人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2014年4月21日月曜日
自らを癒やす
ほぼすべての人は、からだの不調を自覚したら、医者にかかります。医者は検査をして、病気を診断し、それに見合った治療を行います。薬、手術は治療の大きな柱です。目に見える病巣であれば、消失させることを目標とします。
先進国において、ほとんどの医者が拠り所としているのは西洋医学です。その発展は人類に大きな貢献をもたらしました。中でも、ペストやコレラなどの流行病の原因が細菌であることをつきとめたのは、大きな発見であり、後に抗生物質の発見につながります。ワクチンの発見による予防効果も絶大であり、多くの命が救われることになります。それ以降、薬で病気が治る、医者が治すものという概念が定着していったように思えます。
ガンという深刻な病気を告げられた時のショックは、経験した人でなければわかりません。命にかかわる病気という認識があるから当然です。不安や恐怖が心を支配してしまい、この窮地から抜け出したい一心で、医者の提示する治療法を選択する人がほとんどです。
感染症はウィルスや細菌などの増殖により起こりますから、原因は顕微鏡で確認できて、薬で劇的に治るものも多いです。しかし、病気には自己の変性や、機能異常によるものが多く、未だに原因を見出せないものも、たくさんあります。
ガンは、目で見ることができ、増殖するものであり、その点では感染症と類似しています。しかし、大きな違いがあります。それは、正常細胞と性質が異なりますが、ガンは自己だということです。
細菌などの非自己であれば、薬で選択的に死滅させたり(ウィルスは除く)、外科的に取り除くことで完治が期待できます。しかし、遺伝子レベルで差異があるものの、ガンは紛れもなく自己であるため、薬で選択的に死滅させることは不可能です。もし死滅したのであれば、正常細胞も死滅してしまうか、相当のダメージを受けます。
ガンは正常細胞が細胞分裂時に変異したものと言われています。遺伝子の複製ミスにより、細胞の際限のない増殖が起こると考えられています。1日に数千個のガン細胞が発生し、免疫システムで死滅させられていると考えられています。
すべての動物は1つの受精卵から始まります。細胞分裂を繰り返し、増殖し、分化して組織を作り、個体を完成していきます。成長過程において、最高度に活発な細胞分裂が繰り返されています。もし、単なる複製ミスと言うことであれば、免疫システムが構築される以前に、多数のガン細胞が発生し、増殖してしまうと推察されます。成長過程にガンが多発するということになりますが、実際はそうではありません。
以上のことから、遺伝子の複製ミスが、一定の確率で起きているとは、考えにくいと思われます。
人間が作業をする時、どうしてもミスが起きてしまいます。それは、人間が不完全であるためと思われます。機械で作業すれば、ミスは大きく減りますが完全になくすことはできません。しかし、自然(神)の営みは完璧であり、一分の狂いもありません。
水は0℃になったら凍り、100℃になったら蒸気になります。130歳を超えて生きる人はいません。摂理(法則)に従っているからです。細胞分裂も、人知の及ばない、自然の摂理により営まれていますので、ミスはあり得ません。
では、なぜ複製ミスが起こりガン細胞が出来てしまうのか?
ガン細胞の発生はミスではなく、神の摂理によって生じていると思われます。
一般的に、環境因子であるエックス線、発ガン物質に影響を受けると言われています。また遺伝的素因があるとガン発生は明らかに高くなります。肉体的(物理的、化学的、生物学的)次元での法則が存在し、ガン発生に影響を与えていると思われます。
近年になり、ストレスは防御機能である免疫力を低下させて、ガンの増殖を許してしまうことが分ってきました。これは精神的次元での法則が働いていると思われます。
人は肉体と精神により成り立っているのではなく、その上位に生命であり、真の自分である魂(霊)が存在しています。目の前で証明することは不可能ですが、紛れも無い事実です。
霊的次元でも摂理(法則)は働いています。
神の摂理(愛)に背いた、憎しみ、恨み、嫉妬、怒りの想いは、生きていると湧き上がってしまうことがあります。一瞬であれば良いのですが、その想いが常に付きまとい、支配していると、魂のありさまを変えてしまいます。
怒りの想いは怒ることで表現されますが、憎しみ、恨み、嫉妬などの想いは、表現が難しく、うっ積してしまうことが多いと思われます。長い時間であればあるほど、強い想いであればあるほど、想いは多くうっ積し、魂のありさまが変化してしまいます。魂の変化は肉体の変化として表現され、病変となります。
ガンは、肉体的、精神的、霊的次元に存在する原因が複合的に働き、発生すると思われます。しかし、主因は霊的次元にあると考えています。
