人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2017年6月25日日曜日
ヒーリングについての私見
約11年前のある朝、ヒーリングの力が出ているのに気付きました。
霊的なことに関心がなかった私には、まさしく青天の霹靂でした。
私は右利きですが、ヒーリングの力は主に左手から出ます。
ヒーリングは左手を置いて行いますが、手のひらが痺れて、ビリビリとした感覚になります。
受ける側も、敏感な人は皮膚がピリピリと感じたり、温みを覚える人がいます。
知らないで自分の太ももに手のひらを置いていると、力が伝わって眠くなってしまいます。
信じられないかもしれませんが、たとえ地球の裏側にいる人でも、ヒーリングは可能です。
実に不思議なのですが、1面識もなく、住所も名前も知らない人でも力は正確に届きます。
また、人だけでなく、同じ魂を持つ動物にも有効であり、人智を超えた力であることは確かです。
現代医学は物質(肉体)を対象としているので、身体を検査して病気の原因が見つからなければ、根本的に治すことはできません。
現代医学で治せない病気の多くは、目に見える身体以外に原因が存在すると考えています。
ヒーリングの力は、見える身体以外の部分に作用して、原因を解消していると思います。
ヒーリングによって不治の病が治るのは、現代医学では認められていない霊的な原因を、霊的な力によって癒しているからと思います。
人は物質的存在ではありません。
物質を超えた精神(心)が存在しています。
科学では精神は脳で作られていると考えられています。
精神活動において、感情は重要な役割を果たしています。
脳は物質であり、精緻な機械(コンピューター)であるならば、感情という非論理的なものが存在する理由は見つかりません。
外部からの情報の処理をしたり、感情や考えを身体で表現するために、司令を出しているのが脳だと思います。
従って、脳が感情を生み出しているのではないと考えられます。
それでは、感情は、どこから生まれるのでしょうか?
怒りっぽい人、泣き上戸な人、笑い上戸な人、その人の個性は感情に表れます。
個性を形作っている何かが存在し、そこから感情が生まれていると考えた方が自然です。
個性を形作っているのものは何か?
それが魂です。
本当の自分です。
魂に個性があり、多種多様な想いが、そこから生まれていると考えれば矛盾は1つもありません。
想い(思念)は、目に見えない魂から生じている霊的な力と考えられ、精神的次元で自覚され司令となり、肉体的次元で言葉や行動となって具現化されます。
例えば、人に裏切られたとします。
魂から、怒りの素となる想いが生まれます。
それが精神的次元で、適当な言語や行動を起こす衝動に変換され、肉体的次元で相手を咎める言葉を発したり、時に攻撃的な行動となって具現化されると考えられます。
想いは消えてなくなるものではなく、肉体的次元で具現化されないならば、内に溜まってしまいます。
想いは、具現化されるべき性質のものであるため、想いが溜まってくると、別の形となって肉体上に具現化される時があると考えられます。
想いという「力」によって、肉体が変化したり、機能が変化するのが、霊的次元に原因がある病気の本質だと考えています。
原因不明とされる病気の多くは、現代医学で存在を認めていない霊的次元に何らかの原因があり、本体は内に溜まった具現化されなかった(摂理に反した)想いであると考えています。
この考えから類推すると、たくさんの想いを溜めている人は病気になりやすく、想いをためていない人は病気になりにくいと考えられます。
思ったこと、感じたことを表現できない人が病気になりやすく、表現できる人は病気になりにくいと言うことになります。
俗に言うストレスが溜まるとは、具現化されなかった想いが溜まっている状態であり、ストレス解消とは、その想いを解放することを指すと考えられます。
想いは、肉体で具現化される力です。
例えば、攻撃的で調和を乱すような想いが溜まってくると、攻撃的で調和を乱す、肉体上のガン組織となって具現化されることがあると思います。
もちろん、ガンの原因は他にもあります。
大量の放射線を浴びれば血液のガンに、タバコやアスベストを吸えばで肺ガンになりやすくなり、遺伝的因子も存在しますが、これらは肉体次元の原因です。
また、霊的次元の原因にも種類があり、過去生の償いであったり、魂の成長させるための手段としてガンになる人もいると考えられます。
霊的次元の想いに原因があり、病気になったのであれば、手術や薬で根本的に治すことは不可能です。
肉体次元の様相は、霊的次元(魂)の様相の反映に過ぎないので、病巣を切り取ったとしても、本体は消失していません。
内に溜まった想いが原因で病気になったのであれば、根本的に癒すためには、その想いが鎮められ、解放されなければいけません。
全ての霊的な病気は、愛によって癒されると考えられます。
ヒーリングの力の源泉は神であり、神の力(愛)によって癒されていると考えています。
しかし、神の力(愛)は、あまりにも波長が高すぎるので、各界層間で波長が下げられ、霊界の医師により、最適な治癒力となってヒーラーに届けられると考えられています。
地上のヒーラーが最後の導線となって、病気を癒す力が患者に注ぎ込まれます。
