人は何のために生きているのか?死んだ後はどうなるのか?その明確な答えが「シルバーバーチの霊訓」の中にありました。本当の自分とは魂です。この世を生きるたった1つの目的は、魂を成長させるためです。人生で出会う障害や苦難を乗り越えること、人や動物そして社会のために奉仕することで、魂は成長していきます。死んだ後、魂は次の世界に移り、この世を振り返る時が必ず来ます。悔いのない様に、失敗を怖れず、今を大切にして生きましょう。
2013年10月26日土曜日
苦難は不幸なことではない
人は、様々な悩みや苦しみを抱えながら生きています。
どんなに避けようと思っても、人は生きている限り苦難に遭遇することになっています。
なぜなら生きる目的は魂を向上させるためであり、苦難に立ち向かい乗り越えようとすることにより、向上が計られるからです。
だいぶ昔の話になりますが、学生時代に1番いやなものはやはり試験でした。
その期間だけは自由を奪われ勉強を強いられ、点数で評価されるからです。
こんなのものがなければいいのにと、何度思ったことでしょうか。
しかし、今、振り返ってみると、実は真剣に学習するために、必要なきっかけであったように思えます。
もし、試験がなくなれば、もろ手を挙げて喜んだかもしれませんが、緊張感がなくなり勉強に身が入らず、学ぶことも学ばずに卒業することになったのかもしれません。
少なくても、私の場合はそうです。
それと同じで、もしもこの世で苦難がなかったとしたら、一見すると安楽で幸せそうな人生に思えますが、立ち向かって乗り越えようと奮闘努力することはなく、そこから学び取ることもありません。
そして、目覚める機会がなくなった魂は眠り続けたままとなり、向上することができません。
従って、「生まれてきた意味を成就するために苦難がある」ということになります。
私も、40代半ばでかつてない苦難が訪れました。
一刻も早く抜け出したいとばかり思っていましたが、予想に反して状況は悪化していきました。
そして、最悪の結末を迎えることが現実味を帯びてきて、経験したことのない惨めさと後悔と不安の思いの中で、「シルバーバーチの霊訓」と出会い、貪るように読んでいきました。
晴れた日の山登りに、避難所は必要ありません。
しかし、嵐が吹きすさぶ時には、安心できる場所を捜し求めます。
襲ってきた嵐(苦難)から身を守ってくれたのは、「霊的真理」という堅牢な山小屋でした。
地上で起こるいかなる嵐からも守ってくれます。
山小屋に逃げ込み嵐が去り出てきた時に、新しい自分になっていました。
そして、「苦難は因果律の結果」であり、「この苦難は不幸ではなく、大切なことに気付き、真の自分を見出すためにあった」と思いました。
前にも書きましたが、ふいの治癒力の発現と、経験したことのない苦難の始まりが、わずか1ヶ月の間に続けて起きたことは、「何らかの計画があり、それに沿って生きている」ことを自覚するためであったと確信しています。
シルバーバーチは、「計画」のことをブループリント(青写真)と呼んでいますが、私だけでなくすべての人に、あらかじめ決まっていた計画があり、それに沿って生きています。
計画の目的は、魂を向上させるためですが、人には自由意志があるため計画通りに行くとは限りません。
遭遇した苦難が、あらかじめ決まっていた計画なのか、この世で摂理に背き作ってしまった原因に対する結果なのか、はっきりと知ることは出来ません。
ただ、今回の経験から、あらかじめ計画されていた事象と因果律で生じる苦難が、魂を目覚めさせるため絶妙のタイミングで組み合わさっていると感じました。
苦難の始まりでは、早めに回避しようと頭で対策を考えます。
事態が悪化していくと他者に助けを求めたり、あらゆる手段を講じて何とかならないかと考えます。
どんなに考えてもどうにもならないことがわかりはじめると、思考が停止して、奥深いところである「魂」が前面に出てきます。
肉体(頭脳)の上位に存在する真の自分であり、思考に代わって、直感として進むべき方向を指示していきます。
頭で考えることは、他人の言動に影響を受けたり、権威に弱かったり、情緒に流されたりして、移ろい易いものです。
しかし、魂の声である直感は、奥深いところにある正直な自分の気持ちや願望であり、素直に従えばたとえどの様な結果になったとしても、後悔することはないでしょう。
また直感は、この世に生きる私たちを、暖かく見守る存在から送られた思念であることも少なくありません。
より良き人生を歩むために、常に導いてくれているありがたい存在です。
霊的な視点から眺めていますので、魂の向上にとって最善の選択をするように働きかけます。
苦難が降りかかってきても、運が悪かったと自分を納得させてはいけません。
ましてや人や社会のせいにしてはいけません。
そして苦難から逃げ出しては決していけません。
どちらも魂が向上する機会を自ら放棄したことになり、生まれてきた意味を1つ失うことになるからです。
どんなに苦しくても、つらくても、痛くても、必ず乗り越えられます。
乗り越えられる苦難しか与えられません。
乗り越えられる人だからこそ与えらたのです。
嵐は去り、陽が差し込む時が必ずきます。
つらくて耐えられない時は、こう言い聞かせてください。
自分(魂)が成長するために、この経験がどうしても必要なのだと。
2013年10月19日土曜日
病気になった意味
内面にあるものは外面に出ます。
悲しくなると泣く、おかしくなったら笑う、恥ずかしくなったら顔が赤くなる、心に思ったこと感じたことは肉体で表現されます。
そうであるならば病気も内面にある何かが、肉体に上に表現されていると考えてもおかしくありません。
例えば、「ガン」はどうでしょう?