ここからは私なりの解釈になります。ガンが霊的次元での原因があると言うことが、前提となります。その根拠は、残念ながら提示することはできませんので、ご承知下さい。
ガンは、少々出来の悪い、粗暴な細胞ですが、あくまでも自分です。
そのガンという自分を作ったのは、自分です。
1つ1つの想いが、1つ1つのガン細胞に形を変えているように思えてなりません。
薬でガン細胞を完全に死滅させることができないのは、性質は異なっていても自分だからです。
たとえガンであっても神から与えられた肉体の一部であり、大切にしなければいけないのかもしれません。現代の治療法は、神から与えられた肉体を傷つける摂理に反した不自然な行為であるのかもしれません。薬で苦しむのは、自分で自分を傷つける罪の償いかもしれません。
ガン患者の数が増え続けているのは、神の摂理に反した考え方、生き方をする人が多くなったためであり、死亡者数の減少が認められないのは、不自然な治療、神の摂理に反した治療をしているためなのかもしれません。
ガンは肉体に表れた結果であり、主な原因は霊的次元にあると考えます。
従って、霊的次元での原因が取り除かれなければいけません。
霊的次元の原因とは、想いにあります。
想いには、摂理に適ったものと、反しているものがあります。
摂理に適った想いとは、「愛」の想いです。
摂理に反した想いとは、「愛」の対極にある、憎しみ、恨み、嫉妬、怒りなどの想いです。
想いは、精神を経由して、肉体で表現されます。
しかし、精神を経由する時に、強い抑制がかかると、想いを表現できなくなります。
また、想いが強すぎると、すべてを表現できなくなります。
表現して、外に表さないと、想いの摂理に反した、想いが滞ってしまい、うっ積していきます。
うっ積した想いは、魂に影響を与えます。
そして、魂のありさまが変わっていきます。
肉体は、魂を表現するものですから、肉体のありさまが変わります。
摂理に反した想いを抱き続けることにより、魂は次第に平和や調和や協調を失っていきます。
その結果、平和や協調や調和を失ったガン細胞が、摂理により発生し、増殖していきます。
ガンは霊的次元に原因がある病気であり、霊的次元での対応が必要と考えられます。
病気になったら、その事実を受け入れることは、何より重要です。
事実を知り、衝撃を受け、怖くなったり、不安になったりするのは、自然な反応です。しかし、その事実と向き合わず、逃げてしまっては、大切な魂の変化が始まりません。
すべての原因は自分にあることを認めて下さい。
他の誰のせいでもありまぜん。運が悪かったのでもありません。自らが種を蒔いています。その結果は医者ではなく、自らが刈り取らなければいけません。
何かが、間違っていたと思われます。
何かが、不自然だったと思われます。
神の摂理に反した考え方や生き方をしてきたことが原因となり、結果としてガンという病気になったと考えられます。
考え方に神の摂理(愛)に反したところがありませんでしたか?
長い間、何かを恨むことはありませんでしたか?
長い間、何かを憎むことはありませんでしたか?
長い間、何かを妬むことはありませんでしたか?
生き方に不自然なところはありませんでしたか?
良く眠れていましたか?
偏りなく、必要十分な食事を取っていましたか?
からだに無理を強いていませんでしたか?
からだを、粗末にしていませんでしたか?
欲が強すぎませんでしたか?
生きているだけでも幸せなことなのに、たくさんのことを求めていませんでしたか?無意味なものに振り回されていませんでしたか?人と比べて苦しみませんでしたか?
愛に欠けたところがありませんでしたか?
自分のことばかりを考えていませんでしたか?他の人との協調を大切にしていましたか?
いままで起こった出来事で、想いを封印してしまったことはありませんでしたか?
つらい出来事や、忌まわしい出来事を、早く忘れてしまおうと思い、正面から受け止めずに、受け流してしまいませんでしたか?
つらい出来事、困難なことを、(与えられた試練として受け止めずに)責任転嫁したり、逃げてしまいませんでしたか?
受け入れて、乗り越えなければいけなかったのかもしれません。病気になって、今、乗り越えているのかもしれません。
その出来事を、今、思い出してみて、どう思いますか?
怒り、憎しみ、恨み、哀しみ、嫉妬の想いがわきあがりますか?
はっきりと言葉にしてみてはどうでしょうか。思いっきり泣いても良いかもしれません。積もり積もった思いのたけを、誰かに聞いてもらうのも、とても良いことです。何かに向かって「バカやろー」と叫んでも良いと思います。
想いを溜め込まないこと、それが1番大切です。
いろいろと経験して、その時よりもずっと成長していますから、その出来事を事実として、今では受け入れることができるはずです。
それでも、受け入れようとすると、怒りや恨み哀しみなどの感情が、どうしてもわきあがってしまうでしょうか?