もし、ヒーリングによって病気が癒されたのならば、神の力(愛)によって、内ある想いが鎮められ、解放されたと考えています。
魂にまとわりついていた想いが、愛により引き剥がされたと言って良いのかもしれません。
ただ、ヒーリングによって、想いが解放され病状が良くなったとしても、魂の成長が伴っていなければ、同じ想いが生じてしまい、再び身体的な症状が現れてしまうと考えられます。
病気の苦痛には、魂を目覚めさせ、成長させると言う、霊的な意味があります。
長年、苦しんできた病気がヒーリングによって治るのは、それまでの苦痛によって魂が成長し、想いを完全に解放する時期が来ていると考えられます。
許せなかったものが許せるようになり、理解できなかったものが理解できるようになり、乗り越えられなかったものが乗り越えられる時が来ると、霊界の導きによってヒーリングが行われ、魂を目覚めさせ、想いが解放され、病気が癒されると考えています。
魂に力を受け入れる資格(成長)がなければ、いかなるヒーラーであっても、病気を癒すことは出来ません。
この世に起きる事象は、全て神の法則に従っています。
病気は、肉体と精神と魂(霊)の不調和によって起こりますが、何かが自然法則に反していたと考えられます。
魂が最上位で精神と肉体を支配しているのが自然な状態です。
しかし、肉体が全てだと勘違いしてしまうと、魂の存在には気付かず、そこから想い(思念)が生まれているなど思いもしません。
そして、人は外部の影響を受けながら、この世だけの自我(エゴ)を精神上に作り上げて行きます。
この世だけの自我がとても大きくなり、幅を利かせてしまうと、魂は奥に追いやられ、そこから生じている想いに気付きにくくなってしまいます。
魂よりも、この世だけの自我(精神)が優先されるのは、自然法則に反していると考えられます。
(魂から生まれた)本当の自分の想いを表現出来ずに溜まってしまうと、その不自然さに気付くために病気になります。
魂から精神、精神から肉体へと生命力が滞りなく、円滑に流れて行くのが本来の姿です。
生命力の循環が妨げられると、肉体上に病気として反映されますが、ヒーリングによって大量の生命力を注ぎ込まれると、内にある想いがフラッシュされるような図式になるのかもしれません。
ヒーリングは、眠っている魂を目覚めさせ、精神を支配下に置き、自然な状態に戻すと考えられます。
では、ヒーラーがいなければ、霊的な病気は癒されないのでしょうか?
人は誰でも、愛する力を持っています。
人(魂)は神の分霊であり、神とつながっているからです。
この世で最も愛する人に向けている想いを、そのまま自分自身に向けてやれば、ヒーリングは可能と考えています。
その想いは自己愛ではなく、他者への愛と同質のものでなければいけません。
人を大切にするように、自分を大切にすれば良いと思います。
人を労わるように、自分を労われば良いと思います。
愛する人の病気が良くなるのを祈るように、自分の病気が良くなるのを祈れば良いと思います。
ヒーリングは心身の病気を癒すために存在しますが、真の目的は魂を目覚めさせるためです。
病気が癒されることで、この世のものではない力が働いたことを実感し、霊的な力の働きによって眠っている魂を目覚めさせると思われます。
病気が癒やされ、魂が主導権を握った時に、人生のシナリオに沿って生きられるようになり、予定されていた成長が得られるようになります。
ヒーリングは、魂の成長のために存在すると思います。
2017年6月11日日曜日
人生の勝者
社会では、常に結果を求められます。
私の仕事においても、(治療)結果が満足いくものでなければ、クレームになったり、黙って去って行く人もいます。
しかし、ベストを尽くしても満足する結果が得られない時もあり、もどかしさを感じています。
スポーツの祭典であるオリンピックでは、結果が出せた人と、出せなかった人の対比が鮮明に映し出されます。
周りの期待を一身に受けて、それに応えるために血のにじむような努力をしてきて、それでも金メダルに手が届かなかった人がいます。
一方、それほど期待されていなかったのに、普段の実力以上のものが発揮されて、金メダルを取ってしまう人もいます。
結果だけを見ると、この世の中は、ずいぶん不公平に出来ていると感じます。
しかし、実際は、自然法則の働きによって、完全な公平が保たれていると思います。
生命とは、肉体ではなく魂です。
人は死んで終わりになるのではありません。
死後にも人生があり、生まれる前にも人生があります。
人生にはおよそのシナリオがあり、今生のシナリオは過去の人生をどの様に生きたかによって決まります。
魂の不完全さを自覚して、過去の人生を悔い改めるために、シナリオが組み立てられ、その人生を承知した上で、最適な母体に宿りこの世に生まれてきます。
メダルを取った人も、取れなかった人も、才能が与えられ、後に競技と出会い、夢の実現に向かって突き進んで行くシナリオがあったと思います。
メダルを取るか、それとも取れないか、決まっていたのかは定かではありませんが、夢を実現させるために、人並みはずれた奮闘努力をすることは、予め決めていたと思います。
人が真似できなような努力が出来るのは、果たさなければならない約束であることを、魂が自覚しているからと考えられます。
表彰台で首にかけてもらうメダルは、勝者だけに与えられる栄光の印です。
しかし、本当に価値があるのはメダルなのでしょうか?
