は肉体を持つと、自分が一番大切になり、他者は二の次になってしまいます。
生まれてからしばらくの間は、大きな声で泣いて、他者(親)に要求するばかりです。
泣き声がうるさくて、周りに迷惑をかけても、おかまいなしです。
大きくなり、学校に行くようになると、少しずつ周りの人のことも考えるようになります。
そうしないと、仲間外れにされたり、自分が痛い目に遭ってしまいます。
そして、学校を卒業し社会に出て働くようになり、得たお金で生活をします。
自分を犠牲にして、他者に奉仕をしなければ生きて行けないように、この世はなっているようです。
結婚も、子供を育ても、自分以外の者への奉仕に他なりません。
人生は、自分から他者を優先する行程であり、他者への奉仕によって魂は成長して行きます。
年齢とは関係なく、自分が一番大切な人は霊的に未熟であり、自分よりも他者を大切にする人は成熟していると言うことになります。
熟れた果実が木から落ちるように、成熟した魂が肉体から離れて行くのは、自然の成り行きです。
この世界は、目に見えない自然法則に支配されています。
物質が地面に向かって落ちるのは、万有引力の法則の働きによるものです。
当然のことながら、人にも自然法則が働いています。
生まれるのも、老いるのも、死ぬのも、病気になるのも、自然法則の働きによるものです。
地上の法律に背けば、罰せられます。
自然法則に背けば、その報いを受けることになり、相応の苦痛を味わうことになります。
法律と違うのは、法則の働きは完璧であり、何人も逃がれられないことです。
人は誰しも、苦痛を味わうのは嫌です。
苦痛を味わないためには、自然法則の働きを知るしかありません。
この世の中に生じている苦痛の多くは、自然法則の働きを知らない無知によって起きていると思います。
世界中で起きている戦争もそうです。
自然法則の根幹を成すのは因果律です。
因果律とは、原因を作れば必ず結果が生じ、結果には必ず原因が存在し、偶然はないと言うことです。
どの戦争にも、必ず原因が存在しています。
しかし、原因を究明せずに、起きた結果にばかり目が向けられ、報復を繰り返しているように見えます。
戦争の根本原因は、怒りや憎しみや恨みの想いと考えられます。
怒りに任せて攻撃すれば、今度は相手から攻撃されます。
自分から出たものが、因果律の働きで、自分に返ってきていているだけです。
口で言うほど簡単ではありませんが、戦争にならないためには、相手を認め、そして許し、怒りや憎しみの想いを向けないようにするしかありません。
自然法則の働きを知らないために苦痛が生じていますが、その苦痛により自然法則の働きを学んでいます。
人は死ぬと次の世界に移行します。
次の世界は、煩わしい肉体から解放され、思念を直接伝えられ、この世よりもはるかに快適です。
私たちが生きている目的は、魂(自分)を成長させるためです。
もし、次の世界が、そんな快適な世界なのであれば、そこで成長して行けば良いはずです。
なのに、何でわざわざこの世に生まれて来なければならないのでしょうか?