自分自身に良いことは一つもない。わかっていても、それでも湧き上がってしまいますか?
すべてを許す、許せる時がきたから病気になりました。病気になったのは許すためです。
人は誰も完璧ではありませんので、過ちを許してもらう時があるはずです。許してもらうのであれば、許さなければいけません。
どうしても、許せないことはありません。愛が少し足りないだけです。時が満ちていないだけです。
愛でしか、想いは手放ません。
もし、手放せたのであれば、それは生きてきた証です。成長の証です。魂が向上した証です。
魂の向上は、生きている目的そのものです。許すことは、愛すること。成長の証です。
想いが手放せたら、そこに愛(治癒力)が流れ込みます。
神の愛で、魂が癒されます。
そして肉体が癒され、病気が治癒します。
病気を進行させる力と、癒やす力は、方向が違うだけで、同じ神の力です。
想いが変われば、魂が変わり、肉体も変わります。
愛の想いで、魂は輝き、肉体も輝きを取り戻します。
この世は愛を学ぶために生きています。しかし、物質の存在があまりに大きいために、目に見えない愛に気付きにくく、表現もしにくくなります。
それがこの世ですが、愛がすべてであり、すべてが愛であることは間違いありません。
病気と愛は結びつきにくいのですが、苦痛こそが魂を呼び起こします。
魂は神の一部であり、神の心は愛です。そのため魂は愛を表現しようとします。
病気は魂を目覚めさせ、より大きな愛、真の愛を表現するためにあります。
痛み、苦しみが大きければ大きいほど、手に入れるものの価値は大きいはずです。
愛の大切さに気付いたのであれば、最も価値のあるものを手に入れたことになります。
すべての経験は、愛を知るためにあります。
2014年4月17日木曜日
神の摂理
私は神を信じていませんでした。生きていく上で、自分には関係ないと思っていたからです。神を信じる人は、どこかの宗教に属する、少し変わった人だと思っていました。
今、私は神を信じています。神の概念を語るには、あまりにも未熟ですが、すべてを考案し、創造し、統率している何者かがいるはずであり、それが神だと、おぼろげに分かります。自然が美しいのは、神の心が表れているためであり、秩序が保たれているは神の摂理(法則)が存在するためだと、思っています。
神は必要のないものを、創り出すはずもなく、すべてのものは明確な意味を持って存在していると考えられます。
地球上に生きる、人、動物、植物の1つ1つが、かかわり合い、調和しながら、意味を持って存在していると思います。
この世に存在しなくても良さそうな、戦争や病気はどうなのでしょうか?
戦争や病気を、不幸なことと片付けてしまえば、そこでお終いです。何らかの意味を持つものとして捉え、(神の)目的を理解するように努めた方が、前に進んでいけると考えています。
戦争は、決してあってはならないものです。人が傷つき、国土が破壊され、多くの悲劇が生みだされれます。そんな無益な戦争が起こってしまうのは、当たり前のことなのですが、集団や国家が協調や調和の精神を忘れ、自己の主張や利益を優先したためと考えられます。国家が神の摂理である「愛」を忘れたために起こり、その結果、国民に苦痛がもたらされます。
もし、神の摂理に適った「愛」が発揮されたのなら、飢えや貧困に苦しんでいる弱者に手を差し伸べる側となり、世界はもっと、やさしく、あたたかく、平和となり、戦争など起きるはずはありません。
戦争で、大きな苦痛を味わった人たちほど、心の底から平和を希求し、他国との友好を尊重するようになると考えられます。代償は大きいのですが、戦争により、友愛、調和や協調と言った、神の摂理(心)に気付くことになるとも言えます。
病気にも、明確な目的があると考えられます。すべての病気は結果であり、原因があります。その原因として環境や遺伝が挙げられますが、現代医学では説明ができない、原因不明の病気も数多くあります。
人を構成しているのは肉体だけはありません。肉体に命令を下している精神があります。その上位には、生命そのものであり、真の自己である、魂があります。五感には触れませんが、実在しています。
肉体は物理法則に支配されていますが、精神そして魂も、それぞれの法則(摂理)により支配されています。現在、西洋医学の対象は肉体だけであり、魂(霊)の存在は認めていませんので、精神的、霊的次元での原因は、残念ながら解明されていません。
見えないもの、検出できないものは存在しないと決め付けてしまうのは簡単ですが、病気の原因は精神的、霊的次元にあることが多いと思われ、多次元的に病気を理解することが、病気の治癒のため重要と思われます。