正常な細胞と違い、無秩序に分裂を繰り返し増殖してく病気であり、周りの組織を押しのけて拡がり、ちぎれて遠隔地に転移をする、人体との協調性もなく調和もない、言わばわがままな細胞の塊です。
摂理に背いた悪感情を長く持ち続けると、人は病気になります。
悲しみをいつまでも引きずっていたり、憎しみや恨みや嫉妬心で、心が埋め尽くされていたり、欲を張った心や落ち着きを欠く心も、病気の原因となります。
内面にある魂は、外面にある肉体の上位にあり、肉体は魂に従います。
不健全な魂のありさまは、肉体に病気として顕れます。
もしかしたら肉体に顕れているガンは、平和、協調、調和を失いかけた魂の反映であるのかもしれません。
つまり、人体の調和を乱すガンを生みだしているのは、調和を乱しかけた心であり魂である可能性があります。
もちろん、遺伝的素因により乳ガンや大腸ガンになったり、タバコ、放射線などの外的要因によりガンが発生しやすくなるのは確かなことです。
また、摂理に適った生活をしている人でも、耐えなければならない試練(予定されたこと)として、ガンを経験しなければならないこともあるでしょう。
しかし、多くは摂理に背いた心を抱き続けていたことによってガンが生じたのではないかと考えています。
最愛の人を失ったら悲しくなるのは当然です。
信じている人に裏切られたら、憎しみを覚えてしまうこともあるでしょう。
突然、職を失ったら挫折感を感じてしまうかもしれません。
しかし、好ましくない感情にいつまでもとらわれていると、自然治癒力(生命力)を十分に受け取ることが出来なくなり、病気を発症させることになります。
ちなみにヒーリングは、患者に治癒(生命)力を強制的に注入する行為であり、自然治癒力が実在することを証明するものでもあります。
病気になると苦痛や不自由さを伴いますので、そこから何とか抜け出そうとします。
医者にかかったり、生活習慣を変えてみたりするなど、病気を治すことにどうしても意識が向きますので、結果的に摂理に背いた悪感情を抱かなくなります。
誤った価値観、不自然な考え方や生活習慣は、人から忠告を受けたりしてもなかなか変えることはできません。
根底から変えるためには、何か強烈な体験が必要となってきます。
ガンは、(地上の)生命を脅かす病気であり、人には理解してもらえない痛みやつらさを伴いますので、心より深いところにある魂にまで響きます。
健康な時に気付かなかった、真に大切なことを呼び起こさせることになります。
真に大切なこととは「命」であり「愛」です。いずれも肉体を超えた霊的次元のものです。
ほとんどの人が、目に映るもの、証明されたものしか信じないのは、科学を信奉する現代社会において当然なことなのかもしれません。
しかし、科学は叡智を結集してもなお、「生命」をとらえることができません。
それは、生命とは肉体を超えた「魂」であるからです。
もし、科学で証明されないものを否定するならば、「愛」は存在しないことになります。
生命は肉体であり、誕生とともに生まれ死とともに消滅するということであれば、生きている意味はきわめて希薄になり、「愛」の入り込む余地はありません。
生命は魂であり、魂の向上のために、この世に生まれてきました。
そのつらさも痛みも、魂の向上のためにあります。
内面(魂)にあるものが、外面(肉体)に顕れ、外面に顕れたもの(病気)により、内面(魂)を知ることになります。
2013年10月12日土曜日
病気の根本原因とは
今までの多くの病気の方にヒーリングをしてきました。
治癒する方もいれば、効果が認められない方もいますが、どちらの方にも分け隔てなく治癒力は流れていきます。
治癒力により病気が癒され、悦びやさすらぎの表情に変わるのをこの目で見てきました。
治癒力の源が神であり、癒やしが御心であるならば、「神は愛」であり、流れていく力は「神の愛」と思わざるを得ません。
すべての人は学ぶべきものを学び、果たすべきことを果たすために、この世に生まれてきたのであり、目的が達成されたらこの世を去っていきます。
摂理に則った生き方をしていれば、シルバーバーチが言うように熟した果実が落ちるがごとく、自然に苦しまず、あの世に旅立って行きます。