泳ぎ方を知らない人が、水中に投げ込まれたなら、溺れて苦しい思いをします。
苦しい思いをしないためには、泳ぎ方を身に付けるしかありません。
泳ぎ方は、教本を見ても、口で教えてもらってもだめです。
実際に、水中で苦しい思いをしながら、身に付けるしかありません。
自然法則の働きも同じです。
人に教えてもらうのではなく、自らが苦しく、痛い思いをしながら、得心しなければいけません。
この世に肉体があるのは、目に見えない自然法則の働きを、肉体を介した経験によって、魂に焼き付けるためと考えられます。
肉体のない次の世界では、苦痛が取り払われているために、自然法則の働きを身に付けるのは難しいと思われます。
自然法則は、空気のようなものです。
陸上で生活している時は、空気は目に見えず、意識しませんが、水中に沈んで息が出来なくなった時に、存在を強烈に意識します。
自然法則の働きも、平穏に過ごしている時は意識しません。
しかし、苦境に追い込まれ、助けもなく、真っ暗やみの中にいる時に、初めて意識するようになります。
水中で空気を求めるように、真っ暗闇の中で真実を求めるからです。
自然法則の働きを静かに悟り、魂は救われます。
自然法則とは神の摂理であり、神の心を体現しているものです。
全ての出来事は、神の法則の中で起きています。
神の心は計り知れない愛なので、どんなにつらく、苦しいことであっても、必ず乗り越えられます。
神の創った自然法則の働きによって、導かれているので安心して良いのです。
後で振り返った時に、大切なことを学び、大きく成長し、この世に生まれて来た目的を成就していたことを知り、感謝するはずです。
2017年9月3日日曜日
先のことを知れば生きるのが楽になる
甲子園球場で行われていた、夏の高校野球を観ました。
選手達の表情に輝きを感じましたが、最高の舞台に立つまでに、厳しい練習に耐えてきたはずです。
あまりの厳しさに、弱音を吐いたり、投げ出してしまおうと思った時も、あったかもしれません。
高校球児たちが、厳しい練習に耐えられるのは、真価を発揮できる試合という場があるからであり、練習を怠れば、良い結果が出せないことを知っているからです。
その先で、勝利の喜びを味わうためだと思います。
厳しい練習を、人生と重ねてしまいます。
生きていると、うれしいこと、悲しいこと、苦しいことなど、いろいろな出来事を経験します。
うれしい出来事であれば、ずっとこの悦びが続いて欲しいと思うのですが、つらい出来事であれば、早くこの苦しさから解放されて、楽になりたいと願うばかりです。
何で自分が、こんな苦しい思いをしなければならないのかと、憤りを覚える時もあります。
生まれた環境も良く、才能にも恵まれ、何不自由なく生活して、一生を終えて、羨ましがられる人もいます。(その人なりの苦労はしていたと思いますが)
一方、生まれた環境も悪く、苦労ばかりをして死んで行ったと、哀れみの言葉を聞くこともあります。(その人なりの幸せを感じていたと思いますが)
同じ人間であっても、人生はさまざまであり、不公平、不平等があるように思えてしまう時があります。
もし、死んで終わりならば、苦労ばかりをした人は、不幸な人生だったと言えるかもしれません。
ところで、死んだら終わりなのでしょうか?
意識がなくなり、無になってしまうと思う人もいます。
意識は存続し、その先も人生が続いていると思う人もいます。
どう思おうと、個人の自由であり、人から干渉されるものではありません。
しかし、どちらかが間違った認識をしていることは確かです。
17世紀にパスカルという有名な物理学(哲学)者がいました。
彼は、死後の世界があるのか、それともないのか、どちらか判らなかったら、ある方に賭けた方が無難だと考えていました。
その理由を、こう説明しています。
死後の世界がなければ、たとえ死後がある方に賭けていても、無になってしまうので負けにはなりません。
死後の世界がない方に賭けて、もしあったとしたら、賭けに負けたのをはっきりと意識することになります。
誤った認識で生きていたことになり、後悔すると考えたようです。
残念ながら、死の先がどうなっているのか、客観的に明らかにすることは出来ません。
けれども、明らかにされないからと言って、否定するのはあまりにも愚かです。
それは、生命の本質は(科学的に)明らかにされていなので、生きていることを否定するようなものです。
個人的な意見を言わせていただければ、これまでの経験により、死後の世界があるのは、揺るぎのない事実です。
あるのにもかかわらず、なぜ明らかにされないのか、つい考えてしまいます。
死後は、肉体から解放され自由になり、生命(魂)が光り輝いている世界と言われています。
一般的に、苦しみや悲しみはなく、衣食住の心配もなく、争いも起こりません。
想像するのが難しいかもしれませんが、想い(思念)が直ちに具現化する世界、別の言い方をすれば夢が叶う世界です。
平穏で明るく夢が叶う死後の世界と、苦痛の多いこの世界の、人はどちらを選ぶのでしょうか。
ほとんどの人は、前者を選択するでしょう。
でも、この世界を生きるのをやめて、死後の世界に行こうとはしません。
その大きな理由は、自分の中の何かが抵抗し、死後の世界が明らかにされていからです。
もし、明らかにされたなら、かなり多くの人が、この世の人生を中断して、あの世に行くことでしょう。
では、なぜ死後の世界での快適な生活を捨てて、苦痛の多いこの世に生まれて来るのでしょうか?