良くストレスが溜まると病気になると言われます。それは事実だと思いますが、正確には、ストレスにより生じた、表現されなかった想いが溜まると、魂(霊)が変化をきたし、その変化が病気として精神や肉体上に表れると言うことになります。
肉体は魂を表現している媒体です。想いが生まれ、精神を経由して、肉体で表現されています。おかしければ笑い、悲しければ泣きます。内の想いが外に表現されています。もし、魂(霊)のありさまに変化があれば、肉体のありさまに変化として表れます。
人生にはさまざまな出来事が起こり、さまざまな想いが生まれます。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、その他にも、たくさんの想いが生まれ、表情や言葉、そして行動となり、常に表現されています。
しかし、何らかの原因で抑制が働き、その想いを肉体で表現できなくなると、想いだけがうっ積していきます。心にいつもひっかかるもの、心に重くのしかかるものを感じるのは、うっ積した想いがあるからなのかもしれません。
想いを解放するために、話(想い)を聞いてもらったり、文章にしたり、からだを動かすのも有効です。
人によっては、うっ積して耐え切れなくなると、想い(感情)を爆発させることもあります。うっ積した想いを、一気に表現して手放すことになりますので、周りの人は大変ですが、本人はさっぱりします。
しかし、生きていると、そんなわけにはいきません。生活していくのに悲しんでいられない、理不尽なことをされても立場上文句は言えない、つらい胸の内を聞いてもらえる人が側にいないなど、想いを表現できない時は、いくらでもあります。
また、想いが強ければ強いほど、うまく表現ができなくなります。
表現されなかった想いが滞り、蓄積してしまうと、魂に影響を与えて変化が生じてしまい、その変化が、肉体上に病気として表れるとことになるかもしれません。
この世では、想いには実体はなく、影響力はないと考えてしまいますが、霊的次元は思念の世界であり、想いが実体であり、影響を及ぼしています。うっ積した想いが、怒り、憎しみ、妬み、恨み、貪欲といった、神の摂理に反したものであれば、魂に相応の変化が生じてしまいます。
病気は、変化した魂の反映であり、苦痛はその償いです。同時に、苦痛には、「生命」や「愛」といった神の摂理に気付かせるという大きな意味があります。摂理に気付けば、神とのつながりは深まり、魂は浄化され、肉体の病気は癒されていくと考えられます。
人生にはいろいろなことが起きます。想いを表現できない時もあると思います。では、どうすれば良いのか?
摂理に反した、怒り、憎しみ、妬み、恨み、貪欲といった想いを抱かないようにするしかありません。仕打ちを受けても許す、すべての事実を受け入れる、自分と違っていても認める、とても、とても難しいことですが、そうなれるように努力することが、生きている意味の一つだと思います。
時として、許すこと、受け入れること、認めることは、苦痛そのものとなりますが、もし、出来たのであれば、「愛」を表現していることになり、魂の向上が図られます。もし出来ずに、摂理に反した想いを抱いてしまえば、病気になるかもしれません。
繰り返しになりますが、病気は、神の摂理である「愛」に気付かせるため、生命の危機にさらされて、魂を目覚めさせるためにあります。
決して死に追いやるものではありません。
少し遠回りしたことになりますが、魂が向上した結果、今度同じことが起きたとしても、許せなかったことが許せるようになり、認められなかったことが認められるようになり、拒絶したことが受け入れられるようになると思われます。
どちらに進んだとしても、神とのつながりは絶たれていません。
神の摂理は完璧であり、自らに近づけるように導いていると思います。
2014年4月7日月曜日
ガンを癒す
色とりどりの花が咲く、季節がやってきました。田んぼのあぜ道には、レンゲがやさしく、美しい色合いで、可憐な花を咲かせます。あたたかな陽差しとともに、春という季節が来たことを実感します。
大自然の営みは、すべて神の摂理(法則)に従っています。摂理を知る、知らない、信じる、信じないにかかわらず、正確無比に働いています。人が生まれ、死ぬのも、季節が巡るのも、森羅万象のすべては神の摂理により支配されています。人々を苦しめている病気も例外ではありません。
植物が美しい花を咲かせるのは、見る人を喜ばせるためではなく、蜂などの虫たちを惹きつけて受粉させ、子孫を残すという明確な目的があります。人が病気になるのも、医学では解明されない、深層に原因があり、明確な目的があったとしてもおかしくありません。
全世界で優秀な科学者が、ガンの原因解明を目指して日々研究をしているにもかかわらず、残念ながら原因は不明のままです。現代医学では認められていない、肉体より高次にある魂に、根本的な原因があると仮定した方が、合理的な説明ができると考えています。