しかし現実には病気を進行させ、まだ(魂が)熟していないうちに、苦しんだ末に死を迎えてしまう人が数多くいます。
私の周りを見ても、若くして病気で亡くなった方が多くいますが、ほとんどの方は家族や会社のために勤勉に働いていて、あと何十年かはこの世で喜びや悲しみ、楽しみや苦しみを経験するはずであったろうと思われます。
とても肉体の死をもって償うほど大きな過ちを犯したとは考えられず、健康な私たちとの差はわずかと思われます。
では、なぜ死んでしまうのかを考えてみると、「病気の原因や治療を肉体次元のみで考えてしまう(霊的)知識の欠如にある」という結論にいたりました。
ある人ががんになったとします。
その人は結婚をして出産し、家族のために家事と子育てを懸命にして生きてきました。
子育てが一段落したところでからだの異常に気付き医者に診てもらいます。
診断はがんで手術を勧められます。選択肢は他になかったので摘出手術を受け、化学療法も併用しました。
数年後、がんの転移が見つかりましたが、転移がんは手術の適応でないので、抗がん剤治療を始めました。
抗がん剤治療によりがんは縮小傾向にありましたが、副作用のためつらい日々を堪えねばなりませんでした。
そして徐々に抗がん剤が効きにくくなり、がんは再び大きくなり始めます。
医者は別の抗がん剤を勧め、わらにもすがる想いで治療を受けます。
そして治療の甲斐もなく亡くなったとします。
患者も医者も、病気を治したい一心な気持ちだけでした。
肉体を犠牲にするような大きな原因(カルマ)を作ってしまったとは、どうしても思えません。
この世で果たさなければならないことがまだあるとしたら、たとえ摂理に背き病気になったとしても、相応の苦痛を経験した後に、その機会が与えられると思います。
それにもかかわらず死という転帰をとるのは、何かが間違っているとしか思えません。
病気は摂理に背いた結果であり、苦痛は過ちに気付かせるための触媒です。
たとえ、手術で除去したとしても、肉体上に顕れた結果(病巣)を取り除いたに過ぎず、根本にある霊的次元での原因は依然としてそのままです。
原因がそのままであれば、それを気付かせるためにまた病気になり、苦痛を経験することになります。
まず、原因が何にあるのか、過去を静かに振り返り突き止める必要があります。
例えば、失職し挫折感を味わった、配偶者の裏切りで強い憎しみを覚えた、愛する人を失い深い悲しみが長く続いたなど、心よりさらに深いところにある魂にまで影響を及ぼす出来事がなかったかを検証します。
その時に、陰湿な感情に長くとらわれたり、相手の言動に深く傷つけられたりすると、時として病気という形で肉体に顕れることもあります。
もし相手を傷つける言動をしていれば、自らが病気となり、相手が傷ついて苦しんだのと同等の苦痛を経験しているのかもしれません。
中には人を平気で傷つけていても病気にならない人がいますが、「蒔いた種を自らが刈り取る」という摂理から逃れられる人はいません。
生まれ変わってから、あるいは病気とは違う形で相応の苦痛を必ず経験することになります。
病気になったのは偶然ではありません。
何らかの誤りに気付き、大切なことを学ぶために与えられた契機です。
自分のことしか考えず生きてきた人だったとしても、病気になり大きな苦痛を味わったら、同じ病気で苦しむ人に対して同情の気持ちが生まれます。
それは他者のことを思いやるという大切なことを学んだことになります。
その思いやる気持ちがさらに昇華し、慈愛の想いに変わり、やさしく人に接し、見返りを求めない善行を重ねていくうちに罪は償われて、病気は快方に向かっていくと思われます。
神の御心は愛です。
すべての人に償いの機会はいつでも与えられています。
摂理に背いて病気になったのであれば、摂理に適った慈愛と感謝の心で、世の中や人のために生き、欲を張らず、穏やかに過ごすことにより、少しずつ原因が取り除かれていき、必ず病気は良くなっていくと思います。
あまりにも(肉体の)病気を治すことだけにとらわれ過ぎると、引き起こした真の原因を振り返ることがなくなり、根本から治す機会を失ってしまいます。
多くの人が病気にならないために、また病気を治すために「シルバーバーチの霊訓」に代表される霊的真理を知ることは必要不可欠だと強く思います。