その理由は、自分(魂)を成長させて、大切なことを学ぶためです。
苦しみや悲しみを経験することにより、魂が成長するように、自然法則がなっているからです。
他者に愛を表現することで、魂が成長するように、自然法則がなっているからです。
苦しみや悲しみや争いのない、死後の世界は快適ですが、この世界の方が魂がより大きく成長し、多くのことを学べると考えられます。
手ぬるい練習より厳しい練習の方が、体が鍛えられ、野球が上手くなるように、この世で苦しく、悲しい出来事を経験した方が鍛えられ、魂は大きく成長します。
死後の世界には存在しないものを、この世界で経験することにより、目に見えない大切なことを、深く学んでいます。
戦争を経験した人は、平和や許しについて深く学んでいます。
病気を経験した人は、生命について深く学んでいます。
別れを経験した人は、愛について深く学んでいます。
この世界で学び、大きく成長するために、自分の意志で、この人生を選んで生まれて来ているのに、中断して戻ることは許されません。
自分自身にした約束を破ることになり、自然法則が厳格に働いて、相応の償いをしなければいけなくなります。
死んで無になるのであれば、人生に苦しいことは無用です。
とにかく、楽しく生きれば良いはずです。
立ちはだかる困難や障害など、避けて通れば良いはずです。
つらくて仕方がない時は、命を絶って無になる選択も、許されるはずです。
無になってしまうと思う人は、そんな生き方をしているでしょうか?
苦難から逃げるのは嫌で、何とか乗り越えて行こうとする人が多いと思います。
なぜ、無になってしまうと思っているのに、苦難を乗り越えようとするのでしょうか?
それは自らの中に、人生の苦難を乗り越えて、成長しようとする根源的な欲求があるからであり、それに逆らうことに抵抗を感じるからだと思います。
成長して行くように定められていて、留まっていることに苦痛を感じるようになっているからだと思います。
この世界での経験を通して、成長して、教訓を身に付けなければならないことを、深い部分で知っているからだと思います。
この世界に暮らす人たちの、霊性の高さ(魂の成長度)はさまざまであり、見た目では判りません。
死後の世界では、肉体は取り払われ、魂が剥き出しになり、個々の霊性は一目瞭然となります。
完全な界層社会であり、同じ霊性の高さの者同士が、一緒に暮らしています。
自分より高い界層には行けず、低い界層には行けますが、行く気にはならないようです。
高校球児にとってプロはレベルが高く通用せず、かと言って中学生と一緒では物足りなくなってしまい、結局、同じレベルの者と野球をするのと同じです。
霊性の高い者、叡智を身に付けた者が、自然法則の働きにより上に位置します。
上に位置する者は、より愛を表現する者であるため、水が流れるがごとく、上から下へと神の愛が行き渡ることになります。
一方、この世界はどうでしょうか?
上に位置する者は、権力を有する者、富を有する者であり、そのために神の愛はせき止められてしまい、愛に飢えている人が世界中に溢れています。
霊性とは神性であり、他者を愛する行為の中で高められます。
この世界は、愛に飢えている人で満ち溢れているので、自らの霊性を高める行為をしようと思えば、いくらでも出来ます。
だからこそ、成長する機会に恵まれたこの世界に、生まれて来ます。
この世界に困難や障害が多いのは、経験を通して成長するためです。
実際に経験しなければ、学んだことは身に付きません。
人生のつらい出来事は、不幸なことで終わってしまうのではなく、魂を成長させて、生まれる前にいた界層より、高い界層に上がることにつながっています。
学んだことは、そこでの生活に活かされます。
厳しい練習に意味を見いだせなければ、体を酷使しているようにしか思えず、つらく感じるだけです。
それと同じで、先のことが判らず、人生の試練に意味を見出せなければ、生きるのがつらくなってしまいます。
厳しい練習をした人ほど、試合で勝った時の喜びは大きくなります。
人生においては、大きな苦難を乗り越えて来た人ほど、死後の世界で成長した悦びを味わいます。
完全な公平、公正が保たれていて、苦難は全て報われます。
先のことを正確に知れば、生きるのがもっと楽になります。