魂は肉体の上位にあり、精神と肉体を支配しています。また、肉体は魂を表現する道具であり、媒体です。魂の変化は、肉体の変化として表現されます。従って、ガンという病変は、魂の変化を表していることになります。花が色鮮やかに咲いて、虫たちに存在を知らせているように、ガンは魂のありさまの変化を肉体上で分かるかたちとなって表れ、知らせています。
ガンを癒すためには、まず魂を癒さなければいけません。過去の出来事を振り返り、その時にどういう想いを抱き、どう行動したのかを省みる必要があります。
繰り返しますが、肉体は魂を表現するためにあります。魂の想いは、肉体を道具として、言葉や行動により表現されます。うれしいことがあると笑顔になり、うれし過ぎて涙を流して泣くこともあります。怒りがあれば、表情や言葉や行動で、想いを表すこともあります。また、困っている人がいたら助けたり、悲しいんでいる人を慰めるのも、魂の表現であり、心(精神)を経由して、肉体で表現しています。
しかし、悲しくても泣けなかったり、怒りを言葉や行動で表せなかったり、悔しい胸の内を聞いてもらえなかったりすると、想いが外に出ずに内に滞っていきます。想いが素直に表現できていれば問題はありませんが、うまく表せない状態が続けば、表現できなかった想いがうっ積していき、魂のありさまを変えてしまいます。悲しいことやつらいことがあると、多くの人は涙を流して泣きます。特に女性は涙を流して泣く人も多いようです。感情表現というよりも、泣くという行為により肉体で表現して、つらい想いを内に溜め込まないで、外に吐き出していると考えられます。心や魂の健全さを保つために、無意識にしているのかもしれません。喜びの想いであれば、たとえうまく表現できなくても心配はないのですが、とてもつらいことを経験し、その想いをうまく表現できずにいると、後に問題となるかもしれません。なぜなら、つらい経験からは、怒り、恨み、憎しみ、悲しみ、嘆きなど、神の摂理に反した想いが生じやすくなり、魂のありさまを変えてしまうかもしれないからです。魂のありさまが変われば、病気として肉体に表れることになります。ただ、怒りや恨みや憎しみなどの想いを、言葉や行いで表わすことも、摂理に反していますので、因果律が働いて、何らかのかたちで苦痛を経験して、償わなければいけなくなります。
ガンという病巣は、うっ積した想いが形を変えて、肉体上に表れたものだと考えられます。
もしそうだとすれば、うっ積した想いを手放してしまえば、肉体の病巣もなくなることになります。うっ積した想いを手放すためには、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬の想いから、解放されなければいけません。解放されるためには、魂の向上が必要となってきます。病気の苦痛には、魂を向上させ、目覚めさるという、大切な意味がありますので、手放したい苦痛こそが、うっ積した想いを手放すために必要であり、魂を浄化させていると考えられます。また、ガンの苦痛により、生命である魂に目覚めれば、魂は神の一部であるため、神の心である愛に目覚めて、表現しようとします。そして、愛に目覚めた時に、怒り、憎しみ、恨み、嫉妬から解放され、つらい出来事を受け入れて、許し、その結果、うっ積した想いが手放されて、肉体の病変はなくなると考えられます。
ガンは肉体を死に至らせる病ではありません。肉体や精神の苦痛は、耐えがたいものに感じられるかもしれませんが、魂に目覚めさせ、愛に目覚めさせるためにあります。乗り越えられない苦難は与えられませんので、ガンになった人は、魂に目覚めて、愛の大切さに気付ける人だと言うことになります。愛の大切さに気付けば、考え方や生き方は摂理に適ったものとなっていきます。そして、神とのつながりが深くなり、霊力(生命力)がふんだんに魂に流れ込みます。魂が癒され、その結果、肉体が癒されると考えられます。
ガンに対する認識の大転換が必要かもしれません。肉体上のガンは、魂のありさまの変化を表わし、しこりは見えざる想いの塊が表現されたものと思われます。自分の一部であることに変わりなく、敵対してはいけません。大切なことを教えてくれて、魂を良い方向に導くものと考えられます。したがって、怖がる必要など、全くありません。
忌み嫌ったり、憎んだりではいけません。その想いが、ガンそのものであり、勢いを増してしまいます。そして、摂理に適った「愛」の想いにより、勢いは失われます。
信じられないかもしれませんが、苦痛は病を癒やすためにあり、怖れ、憎むのではなく、愛することでガンが癒されるということになります。
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