メダルは奮闘努力するための触媒であり、その結果得られる成長が、本当の価値を持っていると思います。
たとえメダルを取れなかったとしても、そこに至る過程で成長していれば、当初の目的は十分に果たしていると言えます。
悔し涙を流すかもしれませんが、その想いが次につながって行きます。
どんな経験も無駄にはならず、将来の自分の成長のための糧になっています。
生きる目的は、万人に共通しています。
この世でしか出来ない経験を通して、自分(魂)を成長させるためです。
勝者がいるのは競技だけであり、人生に勝者はいません。
勝つことだけを考えていると、生きる意味を見失ってしまいます。
この世界で勝者としてもてはやされていた人が、あの世の行って、惨めな思いをすることがあるようです。
勝者の証とも言える地位や名声、財産が、死と共に、ことごとく消え失せてしまうからです。
夢中になって追いかけていたものに、永遠の価値がないことを知って、何のために生きてきたのか判らなくなってしまうからです。
一方、苦労ばかりの人生だったと、哀れんでもらうような人が、実は大きな悦びを味わっていると思います。
功績は残らなくても、人や動物や社会が喜ぶことを心がけて生きてきた人も、大きな悦びを味わっていると思います。
目に見えない自然法則が、この宇宙を支配しています。
その自然法則は、想ったこと、言ったこと、行ったこと全てに働いていて、相応の結果をもたらします。
苦難や障害を乗り越えて行けば、自然法則の働きにより、魂は成長します。
他者に愛を表現(奉仕)をすれば、同じく自然法則の働きにより、魂は成長します。
人生に勝者敗者はありませんが、人生を振り返り、悦びに満たされる人と、悔やむ人がいることは確かなようです。
この世で魂が大きく成長した人は、それこそ金メダルを取った時のような悦びと達成感に満たされているような気がします。
どうすれば、生き甲斐のある人生を送ることが出来るのか?
シルバーバーチは、人(や動物や社会)のために自分を役に立てること、困難を乗り越えて行くことによって魂(自分)が成長すると明言しています。
そして、人生の晴れ間ではなく、嵐が吹き荒ぶ時に自分が成長していたことを知り、神に感謝すると言っています。
目に見える結果だけで、全てを判断してはいけないようです。
結果の中に、目に見えない本当の意味が隠されているからです。
人生の学びとは、そこに隠された意味を得心することかもしれません。
物質に囲まれているこの世では、目に見えるものが全てだと、つい勘違いしてしまいます。
本当に大切なものは、神の配慮によって、判らないようになっています。
大切なものが見えてくるのは、それまで見えていたものが目に入らなくなった時です。
あまりの暗さに、この世の目が見えなくなると、魂の目が開きます。
魂の目が開いて視えてくるものは、「命」であり、「愛」です。
この世の出来事は、神の法則によって起こります。
神の法則は、生命を成長させる方向に導いています。
成長とは、より高く、より強い愛を表現するようになることです。
この世に起こる出来事は、苦しみや悲しみを経験し、より高く、より強い愛を表現するためにあり、その目的は1つになるためです。
人生は競い合うものではないので、勝者はいません。
ただ、この世の困難や障害を乗り越え、より高く、強い愛を表現できるようになった人を、神に祝福された、人生の勝者と呼んで良いのかもしれません。